【ふるさとを返せ 津島原発訴訟】今も患者を訪ね歩く元看護師「家族同然だった」。滝桜を愛する男性の怒り「津島は私の歴史そのものだ」~第6回口頭弁論
- 2017/03/18
- 07:39
原発事故で帰還困難区域に指定された福島県浪江町津島地区の住民たちが国や東電に原状回復と完全賠償を求める「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」の第6回口頭弁論が17日午後、福島地裁郡山支部303号法廷(上拂大作裁判長)で開かれた。今回も男女2人が住み慣れた土地を追われた怒りや哀しみについて意見陳述。原発事故前の豊かな自然や、山の恵みを分け合って来た住民たちの様子を収めたDVDも法廷で流され、原告側は「原発事故によって奪われた当たり前の日常を取り戻したい」と訴えた。次回期日は5月12日14時。上佛裁判長が異動するため新たな裁判長の下での弁論となる。
【引き裂かれた〝家族〟】
原稿を持つ手が震えていたのは緊張からか怒りからか。
「出来ることなら、緑豊かな山や満点の星空を眺め、愛する津島で人情深い皆さんとまた暮らしたい」
今野千代さん(64)の言葉には、日常を奪った原発事故の罪深さがにじんでいた。
1974年4月から40年にわたり、津島診療所の看護師として働いた。休日や出勤前の時間を利用しては、寝たきりの患者の自宅に立ち寄った。「俺だけど」という電話の声だけで誰だか分かった。夜中の往診も珍しくは無かった。地域の住民は「診療所を守る会」を結成し、医師や看護師たちのために山菜の天ぷらをふるまうなどしてもてなした。「私たちはお互いに支え合いながら、いつしか家族のような関係になっておりました」。〝へき地診療所〟ならではの濃密さだった。
「あの日」もそうだった。未曽有の揺れに見舞われた翌日、診療所前に出来た長い列に驚かされた。常備薬を持ち出す事も出来ずに津島に〝避難〟してきた人々だった。ニュースを見る暇も無く夜中まで対応に追われた。町役場の職員から「原発が爆発したのを知らないの?」と言われたのは後になってからだった。
「絶対に安全だと言われていた原発が爆発するとは思いもしなかった」。後に津島地区は「帰還困難区域」に指定されるが、そこに当時は町中から住民が避難をし、色も匂いも無い大量の放射性物質を浴びた。診療所前の行列だけでなく屋外で炊き出しをしていた人もいた。診療所の主治医が携帯していた個人積算線量計は、1カ月間で800μSvに達したという。3月15日午後、原発避難のため診療所のカギは閉じられた。「薬が無くなってしまったはずの患者さんが診察に来なかったけれど大丈夫だろうか」。地域の人々が心配になり、避難の車中では涙が止まらなかった。
家族同然に付き合ってきた患者たちは、原発避難でバラバラになってしまった。少しでも元気になって欲しいと避難先を訪ね歩いている。「最後は診療所の関根先生と看護師さんに看取ってもらいたい」と話していた患者は、施設を転々とした後に新潟県で亡くなった。地元紙のお悔み欄で訃報を確認し、駆け付ける事もある。避難先が遠方の場合は、福島市内の〝自宅〟で手を合わせるという。「原発事故と避難が無ければ自宅に伺ってお別れが出来たのに…」。
原発事故は7年目に突入した。心の苦しみは言えるどころか増すばかり。
「国や東電が原発事故の責任を認めない事に憤りを感じます」
地域に愛された「千代ちゃん」は、避難先で旅立って行った患者たちの想いも代弁するように語った。


(上)法廷で意見陳述した今野幸四郎さん(左から2番目)と今野千代さん(左から3番目)。勝訴を目指して拳を力強く突き上げた。意見陳述の緊張から解放されて笑顔だが、法廷では怒りも加わり手が震え顔は赤らんでいた=郡山市民文化センター
(下)今野幸四郎さんは、意見陳述に自ら植えた滝桜の写真を添えた。「津島に植えた滝桜は今も、帰りをじっと待ち続けるかのように、春になると毎年きれいに咲いています」
