【ふるさとを返せ 津島原発訴訟】孫想う祖母「なぜ『ばい菌』扱いされねば…」。再出発の鍼灸院奪われた全盲男性「憤りはくすぶり続けたまま」~第5回口頭弁論
- 2017/01/21
- 06:35
原発事故で帰還困難区域に指定された福島県浪江町津島地区の住民たちが国や東電に原状回復と完全賠償を求める「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」の第5回口頭弁論が20日午後、福島地裁郡山支部(上拂大作裁判長)で開かれた。男女2人の原告が意見陳述。慣れぬ中通りの学校で酷い仕打ちを受けた孫への想いを女性が語れば、事故で両目の視力を失った男性が再出発の鍼灸院も自宅も原発事故に奪われたと憤りを述べた。共通するのは「原発事故さえなければ…」の怒り。そして、自然豊かな故郷を失った哀しみ。原発事故がもたらす被害の大きさが凝縮された意見陳述だった。次回期日は3月17日14時。
【「孫たちは何も悪くない」】
「おらにとって、ふるさと津島は大切です」
緊張で伏し目がちだった女性(66)はしかし、意見陳述が始まると背筋をピンと伸ばし、良く通る声で「おら」の想いを話した。
母代りとして育ててきた4人の孫。小学校1、2年生だった長男と次男は地域の伝統芸能「三匹獅子」に参加していた。原発事故の前年の秋祭りでも神社の境内で踊り、「来年もやるんだ」と張り切っていた。喜びと自信に満ちていた。しかし、「来年」はやって来なかった。原発が爆発したからだ。
避難を開始したのは遅かった。「テレビでも『家の中に居れば大丈夫』と言っていたから」。町役場の職員や自衛隊員に促されるように津島を離れたのが3月25日。「その時、初めて津島が危険だと分かった」。避難所を転々とする中で息子夫婦は離婚。ようやく落ち着けると思った中通りの仮設住宅で今度は、孫たちが厳しい仕打ちを受けた。
長男の体操着が毎日のように汚れている。理由を尋ねると重い口を開いた。「同級生が体操着で床や机を雑巾がけするんだ」。同じ小学校に通っていた次男にも異変が起きた。食事が喉を通らなくなり、見る見る痩せていった。学校から帰って来ても、トイレに入ったまま何時間も出て来なくなってしまった。次男は何も語らない。女性はやむなく、2人を中通りの別の市の小学校に転校させた。そこでようやく、次男の身に起きていた事を知った。
「名前に『菌』を付けて呼ばれ、『こっち来るな』とばい菌扱いされていた」、「誰も友達になってくれなかった」
女性は悔やんだ。「なんで気付いてやれなかったんだろう」。所持品まで同級生に取り上げられ、それを打ち明けられず一人苦しんでいた次男。中学生になった今でも心の傷は癒えていない。原発事故さえなければ…。「津島では学校に馴染めないとか、友達ができないという心配は無かった。孫たちは何も悪くない。なぜ津島の友達と離れ、慣れない学校に通い、ばい菌扱いされなければならないのか」。
孫たちが受けた仕打ちを法廷で話すべきか迷った。しかし、原発事故への怒りを語ろうとする時、避けては通れないのもまた、事実だった。故郷を奪われ、孫たちの穏やかな日々も壊された。祖母であり母である女性は言った。「おらにとって、ふるさと津島は大切です。孫たちは今でも『津島に居た方が良かった』、『津島の神社に行きたいな』と言っています。おらは原状回復を求める裁判に参加して、その姿を孫たちに見せたいです」。
最後まで背筋はピンと伸びていた。


(上)集会で拳を振り上げる男性。作業中の事故で両目の視力を失い、31歳で浪江町初の鍼灸専門治療院を開業して再起を果たしたが、原発事故でやむなく廃業。自宅も故郷も仕事も奪われた憤りを法廷で語った
(下)原告団長の今野秀則さん。郡山駅前では原告団の想いや訴訟の意義を道行く人々に訴えた。寒風で手がかじかむ
【原発事故で鍼灸院廃業】
妻に付き添われて原告席に座った男性(68)は、法廷内の様子も裁判長の表情も目で見て確かめる事が出来ない。福島県立小高工業高校を卒業後、化学メーカーに就職。神奈川県内での作業中に、噴出した有機酸を浴びる大事故で両目の視力を失った。この時23歳。五度の角膜移植手術を受けたが光は戻らなかった。「もっと行きたかったであろう5人の角膜提供者に深く感謝し、忘れずに生きて行こうと思いました」。
