【菅直人講演会】鋭い経産省批判の一方で語られぬ「脱被曝」~年20mSvでの線引き「当時は専門家に議論してもらうしか無かった」
- 2016/06/21
- 07:47
菅直人元首相の講演会が20日夜、都内で開かれ、約60人の聴衆を前に福島第一原発事故当時の話を中心に「脱原発」を呼びかけた。事故後から、経産省は原発再稼働に向けて画策してきたと鋭く批判する一方で、自らの避難指示範囲や年20mSv基準の是非に関しては言及無し。「専門家の間でも意見が分かれていた。彼らの議論で決めてもらうしかなかった」と語るにとどまった。福島県中通りには出されなかった避難指示。来年3月末で切り捨てられる自主避難者。そして今なお解消されぬ汚染。だが、残念ながら被曝問題への菅元首相の口は重かった。
【「『メルトダウン』発表止める理由無い」】
「ホットな話から始めましょう」
菅直人元首相は当然、東電の炉心溶融隠し問題から話し始めた。同社が設置した原発事故に係る通報・報告に関する第三者検証委員会が今月16日付でまとめた報告書の中で「清水正孝社長(当時)が官邸側から、対外的に『炉心溶融』(メルトダウン)を認めることについては、慎重な対応をするようにとの要請を受けたと理解していたものと推認される」と結論付けた事に対し、「東電が三人の弁護士に頼んでつくらせた酷い報告書だ。私や、官房長官だった枝野さんには一切、コンタクトが無い。こんなメチャクチャな事はありませんし、清水社長にそんな事は言っていません」と怒りを露わにした。その上で「メルトダウンは政策判断ではなく事実。発表されたら困る理由も、公表させない事によるメリットも無い。東電は自分たちの責任を逃れるためには本当にいろんな事を言う。参院選に対する政府や東電の〝仕掛け〟だろう」と語った。
運転開始から40年を超えた関西電力高浜原発1、2号機(福井県)について、原子力規制委員会(田中俊一委員長)がこの日、60年までの運転延長を初めて認可した事にも触れ、全国紙の夕刊を掲げながら「深刻な問題だ」と批判。「実際に動かすには2000億円くらいかかると言われているし、4年はかかる見通しだが、『原則40年』を破った。極めて重大だ」と話した。
一方で、「残念ながら川内原発が2基動いているが、逆に言えばまだ2基しか電力会社は動かせていない。ある意味では、反原発運動をされている皆さんは自信を持ってもらって良いと思う」とも。「何とか原発を動かそうとする電力会社と、何とか止めようとする市民とのせめぎ合いが今も続いている」と〝脱原発〟には市民の力が必要だと強調した上で、22日に公示される参院選について「せめぎ合いは政党の中にもあります。電力会社との関係で、微妙に私とは立場が違う人も混じっている。比例はだいたい100万票で1議席だが、個人名での得票が多い順に当選するんです。政党名で投票してしまっては、原発に本気で反対している人かどうか区別出来ません。比例はぜひ、政党名ではなく個人名で投票してください」と呼びかけた。

都内で講演を行った菅直人元首相。〝20mSv問題〟については「専門家の考え方も様々で、当時から悩んだ」と話すにとどまった=東京都千代田区のたんぽぽ舎
【「浜岡停止はスケープゴートだった」】
この日の講演テーマは「川内原発を止めるために」。
福島第一原発事故の後、自身が中部電力に要請した浜岡原発(静岡県)の運転停止について「言葉は悪いが、渡りに船だった」と振り返った。「浜岡の危険性はいろんな人から聞いていた。何とかしなければと思っていたところに担当大臣が言ってくれた」。2011年5月6日、前日に浜岡原発の視察を終えていた海江田万里経済産業大臣(当時)から「ちょっと時間をとって欲しい」と言われ、運転停止を進言されたという。「中電は『堤防を高くするから、その時はまた稼働させて欲しい』と言ってきたが、私は後の事は何も約束しませんでした」。しかし、経産省内部の真の狙いは、浜岡原発を身代わりにした原発再稼働だったという。
「その後のいろんな経緯があって海江田さんの当時の想いは聞けていないが、経産省内部では『浜岡一つだけ差し出して、他の原発は動かそう』というシナリオを描いていた事を後に知った。実際、海江田さんはすぐに玄海原発の視察に行き『ここは安全だ』と語っている。保安院(経産省)の判断だけで再稼働が決められてしまっては国民の理解を得られないと思い、ストレステストの実施など再稼働の条件を厳しくした」
総理の座を退いた後の2012年7月、関西電力大飯原発(福井県)が再稼働される(現在は再び停止)。「関西電力は、『どうしても再稼働させてもらいたい』とものすごい根回しをした。大阪府知事だった橋下さんも大反対だったのにコロッと変わってしまった。何があったのかは想像にお任せしますが…」。
