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【ふるさとを返せ 津島原発訴訟】「わが家に帰れない気持ち受け止めて」。2人の女性が涙の意見陳述。「無責任な言い逃れ許さぬ」と怒りも~第8回口頭弁論

原発事故で帰還困難区域に指定された福島県浪江町津島地区の住民たちが国や東電に原状回復と完全賠償を求める「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」の第8回口頭弁論が14日午後、福島地裁郡山支部303号法廷(佐々木健二裁判長)で開かれた。2人の女性が意見陳述。住み慣れたふるさとを奪われた哀しみや怒りを涙をこらえながら語った。「豊かな自然を壊された」、「原発が人生そのものを奪った」。2人の訴えを、佐々木裁判長はじっと目を見ながら聴いていた。次回期日は9月22日14時。


【心癒してくれた大自然】
 まさか夫の誕生日に人生が一変しようとは。生まれ育ったふるさとを奪われる事になろうとは。こみ上げてくる涙を懸命にこらえながら、窪田たい子さんは背筋を伸ばして想いを語った。
 「私たちのふるさとは素晴らしいところです。山があり、水が清く、花が咲き、人は優しい。そんな津島が奪われてしまった」
 元気で働き者だった義母は、福島市内での避難生活ですっかり弱ってしまった。認知症を患い、一人でスーパーに行ったり怒鳴ったり、何度も着替えたり…。「津島に戻って死にたい」と口にする事も少なくない。大正生まれながら、農作業を手伝うなど元気そのものだった義母。「もし原発事故が起きず、今も皆で津島の自然と家族に囲まれた生活をしていれば、こんなに弱ってしまう事は無かった」。
 原発事故前から人工透析を受けている夫の病院への送迎も続けている。家事に介護に送迎。避難先の福島市内は、津島とまるで景色が違う。マンションの窓を開けても心を癒してくれる日山(ひやま。津島五山の1つ)は無い。大自然の中でアットホームだった家族は、いつしかケンカも多くなった。死にたいと思う事もある。「津波で亡くなった人たちの事を考えると、死ぬ事など出来ません。生きぬくしか無いのです」
 幼い頃、父が歌ってくれた曲。民謡「相馬流山」。つらい事があると、自宅の前に広がる日山を眺めながらよく歌った。法廷で歌う事は叶わなかったが、歌詞の一節を読み上げた。「大きな声で歌うと、身体中が掃除されるようにすがすがしくなります」。慣れない土地での介護。一変した生活。これが津島だったら…。だが、マンションの周辺にかつての仲間はいない。
 「自然豊かなふるさとを放射能で汚されてしまった私たちの気持ちを重く受け止めて欲しい。ふるさとに帰れない気持ち、家族が壊れていく気持ちをよく分かって欲しいです」
 閉廷後の集会で、窪田さんは「相馬流山」を大きな声で歌い上げた。目を閉じて歌った。ふるさと津島の大自然を思い浮かべながら。




(上)閉廷後の集会で「相馬流山」を歌い上げた窪田たい子さん。心を癒してくれた津島の大自然は帰還困難区域でバリケードの向こう側。「家族のふるさとを返してください」と訴えた
(下)石井ひろみさんは、被告・国や東電の代理人弁護士をにらみつけるように言った。「あなた方は『安全は何重にも担保されている。絶対に事故は起きない』と言い続けてきた。全部嘘だった。もう私たちはだまされません。あなた方はずっと前から原発の危険を知っていたのに何もしなかった」