失意の中、鍼灸師を目指した。「視力が無くても、生まれ育った土地であれば知り合いも多く土地勘もあり、生活して行かれると思ったからです」。国立東京視力障害者センターで3年間学び、国家試験に合格。浪江町初の鍼灸専門治療院を町の中心部に開設した。31歳での再出発だった。
結婚し、2人の子どもにも恵まれた。口コミで広まった鍼灸院の評判は、浜通りばかりでなく川俣町や田村市にまで及んだ。妻は津島にある実家のシイタケ栽培を手伝った。子どもたちも週末になると津島を訪れ、山や川で遊んだ。男性も自宅の裏山を愛犬と何時間も歩いた。「子どもの頃から山の中も知り尽くしていますから」。
2005年。生まれ育った津島に家を建てて父親と同居した。視力は失ったが新たな生きがいを得た。しかし、故郷に帰って来た男性を今度は原発事故が襲いかかった。鍼灸院から津島の自宅へ。そして二本松市内の避難所、長男の暮らす新潟と転々とした。不自由ばかりの避難生活でストレスがたまっていった。新潟に移っても土地勘が無く、自由に歩き回る事が出来ない。部屋に閉じこもるようになり、運動不足もあって血圧が上がった。南相馬市内の病院に入院中だった妻と再会できたのは2011年5月末になってから。現在は福島県の中通りで妻と暮らしているが、やはり浪江町に居た頃のように1人で自由に歩く事は出来なくなってしまった。多くの人に愛された鍼灸院は、無念のうちに廃業した。
脳裏に焼き付いている津島の風景。冬でもヤマメの渓流釣りに夢中になった。「私にもう一度、人生の再出発を与えてくれた土地。津島の自然は奪われてしまい、生きがいと社会との接点をくれた仕事も奪われてしまいました。不条理に対する怒りは今も熾火(おきび)の如く、胸底にくすぶり続けています」。
4ページに及ぶ意見陳述を男性は丸暗記した。「公正なる司法の判断を待ちたい」。原発事故は金では絶対に買えない多くのものを奪ったのだ。


雪の残る郡山市内をデモ行進した原告たち。「お金の問題ではありません。私たちを当たり前の生活に戻してください」と訴えた
【「DASH村」で津島を復興?】
口頭弁論では、3人の原告代理人弁護士が大津波の予見可能性や被曝による精神的賠償の合理性について意見を述べた。3月17日に予定されている第6回口頭弁論では、原発事故前の津島地区の様子を収録した30分程度の映像を法廷で流すという。
開廷に先立ち、郡山市内をデモ行進した原告たちは「お金の問題では無い。元の生活と豊かな自然を返して欲しいだけ」と拳を振り上げた。郡山駅前でも「汚染された故郷を、どうしても取り戻したいんです」、「生まれ育った、住み慣れた故郷が恋しいです。帰りたいです」、「父や母、おじいさん、おばあさんの眠る墓を守って、次の世代に引き継いでいきたいです」、「私たちの進行に寄り添ってください」などとマイクを握って訴えた。寒風で原告の手はかじかんだ。
法廷の傍聴席で、原告の女性が呆れたように言った。
「急にDASH村の話題が持ち上がってるけど、それどころでは無いでしょうに。まだこうして裁判も続いているのに。とにかく汚染も被害も避難も無かった事にしたいのでしょうね。東京五輪も迫ってますからね。酷い話です」
高木陽介経済産業副大臣が今月に入り、地元紙のインタビューに「帰還困難区域の解除に向けて一歩踏み出して前進する中、DASH村の復興に向けた手だてがあるのではないかということについて協議を始めたい。帰還困難区域の復興の大きな柱にできないかと考えている」と答えた。
テレビ番組の企画の舞台となった津島地区は、今も高濃度汚染が解消されないまま。あと5年で何が変わるのか。部分的に除染を実施したとして、周囲が汚染されたままの状態で〝復興〟と呼べるのか。疑問視する声はさすがに多く、自民党福島県支部連合会(会長:根本匠衆院議員、元復興大臣)は今月13日、公式ツイッターで「昨日の福島民友、福島民報の新聞記事を引用した、DASH村に関するツイートは、副大臣の個人的な考えが新聞紙上に掲載されたものであり、党としての考えでないため、多方面に誤解を招くことから、削除させていただきました」と書き込んだほどだ。