【育ての親待つ〝わが子〟】
津島地区の幹線道路・国道114号線沿いに、春になるときれいな花を咲かせる枝垂桜がある。「東日本大震災、原発事故の早期復興を願い、三春町の滝桜を植樹する」。60頭を超える乳牛を飼っていた酪農家の今野幸四郎さん(80)が、大好きな福島県三春町の滝桜を故郷でも咲かせたいと知人から苗木を譲り受け、20年ほど前から植え続けてきた。2012年3月、原発避難で急増したイノシシの被害で枯れてしまった枝垂桜を県庁の許可を得て植え替えた際に、記念碑も一緒に建立した。
意見陳述には、きれいに咲いた枝垂桜の写真を添付した。「津島に植えた滝桜は今も、育ての親である私や仲間たちの帰りをじっと待ち続けるかのように、春になると毎年きれいに咲いています」。自宅だけでなく、牧草地として使われていない土地や神社などに枝垂桜を植えて来た。「皆のご先祖様にも楽しんでもらいたい」と寺にも植えた。
しかし、原発避難で滝桜とも離ればなれになってしまった。国道114号線にはバリケードが設置され、住民と言えども町役場の発行する許可証が無いと立ち入る事が出来なくなった。浪江町では今月末に避難指示が解除されるが、帰還困難区域である津島地区は対象外だ。
「どうしても津島に帰りたい。自宅をきれいにし、滝桜の手入れをし、いつでも津島に帰って生活が出来るように準備をしています。津島は私が生まれ育った土地です。苦労して土地を耕し、酪農をして生活してきた土地です。滝桜の苗木を大切に育てて植えた土地です。私の歴史そのものが詰まった場所なのです」
福島県本宮市の避難先から津島までは往復100km。昨年の一時帰宅は56回に上った。今年も既に15回に達するという。ある日突然、奪われた日常。幸四郎さんの意見陳述には「私」という言葉が随所に出てくる。私の土地。私の滝桜。私の歴史。「放射能に負けずに咲いている私の滝桜を見て、絶対に戻るんだと心に誓っています。原発事故が無ければ、私たちは今も津島で滝桜を楽しむ事が出来たはずです。滝桜を安心して楽しむ事の出来る故郷・津島を返してください」。
故郷に帰りたい。いや絶対に帰る。再び津島で滝桜を楽しむ日が来るまで手入れを続ける。
「滝桜の花は咲くが、まだ帰れない」
今年も切ない桜の季節がやって来る。


今回も、開廷前に裁判所周辺をデモ行進した原告たち。「ふるさとを返して欲しい」という願い、「原発事故はまだ終わっていない」という怒りを理解してもらおうと声をあげながら歩いたが、車中から心無い罵声を浴びせられる場面もあった
【法廷でDVDを上映】
原告たちが奪われた津島の「日常」を裁判官に理解してもらうため、昔の映像を30分ほどに編集したDVDが法廷で上映された。
「山に感謝し、恵みを分かち合う」。家族総出で秋の稲刈り。にぎわう山菜市。農産物直売所の「ほのぼの市」。自然を享受し、農作物を通して住民同士の交流を深めた。植林活動もあった。川ではウグイが泳ぎ、モリアオガエルが産卵した。
「ふれあい体育祭」やPTA対抗球技大会では、大人も子どもも歓声をあげた。集落ごとの盆踊り。「津島いきいき夢まつり」では、ゆで卵の早食い競争で盛り上がった。田植え踊りや神楽、三匹獅子舞などの郷土芸能も存続の危機に瀕している。
「最期は皆で見送る」。自宅での葬儀は隣組が手伝った。土葬も珍しくなく、棺をリヤカーに乗せて墓地まで曳いて埋葬した。友人の若かりし頃の姿に傍聴席の原告たちは目を細め、涙を拭った。映像に〝閉じ込められてしまった〟当たり前の日常。DVDはこんな言葉で締めくくられた。「取り戻したい、ふるさと津島の日常の一端です。ごく一部にすぎません」。