聴衆から「原発をやめられないのはアメリカの力が働いているのではないか」との質問が出たが「原発をやめたくない人たちには、いつでも核兵器を持てる状態にすることが抑止力につながるという考え方はある。アメリカも、日本がプルトニウムを多く持つ事には困っている。原発事故後、アメリカの関係者が統合本部に入っていたが、ああしろこうしろと言われた事は無かった。」と否定。「水素爆発では無く核爆発だったのではないか」との指摘には「建屋は壊れたが、核爆発ほどのエネルギーでは無かったのではないかとぼんやり思っている」と否定的な見方を示した。

当時の経産大臣、海江田万里氏にも厳しい言葉を使いながら「原発を復活させたいのが今の経産省の主流」と語った菅直人元首相。「参院選比例では、政党名ではなく個人名での投票を」と電力労組系議員を意識した発言も
【言及避けた「年20mSv」の是非】
舌鋒鋭く、経産省批判を展開した菅元首相。「原発を復活させたいのが、今の経産省の主流」。名誉毀損訴訟で係争中の安倍晋三首相に関しても「2011年5月20日付のメルマガで私が海水注入を止めさせたと安倍さんが配信し、なぜか読売と産経だけが大きく取り上げた。東電が仕掛け、早く政権に戻りたい自民党の強硬派と当時の民主党の一部が乗っかった。でも、当時の〝菅おろし〟を語るだけで一時間はかかってしまう」となめらかだったが、肝心の避難指示や放射線防護に関しては口が重かった。
「年20mSvという基準には法的根拠が無い」と聴衆から質されると「専門家の間でも意見が様々で、当時から悩んだ。最終的に専門家の議論で判断していただいた。除染などで最終的に年1mSvを目指すという基本的な枠組みは、現政権にも引き継がれていると思う」と答えるにとどまった。
20mSvを基準として避難指示を出したのは菅政権だ。福島県中通りには避難指示が出されず、被曝リスクから逃れようとする多くの〝自主避難者〟を生んだ。そして来年3月末で住宅支援はなくなり、切り捨てられようとしている。しかし「短い時間では言葉足らずになる」として「政治的には、あまり基準を厳しくしてしまうと福島から人がいなくなってしまうという地元首長もいた。100mSvでも大丈夫と言う専門家もいる中で、彼らの議論で判断してもらうしか無かった。SPEEDIをきちんと活用できなかった点は本当に申し訳なかった」と語るのみ。講演後、さらに私は質問を重ねたが「私にも疑問は山ほどある。しかし、被曝の問題は政治判断にはなじまない。仮に酒やたばこを国が禁止する場合でも、専門家の議論が要るでしょう。それに、短時間の滞在であれば空間線量が高くても積算被曝線量は高くならない事はあなたもご存じでしょう。いろんな評価があって良いが、当時はそれしか無かった」と答えるばかりだった。
「脱原発は叫んでも脱被曝は語らぬ」。その姿勢は菅元首相も同じだった。経産省を批判する一方で、年20mSvでの帰還推進には触れない。「専門家による議論」が正しかったか否かの評価も避ける。実に残念だ。まずは、当時の放射線防護策への自己評価から始めていただきたい。
(了)
【「『メルトダウン』発表止める理由無い」】
「ホットな話から始めましょう」
菅直人元首相は当然、東電の炉心溶融隠し問題から話し始めた。同社が設置した原発事故に係る通報・報告に関する第三者検証委員会が今月16日付でまとめた報告書の中で「清水正孝社長(当時)が官邸側から、対外的に『炉心溶融』(メルトダウン)を認めることについては、慎重な対応をするようにとの要請を受けたと理解していたものと推認される」と結論付けた事に対し、「東電が三人の弁護士に頼んでつくらせた酷い報告書だ。私や、官房長官だった枝野さんには一切、コンタクトが無い。こんなメチャクチャな事はありませんし、清水社長にそんな事は言っていません」と怒りを露わにした。その上で「メルトダウンは政策判断ではなく事実。発表されたら困る理由も、公表させない事によるメリットも無い。東電は自分たちの責任を逃れるためには本当にいろんな事を言う。参院選に対する政府や東電の〝仕掛け〟だろう」と語った。
運転開始から40年を超えた関西電力高浜原発1、2号機(福井県)について、原子力規制委員会(田中俊一委員長)がこの日、60年までの運転延長を初めて認可した事にも触れ、全国紙の夕刊を掲げながら「深刻な問題だ」と批判。「実際に動かすには2000億円くらいかかると言われているし、4年はかかる見通しだが、『原則40年』を破った。極めて重大だ」と話した。
一方で、「残念ながら川内原発が2基動いているが、逆に言えばまだ2基しか電力会社は動かせていない。ある意味では、反原発運動をされている皆さんは自信を持ってもらって良いと思う」とも。「何とか原発を動かそうとする電力会社と、何とか止めようとする市民とのせめぎ合いが今も続いている」と〝脱原発〟には市民の力が必要だと強調した上で、22日に公示される参院選について「せめぎ合いは政党の中にもあります。電力会社との関係で、微妙に私とは立場が違う人も混じっている。比例はだいたい100万票で1議席だが、個人名での得票が多い順に当選するんです。政党名で投票してしまっては、原発に本気で反対している人かどうか区別出来ません。比例はぜひ、政党名ではなく個人名で投票してください」と呼びかけた。