東京五輪で復興をアピールしようとも、国道6号で華々しく聖火リレーを行おうとも、奪われた故郷は戻らない。津島の人々の喪失感は、決して「アンダーコントロール」では無い。
(了)
【「孫たちは何も悪くない」】
「おらにとって、ふるさと津島は大切です」
緊張で伏し目がちだった女性(66)はしかし、意見陳述が始まると背筋をピンと伸ばし、良く通る声で「おら」の想いを話した。
母代りとして育ててきた4人の孫。小学校1、2年生だった長男と次男は地域の伝統芸能「三匹獅子」に参加していた。原発事故の前年の秋祭りでも神社の境内で踊り、「来年もやるんだ」と張り切っていた。喜びと自信に満ちていた。しかし、「来年」はやって来なかった。原発が爆発したからだ。
避難を開始したのは遅かった。「テレビでも『家の中に居れば大丈夫』と言っていたから」。町役場の職員や自衛隊員に促されるように津島を離れたのが3月25日。「その時、初めて津島が危険だと分かった」。避難所を転々とする中で息子夫婦は離婚。ようやく落ち着けると思った中通りの仮設住宅で今度は、孫たちが厳しい仕打ちを受けた。
長男の体操着が毎日のように汚れている。理由を尋ねると重い口を開いた。「同級生が体操着で床や机を雑巾がけするんだ」。同じ小学校に通っていた次男にも異変が起きた。食事が喉を通らなくなり、見る見る痩せていった。学校から帰って来ても、トイレに入ったまま何時間も出て来なくなってしまった。次男は何も語らない。女性はやむなく、2人を中通りの別の市の小学校に転校させた。そこでようやく、次男の身に起きていた事を知った。
「名前に『菌』を付けて呼ばれ、『こっち来るな』とばい菌扱いされていた」、「誰も友達になってくれなかった」
女性は悔やんだ。「なんで気付いてやれなかったんだろう」。所持品まで同級生に取り上げられ、それを打ち明けられず一人苦しんでいた次男。中学生になった今でも心の傷は癒えていない。原発事故さえなければ…。「津島では学校に馴染めないとか、友達ができないという心配は無かった。孫たちは何も悪くない。なぜ津島の友達と離れ、慣れない学校に通い、ばい菌扱いされなければならないのか」。
孫たちが受けた仕打ちを法廷で話すべきか迷った。しかし、原発事故への怒りを語ろうとする時、避けては通れないのもまた、事実だった。故郷を奪われ、孫たちの穏やかな日々も壊された。祖母であり母である女性は言った。「おらにとって、ふるさと津島は大切です。孫たちは今でも『津島に居た方が良かった』、『津島の神社に行きたいな』と言っています。おらは原状回復を求める裁判に参加して、その姿を孫たちに見せたいです」。
最後まで背筋はピンと伸びていた。


(上)集会で拳を振り上げる男性。作業中の事故で両目の視力を失い、31歳で浪江町初の鍼灸専門治療院を開業して再起を果たしたが、原発事故でやむなく廃業。自宅も故郷も仕事も奪われた憤りを法廷で語った
(下)原告団長の今野秀則さん。郡山駅前では原告団の想いや訴訟の意義を道行く人々に訴えた。寒風で手がかじかむ
【原発事故で鍼灸院廃業】
妻に付き添われて原告席に座った男性(68)は、法廷内の様子も裁判長の表情も目で見て確かめる事が出来ない。福島県立小高工業高校を卒業後、化学メーカーに就職。神奈川県内での作業中に、噴出した有機酸を浴びる大事故で両目の視力を失った。この時23歳。五度の角膜移植手術を受けたが光は戻らなかった。「もっと行きたかったであろう5人の角膜提供者に深く感謝し、忘れずに生きて行こうと思いました」。
失意の中、鍼灸師を目指した。「視力が無くても、生まれ育った土地であれば知り合いも多く土地勘もあり、生活して行かれると思ったからです」。国立東京視力障害者センターで3年間学び、国家試験に合格。浪江町初の鍼灸専門治療院を町の中心部に開設した。31歳での再出発だった。
