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【72カ月目の浪江町はいま】在校生無き〝最後の〟卒業式、途絶える伝統。母校奪った原発事故への怒り。「我が学び舎を返して」~浪江高校と津島校で休校式

原発事故により今月いっぱいでの休校が決まっている福島県立浪江高校と浪江高校津島校の卒業式が1日午前、本宮市内で行われ、計26人が同窓生に見守られながら巣立った。〝あの頃の小学6年生〟が迎えた在校生無き卒業式。続いて開かれた休校式で同窓生が口にしたのは90年、70年という伝統を途切れさせられた原発事故への怒りと哀しみ。津島校で生徒会長を務めた柴田結美さんも、故郷の喪失感と環境の劇的な変化に対応できず、中学校にほとんど通えなかった。ともすれば「原発賠償金長者」などと揶揄されがちな原発事故被害者たち。しかし「賠償金では償えない被害」が、ここにもある。


【「耐えられない。悔しい」】
 卒業式という晴れの舞台の後に行われた休校式。長い伝統を築いて来た同窓生たちの怒りが凝縮されたスピーチだった。
 「卒業式のこの日、この場所で、旅立つ卒業生の前で休校のあいさつをする事は正直、耐えられません。悔しいです」。町議で津島校同窓会会長を務める馬場績さんの言葉が静まり返るホールに響いた。「なぜ休校しなければならないのか」。
 誰だって華やかなお祝いムードの中で送り出したい。しかし、母校を奪った原発事故への想いはきちんと伝えたかった。津島校の校舎も馬場さんの自宅も「帰還困難区域」にある。浪江町では、反対意見を無視する形で「避難指示解除準備区域」と「居住制限区域」の避難指示が今月末に解除されるが、帰還困難区域は除染のめどすら立っていない。避難指示解除どころの話では無い。
 「2月中旬に自宅に立ち寄ったが、線量計の数値は9.99μSv/hを示し続けていた。それ以上測れない機器だったから、放射線量がいくらあるか分からない状態。農地は荒れ果てたまま。柳の木が電柱よりも高く伸び、イノシシは我が物顔。校舎にもごみや支援物資がそのまま残っている。故郷を返してもらいたい。我が学び舎を返してもらいたい。切なる願いであります」
 過疎化の流れは確かに加速していた。しかし、大切な地域の学校を残そうと、近隣の葛尾村などからも生徒を募って維持してきた。それを一瞬にして奪ったのが原発事故だった。間もなく未曽有の揺れから丸6年を迎えるが、取材で1月に津島地区を訪れた際には、地表真上で手元の線量計は50μSv/hを上回った。6年経っても東京五輪が近づいても汚染は消える事が無い。哀しいが、それが津島の現実。馬場さんは、母校再開という〝夢〟への複雑な想いも口にした。
 「津島校には、君たちの弾ける青春と躍動があったに違いない。返す返すも残念です。再開は極めて困難を伴う。生易しいものでは無い事は良く分かっています。しかし、あきらめる事は出来ない。『もう断念してくれ』とは口が裂けても言えない。いずれかの日に、皆さんと校舎で再会する事を願ってやみません」
 公共事業中心型の〝復興〟に隠れて、伝統ある学校が消える。2校だけでなく双葉高校、双葉翔陽高校、富岡高校の計5校が休校する。原発事故さえ無ければ…。






(上)在校生無き卒業式。そして休校式で〝最後の校歌〟が歌われた。同窓生たちは「原発事故さえ無ければ」と悔しがった=福島県本宮市の「サンライズもとみや」
(中)浪江高校同窓会会長の齋藤和子さん。「ある日突然、当たり前の生活が無くなる事が無いよう願う」と、原発事故により母校を失う怒りや哀しみを表現した
(下)津島校のあった浪江町津島地区は帰還困難区域に指定され、除染のめども立っていない(1月26日、浪江町大字川房大柿付近で撮影)