神妙な表情で見入っていた上佛裁判長だが、実は4月の転勤が決まっている。「どんな裁判長が来るのか注視したい」と弁護団。この日の口頭弁論では大津波の予見も原発事故を防ぐ事も出来たと改めて主張したが、群馬県に避難した人々の訴訟で前橋地裁がこの2点について国と東電の責任を認めた判決を言い渡した事は力強い追い風となる。彼岸の入りとはいえ雪が舞い、冷たい風が吹く中を震えながらデモ行進した原告たち。奪われた「当たり前の日常」を取り戻す闘いはまだ続く。次回期日は5月12日14時。
(了)
【引き裂かれた〝家族〟】
原稿を持つ手が震えていたのは緊張からか怒りからか。
「出来ることなら、緑豊かな山や満点の星空を眺め、愛する津島で人情深い皆さんとまた暮らしたい」
今野千代さん(64)の言葉には、日常を奪った原発事故の罪深さがにじんでいた。
1974年4月から40年にわたり、津島診療所の看護師として働いた。休日や出勤前の時間を利用しては、寝たきりの患者の自宅に立ち寄った。「俺だけど」という電話の声だけで誰だか分かった。夜中の往診も珍しくは無かった。地域の住民は「診療所を守る会」を結成し、医師や看護師たちのために山菜の天ぷらをふるまうなどしてもてなした。「私たちはお互いに支え合いながら、いつしか家族のような関係になっておりました」。〝へき地診療所〟ならではの濃密さだった。
「あの日」もそうだった。未曽有の揺れに見舞われた翌日、診療所前に出来た長い列に驚かされた。常備薬を持ち出す事も出来ずに津島に〝避難〟してきた人々だった。ニュースを見る暇も無く夜中まで対応に追われた。町役場の職員から「原発が爆発したのを知らないの?」と言われたのは後になってからだった。
「絶対に安全だと言われていた原発が爆発するとは思いもしなかった」。後に津島地区は「帰還困難区域」に指定されるが、そこに当時は町中から住民が避難をし、色も匂いも無い大量の放射性物質を浴びた。診療所前の行列だけでなく屋外で炊き出しをしていた人もいた。診療所の主治医が携帯していた個人積算線量計は、1カ月間で800μSvに達したという。3月15日午後、原発避難のため診療所のカギは閉じられた。「薬が無くなってしまったはずの患者さんが診察に来なかったけれど大丈夫だろうか」。地域の人々が心配になり、避難の車中では涙が止まらなかった。
家族同然に付き合ってきた患者たちは、原発避難でバラバラになってしまった。少しでも元気になって欲しいと避難先を訪ね歩いている。「最後は診療所の関根先生と看護師さんに看取ってもらいたい」と話していた患者は、施設を転々とした後に新潟県で亡くなった。地元紙のお悔み欄で訃報を確認し、駆け付ける事もある。避難先が遠方の場合は、福島市内の〝自宅〟で手を合わせるという。「原発事故と避難が無ければ自宅に伺ってお別れが出来たのに…」。
原発事故は7年目に突入した。心の苦しみは言えるどころか増すばかり。
「国や東電が原発事故の責任を認めない事に憤りを感じます」
地域に愛された「千代ちゃん」は、避難先で旅立って行った患者たちの想いも代弁するように語った。


(上)法廷で意見陳述した今野幸四郎さん(左から2番目)と今野千代さん(左から3番目)。勝訴を目指して拳を力強く突き上げた。意見陳述の緊張から解放されて笑顔だが、法廷では怒りも加わり手が震え顔は赤らんでいた=郡山市民文化センター
(下)今野幸四郎さんは、意見陳述に自ら植えた滝桜の写真を添えた。「津島に植えた滝桜は今も、帰りをじっと待ち続けるかのように、春になると毎年きれいに咲いています」
【育ての親待つ〝わが子〟】
津島地区の幹線道路・国道114号線沿いに、春になるときれいな花を咲かせる枝垂桜がある。「東日本大震災、原発事故の早期復興を願い、三春町の滝桜を植樹する」。60頭を超える乳牛を飼っていた酪農家の今野幸四郎さん(80)が、大好きな福島県三春町の滝桜を故郷でも咲かせたいと知人から苗木を譲り受け、20年ほど前から植え続けてきた。2012年3月、原発避難で急増したイノシシの被害で枯れてしまった枝垂桜を県庁の許可を得て植え替えた際に、記念碑も一緒に建立した。