結婚し、2人の子どもにも恵まれた。口コミで広まった鍼灸院の評判は、浜通りばかりでなく川俣町や田村市にまで及んだ。妻は津島にある実家のシイタケ栽培を手伝った。子どもたちも週末になると津島を訪れ、山や川で遊んだ。男性も自宅の裏山を愛犬と何時間も歩いた。「子どもの頃から山の中も知り尽くしていますから」。
2005年。生まれ育った津島に家を建てて父親と同居した。視力は失ったが新たな生きがいを得た。しかし、故郷に帰って来た男性を今度は原発事故が襲いかかった。鍼灸院から津島の自宅へ。そして二本松市内の避難所、長男の暮らす新潟と転々とした。不自由ばかりの避難生活でストレスがたまっていった。新潟に移っても土地勘が無く、自由に歩き回る事が出来ない。部屋に閉じこもるようになり、運動不足もあって血圧が上がった。南相馬市内の病院に入院中だった妻と再会できたのは2011年5月末になってから。現在は福島県の中通りで妻と暮らしているが、やはり浪江町に居た頃のように1人で自由に歩く事は出来なくなってしまった。多くの人に愛された鍼灸院は、無念のうちに廃業した。
脳裏に焼き付いている津島の風景。冬でもヤマメの渓流釣りに夢中になった。「私にもう一度、人生の再出発を与えてくれた土地。津島の自然は奪われてしまい、生きがいと社会との接点をくれた仕事も奪われてしまいました。不条理に対する怒りは今も熾火(おきび)の如く、胸底にくすぶり続けています」。
4ページに及ぶ意見陳述を男性は丸暗記した。「公正なる司法の判断を待ちたい」。原発事故は金では絶対に買えない多くのものを奪ったのだ。


雪の残る郡山市内をデモ行進した原告たち。「お金の問題ではありません。私たちを当たり前の生活に戻してください」と訴えた
【「DASH村」で津島を復興?】
口頭弁論では、3人の原告代理人弁護士が大津波の予見可能性や被曝による精神的賠償の合理性について意見を述べた。3月17日に予定されている第6回口頭弁論では、原発事故前の津島地区の様子を収録した30分程度の映像を法廷で流すという。
開廷に先立ち、郡山市内をデモ行進した原告たちは「お金の問題では無い。元の生活と豊かな自然を返して欲しいだけ」と拳を振り上げた。郡山駅前でも「汚染された故郷を、どうしても取り戻したいんです」、「生まれ育った、住み慣れた故郷が恋しいです。帰りたいです」、「父や母、おじいさん、おばあさんの眠る墓を守って、次の世代に引き継いでいきたいです」、「私たちの進行に寄り添ってください」などとマイクを握って訴えた。寒風で原告の手はかじかんだ。
法廷の傍聴席で、原告の女性が呆れたように言った。
「急にDASH村の話題が持ち上がってるけど、それどころでは無いでしょうに。まだこうして裁判も続いているのに。とにかく汚染も被害も避難も無かった事にしたいのでしょうね。東京五輪も迫ってますからね。酷い話です」
高木陽介経済産業副大臣が今月に入り、地元紙のインタビューに「帰還困難区域の解除に向けて一歩踏み出して前進する中、DASH村の復興に向けた手だてがあるのではないかということについて協議を始めたい。帰還困難区域の復興の大きな柱にできないかと考えている」と答えた。
テレビ番組の企画の舞台となった津島地区は、今も高濃度汚染が解消されないまま。あと5年で何が変わるのか。部分的に除染を実施したとして、周囲が汚染されたままの状態で〝復興〟と呼べるのか。疑問視する声はさすがに多く、自民党福島県支部連合会(会長:根本匠衆院議員、元復興大臣)は今月13日、公式ツイッターで「昨日の福島民友、福島民報の新聞記事を引用した、DASH村に関するツイートは、副大臣の個人的な考えが新聞紙上に掲載されたものであり、党としての考えでないため、多方面に誤解を招くことから、削除させていただきました」と書き込んだほどだ。
東京五輪で復興をアピールしようとも、国道6号で華々しく聖火リレーを行おうとも、奪われた故郷は戻らない。津島の人々の喪失感は、決して「アンダーコントロール」では無い。
(了)
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