【環境激変、校舎はプレハブ】
 「まさか高校を卒業して短大に進学するなんて想像もつかなかった。無事に卒業出来て良かった。夢のようです」
 娘の晴れ姿に目を細めたのは柴田明範さん(50)。次女の結美さん(18)は津島校の生徒会長を務め、成績も3年連続トップ。校長から贈られる「成績優良賞」と同窓会の「五山賞」を独占した。4月からは福島県中通りの短大に進学する。卒業生を代表して「ここで結ばれた絆は母校が休校しても切れる事は無い。明るい未来を照らしてくれる」と「別れのことば」を述べた。小学校6年生で味わった原発避難については「悔しさというかいろんな想いはありますけど…」と言葉を飲み込んだ。だが、その陰で多くの涙を流して来た。
 昨年11月、福島地裁郡山支部で開かれた「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」の第4回口頭弁論で、母親の明美さん(52)は大粒の涙を流した。原発事故で避難した栃木県内の中学校への進学を決めた矢先、二本松市内の中学校での受け入れを耳にして転校。しかし、津島とはあまりにも違う環境に、娘の結美さんは徐々に中学校に通えなくなってしまった。「浪江町から来た子が、クラスの友達から『放射能を浴びたんだから寄って来るな』とばい菌のように言われていた。自分も同じだから嫌だ」。十代で環境が激変した子どもにしか分からない苦悩だった。
 布団から出られず、食事をしては嘔吐。「おうちに帰りたい」、「何でこんな所にいるの?」と口するわが子を、柴田さん夫妻はじっと見守り続けた。原発事故が無ければ故郷・津島の地で生き生きと中学校生活を送っていただろうに、と思うと悔しさが募る。法廷で「どうして子どもたちがこのような目に遭わなければならないのでしょうか」と訴えた明美さん。壇上で堂々と語る娘の姿に、改めてハンカチで涙を拭った。うれし涙には様々な思い出が詰まっていた。「乗り越えた」などという陳腐な言葉では表現する事など出来ない6年間だった。
 県立浪江高校津島校に進学後は、二本松市の県立安達高校の敷地内に建てられたプレハブ校舎で学んだ。「部室と見間違うような校舎。真夏日の教室は40℃。真冬は氷点下。雨音で先生の声は遮られ、強い風が吹くと校舎が吹き飛んでしまうのではないかと思いました」と振り返る。「家族無しにここまで来られなかった。いつまでも元気でいてください」とも。小学校の卒業式を奪われ、住み慣れた故郷のわが家を奪われ、そして母校を奪われた。9人の同級生は避難生活でバラバラになり、津島校では唯一の「津島っ子」だった。「短大を卒業したら人の役に立つ仕事に就きたい」と笑顔で語る。笑顔の向こう側に閉じ込められた哀しみを、私たちは忘れてはならない。
 7月で19歳になる結美さん。帰還困難区域への立ち入りが認められる年齢になる。「ぜひ津島に行きたい」と話した。






(上)卒業式を終え、改めて教室を訪れた柴田結美さん。原発避難で中学校にはほとんど通えなかったが高校3年間は成績は常にトップだった=福島県二本松市郭内
(中)柴田さんは、3年間通ったプレハブの校舎を「部室と見間違える。真夏日の教室は40℃。真冬は氷点下。雨音で先生の声は遮られた」と振り返る
(下)仮設校舎の職員室に掲示されている校旗。今後はふたば未来学園に引き継がれるという

【「当たり前の生活奪われた」】
 浪江高校は1927年、福島県浪江実科高等女学校として創立。90年の歴史を誇る。津島校は1948年、福島県立小高農業高等学校の分校として創立され、1973年に浪江高校の分校になった。2015年、生徒募集を停止。県立ふたば未来学園に〝伝統〟が引き継がれるという。
 浪江町の馬場有(たもつ)町長は、畠山煕一郎教育長に託したメッセージで「原発事故で運命を変えられてしまった学校の一つ。しかし、あくまで休校であって廃校ではありません。若者が戻らない街に未来は無い。浪江町での再開を目指して環境整備に努めて行きます」と伝えた。卒業式、休校式を欠席した理由を、教育長は壇上で「急に都合がつかなくなった」と語ったが、複数の関係者によると「熱が出て寝込んでいる。声が出なくなってしまったが深刻な状態では無いようだ。避難指示解除の問題で心労がたたったのだろう」と明かした。
 浪江高校同窓会会長の齋藤和子さんは、休校式で「残念ながら地球上から悲惨な争いは絶えません。逃げ惑う難民もなくなりません。今、世界は〝平和〟なのでしょうか。原子核が分裂して飛び散る事は、もう無いのでしょうか」と問いかけた。浪江町民は原発事故で〝難民〟となった。被曝リスクの情報を得る事も出来ず、避難所を転々とさせられた。事故の償いとして支払われた賠償金も中傷の対象となり、新たな自宅を建てれば心無い言葉を浴びた。今月末で帰還困難区域以外の避難指示が解除されれば、大量の〝自主避難者〟が生じる。「避難指示が解除されたのに町に帰らないのか」という周囲からの有形無形の圧力を懸念する町民も少なくない。だからこそ、齊藤さんはこう締めくくった。
 「平和は絶対に譲れません。ある日突然、当たり前の生活がなくなる事が無いよう願います」



(了)
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プロフィール

Author:鈴木博喜
大手メディアが無視する「汚染」、「被曝」、「避難」を追い続けています。

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