【福島原発かながわ訴訟】原発事故で「天国から地獄」。内定を取り消された長女。続く汚染。「0.7μSv/hでは富岡町に帰れぬ」。母が涙ながらの意見陳述
- 2017/01/26
- 06:24
「福島原発かながわ訴訟」の第19回口頭弁論が25日午後、横浜地裁101号法廷(中平健裁判長)で開かれ、福島県富岡町から娘たちと避難した小畑まゆみさん(57)が意見陳述。原発事故で娘の仕事もわが家も地域も奪われた怒りや悲しみを涙ながらに訴えた。次回期日は3月23日13時半。異動で裁判長が交代したため、原告団長・村田弘さんによる意見陳述も含めた原告、被告双方の更新弁論が行われる。4月25日の口頭弁論では、現役官僚の名倉繁樹氏(旧原子力安全・保安院の原子力発電安全審査課審査官)に対する証人尋問が行われる事も正式に決まった。
【「夢も健康も地域も奪われた」】
こんな酷い仕打ちがあるだろうか。
当時18歳だった長女は、地元ビジネスホテルのフロント係として働くべく内定を得ていた。就職が決まったのが2011年3月10日。まさか翌日に未曽有の大地震が起ころうとは。まさか、〝絶対安全〟だった原発で爆発事故が起ころうとは。
「原発事故から数日経って会社に電話をかけると、長女は『会社自体がどうなるか分からず、内定は取り消さざるを得ない』と言われました。そして後日、内定取り消しの書類が郵送されてきました」
小畑さんは閉廷後の報告集会でも、原発事故によって振り回された子どもたちについて触れた。「18歳の子どもにこんな苦しみを味わわせるのが原発事故なんです。小学6年生だった末娘は、卒業式で送り出してもらう事が叶いませんでした。そういう原発事故の実態を皆さんに知ってもらいたいです」。子どもたちの気持ちを想い、涙が止まらなかった。
夫の転勤を機に、神奈川県から富岡町に移り住んだのが1990年。翌年にはマイホームを購入し、3人の子どもと浜通りでの暮らしを満喫していた。再び夫が神奈川県内の事業所に転勤になってからも、金曜日の夜には車で富岡町の自宅に戻り、子供会副会長や息子のサッカー部保護者会長、長女のバスケ部保護者会長などを通じて地域の人々と交流していた。野菜や果物は近所の農家からもらう事も多かった。しかし、今やどこに避難したかさえ分からなくなってしまった人も多いという。
「原発事故から6年経ち、表面的には避難生活も落ち着いてきていると言えます。しかし…」。富岡町では病気などした事もなかったのに、神奈川県葉山町内の夫の実家やアパートでの避難生活で心身にストレスが蓄積され、今では通院と服薬を続けている。「富岡町で生活していた自宅の広さや快適さとは比較になりません。狭い部屋での生活は、思春期の娘たちにもかなりつらい思いをさせてしまったと思います」。
夫は現在、再度の転勤で福島県広野町内の寮で生活をしている。原発事故が無ければ富岡町の自宅から通えたが、四畳ほどの狭い寮での生活を強いられている。〝安全神話〟ばかりが叫ばれていた原発が爆発した事で、家族全員の生活や人生が一変した。原発事故が無ければ、こうして法廷で涙ながらに訴える必要さえ無かったのだ。

涙ながらに意見陳述した小畑まゆみさん。2011年3月10日に得た就職の内定が原発事故で取り消されたことを明かし「18歳の子どもに天国から地獄に落ちるような苦しみを味わわせるのが原発事故」と訴えた=横浜市中区・関内ホール
【「追加除染無い」に解体決意】
富岡町には帰らないと決めた。帰還困難区域を除き今年4月1日には避難指示が解除される見通しだが、自宅は解体する事にした。帰りたいけど帰らない。住み慣れたわが家を奪ったのもまた、放射性物質の拡散による汚染だった。
自宅は何度か除染された。しかし昨年夏の測定で、敷地内で3~5μSv/hもの放射線量が確認された。前年の11月に実施された除染は何だったのか。改めて除染が行われたが、先月になって環境省から届いた報告書類には、依然として0.7μSv/hもの放射線量が計測された個所があったという。
「環境省の人にきちんと放射線量が下がるまで除染してくださいと言ったんです。でも『敷地内の放射線量が平均して1μSv/hを超えないと追加除染はしません』と言われてしまいました」
放射線量を測りに来た担当者からはこんな事を言われたという。「小畑さんの家は山を背負っていないから、この程度の数値で済んでいるんですよ」。しかし、国も町も帰還政策を進めている。「そんな場所の避難指示を解除するなんてあり得ません。やっぱり一度、汚染されてしまった土地は嫌なんです」。
原発事故以降、「放射能が怖い」と口にしていた次女は今月8日、原発事故後初めて富岡町のわが家を訪れた。小学校6年生までを過ごした部屋が、間もなく取り壊される。多くを語らなかった次女。「脳裏に焼き付けるべくじっと佇んでいる姿が印象的でした」。住み慣れた自宅を解体するのは苦渋の決断だった。しかし、不安要素があまりにも多すぎる。「廃炉作業に何年かかるか分かりませんし、そもそも、原発は安全という言葉は全く信用できなくなりました。発表されている放射線量も信用できません。除染で一時的に下がっても、すぐに再び上がってしまうようですし…」。