【「人生そのものを奪われた」】
 「国と東電に申し上げたい」
 それまで裁判官に身体を向けて話していた石井ひろみさんは、被告・国と東電の代理人弁護士の方に身体の向きを変えて、にらみつけるようにこう言った。
 「あなた方は、何度私たちをだましたら気が済むのでしょうか。『安全は何重にも担保されている。絶対に事故は起きない』と言い続けてきました。全部嘘だった事を今、私たちは知っています。もう私たちはだまされません。あなた方はずっと前から原発の危険を知っていた。それなのに何もしなかったのです。無責任な言い逃れは絶対に許されません」
 学生時代、新幹線の食堂車でウエイトレスのアルバイトをしていた時に知り合った男性が、津島に代々続く旧家の18代目だった。そして結婚。夫の親類には後の浪江町長もいた。田植え踊りの運営を担う「庭元」も務めていた。新婚生活は慣れない事ばかり。誰よりも早く起きて、かまどの火をおこした。暗い土間。大きなかまどの前で炎を見つめながら「ここが私のふるさとになる」と決意したという。父の転勤で全国を歩き、ふるさとと呼べる土地が無かったからだ。
 農作業は想像を絶する重労働だった。田植えや稲刈りをして毎年のように血尿が出た。しかし一方で、津島には豊かな人情があった。人と人のつながりが濃密だった。「人と人の間に垣根が無く、地域全体が家族のようにお互いを思い遣って暮らしていました。それは何物にも替え難い心の拠り所です」。それらを全て壊してしまったのが原発事故だった。
 必死に守ってきたわが家は、一時帰宅をするたびに朽ちていく。畑もイノシシに掘り返された。その土が側溝を埋め、雨水が土間に入り込んでいた。誰よりも早く起きて火をおこしたかまどのある土間が水浸しになった。「情けなくて身体の力が抜けていくようでした。人生そのものを奪われたように思えました。悲しくて悔しくて、耐え難い思いです」。しかし、どうする事も出来ない。再びわが家で暮らせるめどは全く立たない。
 陳述中、手元の原稿をほとんど読まなかった。涙もこぼさなかった。しかし、陳述を終えて席に着くと、あふれる涙をこらえる事は出来なかった。何度もハンカチで拭った。身体は小刻みに震えていた。そこに、原発事故でふるさとを奪われた怒りや哀しみが凝縮されていた。




原告たちは最高気温が32℃を上回る炎天下をデモ行進し、閉廷後の集会では「がんばろう」とこぶしを突き上げた。「なぜここまでしないといけないのか。こんな事をしなくても補償されるべきなんだ」と原告の1人は語った

【「来春にも現地検証を」】
 口頭弁論では、原告側の2人の代理人弁護士が、過酷事故を引き起こすような大津波は予見可能だった事について準備書面に沿って改めて陳述。1時間ほどで閉廷した。弁護団によると、閉廷後に行われた進行協議で、裁判所側から今後の立証計画についてどのようにイメージしているかを初めて問われたという。「佐々木裁判長はこの4月に郡山支部に異動してきたばかり。通常3年間は勤めるので、おそらく彼の下で判決が言い渡される事になるだろう。法廷を見る限りでは、原告の訴えを一生懸命聴いている。できれば来春にも実際に津島に裁判官と一緒に入って、津島地区を実際に見てもらうという検証をしてもらいたい。その上で尋問に入りたい」と弁護士の1人は話す。
 この日の郡山市は最高気温が32℃を超えた。原告たちは開廷の3時間前に郡山駅前に集合し、強い陽射しを浴びながら道行く人々にビラを配って支持を訴えた。炎天下を裁判所までデモ行進した。報告集会は「がんばろう三唱」で締めくくられた。「ふるさとを返せ」という願いは、原発事故の被害者として至極当然だ。原告の1人は言う。「なぜここまでしなくてはいけないのか。本来なら、こんな事をしなくても補償されるべきなんだ」。法廷で着席した時には、汗で服がびっしょりになっていた。
 原発事故から76カ月が過ぎても、ふるさとに帰って暮らせるめどは全く立たない。東京五輪は〝復興五輪〟だと言われるが、依然として帰還困難区域になっている津島地区では〝復興〟の足音すら聞こえない。
 次回期日は9月22日14時。季節は夏から秋、冬へと巡るが、原告の闘いは続く。



(了)
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鈴木博喜

Author:鈴木博喜
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