都内で講演を行った菅直人元首相。〝20mSv問題〟については「専門家の考え方も様々で、当時から悩んだ」と話すにとどまった=東京都千代田区のたんぽぽ舎
【「浜岡停止はスケープゴートだった」】
この日の講演テーマは「川内原発を止めるために」。
福島第一原発事故の後、自身が中部電力に要請した浜岡原発(静岡県)の運転停止について「言葉は悪いが、渡りに船だった」と振り返った。「浜岡の危険性はいろんな人から聞いていた。何とかしなければと思っていたところに担当大臣が言ってくれた」。2011年5月6日、前日に浜岡原発の視察を終えていた海江田万里経済産業大臣(当時)から「ちょっと時間をとって欲しい」と言われ、運転停止を進言されたという。「中電は『堤防を高くするから、その時はまた稼働させて欲しい』と言ってきたが、私は後の事は何も約束しませんでした」。しかし、経産省内部の真の狙いは、浜岡原発を身代わりにした原発再稼働だったという。
「その後のいろんな経緯があって海江田さんの当時の想いは聞けていないが、経産省内部では『浜岡一つだけ差し出して、他の原発は動かそう』というシナリオを描いていた事を後に知った。実際、海江田さんはすぐに玄海原発の視察に行き『ここは安全だ』と語っている。保安院(経産省)の判断だけで再稼働が決められてしまっては国民の理解を得られないと思い、ストレステストの実施など再稼働の条件を厳しくした」
総理の座を退いた後の2012年7月、関西電力大飯原発(福井県)が再稼働される(現在は再び停止)。「関西電力は、『どうしても再稼働させてもらいたい』とものすごい根回しをした。大阪府知事だった橋下さんも大反対だったのにコロッと変わってしまった。何があったのかは想像にお任せしますが…」。
聴衆から「原発をやめられないのはアメリカの力が働いているのではないか」との質問が出たが「原発をやめたくない人たちには、いつでも核兵器を持てる状態にすることが抑止力につながるという考え方はある。アメリカも、日本がプルトニウムを多く持つ事には困っている。原発事故後、アメリカの関係者が統合本部に入っていたが、ああしろこうしろと言われた事は無かった。」と否定。「水素爆発では無く核爆発だったのではないか」との指摘には「建屋は壊れたが、核爆発ほどのエネルギーでは無かったのではないかとぼんやり思っている」と否定的な見方を示した。

当時の経産大臣、海江田万里氏にも厳しい言葉を使いながら「原発を復活させたいのが今の経産省の主流」と語った菅直人元首相。「参院選比例では、政党名ではなく個人名での投票を」と電力労組系議員を意識した発言も
【言及避けた「年20mSv」の是非】
舌鋒鋭く、経産省批判を展開した菅元首相。「原発を復活させたいのが、今の経産省の主流」。名誉毀損訴訟で係争中の安倍晋三首相に関しても「2011年5月20日付のメルマガで私が海水注入を止めさせたと安倍さんが配信し、なぜか読売と産経だけが大きく取り上げた。東電が仕掛け、早く政権に戻りたい自民党の強硬派と当時の民主党の一部が乗っかった。でも、当時の〝菅おろし〟を語るだけで一時間はかかってしまう」となめらかだったが、肝心の避難指示や放射線防護に関しては口が重かった。
「年20mSvという基準には法的根拠が無い」と聴衆から質されると「専門家の間でも意見が様々で、当時から悩んだ。最終的に専門家の議論で判断していただいた。除染などで最終的に年1mSvを目指すという基本的な枠組みは、現政権にも引き継がれていると思う」と答えるにとどまった。
20mSvを基準として避難指示を出したのは菅政権だ。福島県中通りには避難指示が出されず、被曝リスクから逃れようとする多くの〝自主避難者〟を生んだ。そして来年3月末で住宅支援はなくなり、切り捨てられようとしている。しかし「短い時間では言葉足らずになる」として「政治的には、あまり基準を厳しくしてしまうと福島から人がいなくなってしまうという地元首長もいた。100mSvでも大丈夫と言う専門家もいる中で、彼らの議論で判断してもらうしか無かった。SPEEDIをきちんと活用できなかった点は本当に申し訳なかった」と語るのみ。講演後、さらに私は質問を重ねたが「私にも疑問は山ほどある。しかし、被曝の問題は政治判断にはなじまない。仮に酒やたばこを国が禁止する場合でも、専門家の議論が要るでしょう。それに、短時間の滞在であれば空間線量が高くても積算被曝線量は高くならない事はあなたもご存じでしょう。いろんな評価があって良いが、当時はそれしか無かった」と答えるばかりだった。
「脱原発は叫んでも脱被曝は語らぬ」。その姿勢は菅元首相も同じだった。経産省を批判する一方で、年20mSvでの帰還推進には触れない。「専門家による議論」が正しかったか否かの評価も避ける。実に残念だ。まずは、当時の放射線防護策への自己評価から始めていただきたい。
(了)
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