長男は生後間もなく、2人の娘は富岡町で生まれ育った。「生まれ故郷が失われるのは本当に悲しい事です」。止まらぬ涙を拭いながら、小畑さんは意見陳述を終えた。

一般傍聴席66席に対し、130人もの傍聴希望者が集まった横浜地裁。2カ月後に迫った住宅無償提供の打ち切り問題もあり、支援者たちにも力が入る
【4月に名倉氏の証人尋問】
これまで担当していた相澤哲裁判長が、前任者の依願退官に伴う異動で今月山形地裁・家裁の所長に就任したため、この日から中平健裁判長(前任地・東京高裁)に交代。次回期日でこれまでの主張を整理する意味での「更新弁論」が実施される。原告側は60分で、原告団長の村田弘さん(南相馬市から横浜市)の意見陳述を含めて60分を予定。被告・国や東電もそれぞれ40分ずつを予定している。
原告弁護団の小賀坂徹弁護士は、司法研修所で中平裁判長と同じクラスだったという。閉廷後の報告集会で、小賀坂弁護士は「ひたすら勉強だけをしてきたような人で、きちんと世間の事を教えてあげないといけない。正直、判決に関しては心配だが、誰が裁判長であっても今年1年がヤマ場となる。ぜひ良い判決を勝ち取りたい」と語った。
4月25日の期日では、現役官僚である名倉繁樹氏(旧原子力安全・保安院の原子力発電安全審査課審査官)に対する証人尋問が一日がかりで行われる。7月にも予定されている期日では、生協きたはま診療所(静岡県浜松市)の所長で、「原爆症認定集団訴訟」で医師団意見書の作成責任者を務めた聞間元(ききま・はじめ)医師に対する証人尋問を実施。原告側弁護団は、低線量被曝の危険性について浮き彫りにしたい考えだ。被告・国は、専門家による低線量被曝の危険性を否定する旨の意見書を提出。東電は、裁判官による福島第一原発の実況見分を拒否している。
この日の口頭弁論でも、原告代理人の岡田健太郎弁護士は「自らには規制する権限が無かったという被告国の主張は、原子力の民間利用を国策として推進し、原子力発電所の安全確保を確実なものにする被告国の責務を忘れたものと言わざるを得ない」と改めて陳述。津波予見可能性と国の規制権限不行使を批判した。「敷地高さを超えて津波が到来し、すべての建屋が浸水するおそれがあることを国が認識していれば(中略)本件事故を防ぐことができた」。
傍聴席はこの日も満席。66枚の傍聴券を求めて130人が抽選に臨んだ。〝自主避難者〟向け住宅の無償提供打ち切りが再来月に迫っている事もあり、支援者たちにも力が入る。
(了)
【「夢も健康も地域も奪われた」】
こんな酷い仕打ちがあるだろうか。
当時18歳だった長女は、地元ビジネスホテルのフロント係として働くべく内定を得ていた。就職が決まったのが2011年3月10日。まさか翌日に未曽有の大地震が起ころうとは。まさか、〝絶対安全〟だった原発で爆発事故が起ころうとは。
「原発事故から数日経って会社に電話をかけると、長女は『会社自体がどうなるか分からず、内定は取り消さざるを得ない』と言われました。そして後日、内定取り消しの書類が郵送されてきました」
小畑さんは閉廷後の報告集会でも、原発事故によって振り回された子どもたちについて触れた。「18歳の子どもにこんな苦しみを味わわせるのが原発事故なんです。小学6年生だった末娘は、卒業式で送り出してもらう事が叶いませんでした。そういう原発事故の実態を皆さんに知ってもらいたいです」。子どもたちの気持ちを想い、涙が止まらなかった。
夫の転勤を機に、神奈川県から富岡町に移り住んだのが1990年。翌年にはマイホームを購入し、3人の子どもと浜通りでの暮らしを満喫していた。再び夫が神奈川県内の事業所に転勤になってからも、金曜日の夜には車で富岡町の自宅に戻り、子供会副会長や息子のサッカー部保護者会長、長女のバスケ部保護者会長などを通じて地域の人々と交流していた。野菜や果物は近所の農家からもらう事も多かった。しかし、今やどこに避難したかさえ分からなくなってしまった人も多いという。
「原発事故から6年経ち、表面的には避難生活も落ち着いてきていると言えます。しかし…」。富岡町では病気などした事もなかったのに、神奈川県葉山町内の夫の実家やアパートでの避難生活で心身にストレスが蓄積され、今では通院と服薬を続けている。「富岡町で生活していた自宅の広さや快適さとは比較になりません。狭い部屋での生活は、思春期の娘たちにもかなりつらい思いをさせてしまったと思います」。