意見陳述には、きれいに咲いた枝垂桜の写真を添付した。「津島に植えた滝桜は今も、育ての親である私や仲間たちの帰りをじっと待ち続けるかのように、春になると毎年きれいに咲いています」。自宅だけでなく、牧草地として使われていない土地や神社などに枝垂桜を植えて来た。「皆のご先祖様にも楽しんでもらいたい」と寺にも植えた。
しかし、原発避難で滝桜とも離ればなれになってしまった。国道114号線にはバリケードが設置され、住民と言えども町役場の発行する許可証が無いと立ち入る事が出来なくなった。浪江町では今月末に避難指示が解除されるが、帰還困難区域である津島地区は対象外だ。
「どうしても津島に帰りたい。自宅をきれいにし、滝桜の手入れをし、いつでも津島に帰って生活が出来るように準備をしています。津島は私が生まれ育った土地です。苦労して土地を耕し、酪農をして生活してきた土地です。滝桜の苗木を大切に育てて植えた土地です。私の歴史そのものが詰まった場所なのです」
福島県本宮市の避難先から津島までは往復100km。昨年の一時帰宅は56回に上った。今年も既に15回に達するという。ある日突然、奪われた日常。幸四郎さんの意見陳述には「私」という言葉が随所に出てくる。私の土地。私の滝桜。私の歴史。「放射能に負けずに咲いている私の滝桜を見て、絶対に戻るんだと心に誓っています。原発事故が無ければ、私たちは今も津島で滝桜を楽しむ事が出来たはずです。滝桜を安心して楽しむ事の出来る故郷・津島を返してください」。
故郷に帰りたい。いや絶対に帰る。再び津島で滝桜を楽しむ日が来るまで手入れを続ける。
「滝桜の花は咲くが、まだ帰れない」
今年も切ない桜の季節がやって来る。


今回も、開廷前に裁判所周辺をデモ行進した原告たち。「ふるさとを返して欲しい」という願い、「原発事故はまだ終わっていない」という怒りを理解してもらおうと声をあげながら歩いたが、車中から心無い罵声を浴びせられる場面もあった
【法廷でDVDを上映】
原告たちが奪われた津島の「日常」を裁判官に理解してもらうため、昔の映像を30分ほどに編集したDVDが法廷で上映された。
「山に感謝し、恵みを分かち合う」。家族総出で秋の稲刈り。にぎわう山菜市。農産物直売所の「ほのぼの市」。自然を享受し、農作物を通して住民同士の交流を深めた。植林活動もあった。川ではウグイが泳ぎ、モリアオガエルが産卵した。
「ふれあい体育祭」やPTA対抗球技大会では、大人も子どもも歓声をあげた。集落ごとの盆踊り。「津島いきいき夢まつり」では、ゆで卵の早食い競争で盛り上がった。田植え踊りや神楽、三匹獅子舞などの郷土芸能も存続の危機に瀕している。
「最期は皆で見送る」。自宅での葬儀は隣組が手伝った。土葬も珍しくなく、棺をリヤカーに乗せて墓地まで曳いて埋葬した。友人の若かりし頃の姿に傍聴席の原告たちは目を細め、涙を拭った。映像に〝閉じ込められてしまった〟当たり前の日常。DVDはこんな言葉で締めくくられた。「取り戻したい、ふるさと津島の日常の一端です。ごく一部にすぎません」。
神妙な表情で見入っていた上佛裁判長だが、実は4月の転勤が決まっている。「どんな裁判長が来るのか注視したい」と弁護団。この日の口頭弁論では大津波の予見も原発事故を防ぐ事も出来たと改めて主張したが、群馬県に避難した人々の訴訟で前橋地裁がこの2点について国と東電の責任を認めた判決を言い渡した事は力強い追い風となる。彼岸の入りとはいえ雪が舞い、冷たい風が吹く中を震えながらデモ行進した原告たち。奪われた「当たり前の日常」を取り戻す闘いはまだ続く。次回期日は5月12日14時。
(了)
スポンサーサイト
「判決への不満を私たちにぶつけないで」。群馬訴訟原告の訴え。「とりあえず風穴は開けた。一歩ずつていねいに闘いたい」~「生業訴訟」はきょう結審 ホーム
【自主避難者から住まいを奪うな】「被曝をふるさと論にすり替えるな」。今村復興相の「戻って頑張れ」発言に怒りの声。「愛着ある…それでも帰れない」