夫は現在、再度の転勤で福島県広野町内の寮で生活をしている。原発事故が無ければ富岡町の自宅から通えたが、四畳ほどの狭い寮での生活を強いられている。〝安全神話〟ばかりが叫ばれていた原発が爆発した事で、家族全員の生活や人生が一変した。原発事故が無ければ、こうして法廷で涙ながらに訴える必要さえ無かったのだ。

涙ながらに意見陳述した小畑まゆみさん。2011年3月10日に得た就職の内定が原発事故で取り消されたことを明かし「18歳の子どもに天国から地獄に落ちるような苦しみを味わわせるのが原発事故」と訴えた=横浜市中区・関内ホール
【「追加除染無い」に解体決意】
富岡町には帰らないと決めた。帰還困難区域を除き今年4月1日には避難指示が解除される見通しだが、自宅は解体する事にした。帰りたいけど帰らない。住み慣れたわが家を奪ったのもまた、放射性物質の拡散による汚染だった。
自宅は何度か除染された。しかし昨年夏の測定で、敷地内で3~5μSv/hもの放射線量が確認された。前年の11月に実施された除染は何だったのか。改めて除染が行われたが、先月になって環境省から届いた報告書類には、依然として0.7μSv/hもの放射線量が計測された個所があったという。
「環境省の人にきちんと放射線量が下がるまで除染してくださいと言ったんです。でも『敷地内の放射線量が平均して1μSv/hを超えないと追加除染はしません』と言われてしまいました」
放射線量を測りに来た担当者からはこんな事を言われたという。「小畑さんの家は山を背負っていないから、この程度の数値で済んでいるんですよ」。しかし、国も町も帰還政策を進めている。「そんな場所の避難指示を解除するなんてあり得ません。やっぱり一度、汚染されてしまった土地は嫌なんです」。
原発事故以降、「放射能が怖い」と口にしていた次女は今月8日、原発事故後初めて富岡町のわが家を訪れた。小学校6年生までを過ごした部屋が、間もなく取り壊される。多くを語らなかった次女。「脳裏に焼き付けるべくじっと佇んでいる姿が印象的でした」。住み慣れた自宅を解体するのは苦渋の決断だった。しかし、不安要素があまりにも多すぎる。「廃炉作業に何年かかるか分かりませんし、そもそも、原発は安全という言葉は全く信用できなくなりました。発表されている放射線量も信用できません。除染で一時的に下がっても、すぐに再び上がってしまうようですし…」。
長男は生後間もなく、2人の娘は富岡町で生まれ育った。「生まれ故郷が失われるのは本当に悲しい事です」。止まらぬ涙を拭いながら、小畑さんは意見陳述を終えた。

一般傍聴席66席に対し、130人もの傍聴希望者が集まった横浜地裁。2カ月後に迫った住宅無償提供の打ち切り問題もあり、支援者たちにも力が入る
【4月に名倉氏の証人尋問】
これまで担当していた相澤哲裁判長が、前任者の依願退官に伴う異動で今月山形地裁・家裁の所長に就任したため、この日から中平健裁判長(前任地・東京高裁)に交代。次回期日でこれまでの主張を整理する意味での「更新弁論」が実施される。原告側は60分で、原告団長の村田弘さん(南相馬市から横浜市)の意見陳述を含めて60分を予定。被告・国や東電もそれぞれ40分ずつを予定している。
原告弁護団の小賀坂徹弁護士は、司法研修所で中平裁判長と同じクラスだったという。閉廷後の報告集会で、小賀坂弁護士は「ひたすら勉強だけをしてきたような人で、きちんと世間の事を教えてあげないといけない。正直、判決に関しては心配だが、誰が裁判長であっても今年1年がヤマ場となる。ぜひ良い判決を勝ち取りたい」と語った。
4月25日の期日では、現役官僚である名倉繁樹氏(旧原子力安全・保安院の原子力発電安全審査課審査官)に対する証人尋問が一日がかりで行われる。7月にも予定されている期日では、生協きたはま診療所(静岡県浜松市)の所長で、「原爆症認定集団訴訟」で医師団意見書の作成責任者を務めた聞間元(ききま・はじめ)医師に対する証人尋問を実施。原告側弁護団は、低線量被曝の危険性について浮き彫りにしたい考えだ。被告・国は、専門家による低線量被曝の危険性を否定する旨の意見書を提出。東電は、裁判官による福島第一原発の実況見分を拒否している。
この日の口頭弁論でも、原告代理人の岡田健太郎弁護士は「自らには規制する権限が無かったという被告国の主張は、原子力の民間利用を国策として推進し、原子力発電所の安全確保を確実なものにする被告国の責務を忘れたものと言わざるを得ない」と改めて陳述。津波予見可能性と国の規制権限不行使を批判した。「敷地高さを超えて津波が到来し、すべての建屋が浸水するおそれがあることを国が認識していれば(中略)本件事故を防ぐことができた」。
傍聴席はこの日も満席。66枚の傍聴券を求めて130人が抽選に臨んだ。〝自主避難者〟向け住宅の無償提供打ち切りが再来月に迫っている事もあり、支援者たちにも力が入る。
(了)
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