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【福島原発かながわ訴訟】「事故起こして平然としている、許せない」。第2回原告本人尋問。人災で失った故郷、将来への希望。「私は負けたくない」

原発事故の原因と責任の所在を明らかにし、完全賠償を求めて神奈川県内に避難した人々が国と東電を相手取って起こしている「福島原発かながわ訴訟」の第25回口頭弁論が19日、横浜地裁101号法廷(中平健裁判長)で開かれ、昨年11月(2017年11月18日号参照)に続いて2回目の原告本人尋問が一日がかりで行われた。本人尋問に臨んだのは浜通りを中心に男女7人。原発事故で失ったものや国や東電に対する怒りを口にした。次回期日は3月7日午前時10時。最後の原告本人尋問が行われる予定。2月8日には裁判官による浜通りの現地検証が実施される。


【奪われた日常、開き直る〝加害者〟】
 静まり返った法廷に、女性原告の怒りに満ちた声が響いた。
 「(賠償担当の)東電社員から『どうやって金をもらったんだ?』と大きな声で怒鳴られたのがすごくショックでした」
 福島県双葉郡富岡町に生まれ育った女性は原発事故後、正当な手続きを経て賠償金を受け取ったにもかかわらず、住民票の住所が神奈川県横浜市内になっていたというだけで〝加害者〟から不正受給を疑われ、罵倒された。実際には、それまで同居していた大学生の息子を横浜に残し自身は原発事故が起きる5年前から富岡町の実家に戻って暮らしていた。住民票を移していなかったのは県営住宅を自身の名義で契約していたためで、当然ながら不正受給では無い。これが、公の場では「被害者一人一人に寄り添う」と口にする加害企業の真の姿だった。
 自宅周辺は「居住制限区域」で2017年4月1日に避難指示が解除された。公的には「戻って暮らせる」とされているが、女性は「戻る予定は無い」と話した。
 「数十メートル先は帰還困難区域で放射線量も高い。生活のための商店や病院なども整っていない。戻っても暮らしていくのは難しいと思います。近所は家屋解体が進んでいて、戻ったのは高齢者世帯だけ。仮に戻ったとしても、健康被害が心配なので息子や孫は自宅に招きません。亡くなった両親から受け継いだ自宅を失い、言葉もありません」
 福島県福島市から横浜市内に母子避難した女性は当初、テレビから流れる「避難しなくても大丈夫」という言葉を信じていた。しかし、高校生の娘に変調が現れた。布団から出られず、食事もままならなくなった。「放射線が怖い」。中学生の頃、体操競技で東北大会にまで出場するほど活発だった娘は冷や汗が止まらず、学校にも通えなくなってしまった。避難後、心身ともに落ち着きを取り戻したが、学習の遅れなどから小学校教師の夢を断念せざるを得なくなってしまったという。
 放射性物質の拡散で、福島市内の自宅の評価額も下がってしまった。自身も原発事故後に緑内障を患った。東電の代理人弁護士は「福島市の発行する市政だよりでは『基本的には(被曝)リスクは極めて低い』というような事が書かれている。目にした事はあるか」などと質したが、被害者の心情など無視した開き直りと言わざるを得ない。原発事故さえなければ、放射線への恐怖も避難も必要無かったのだ。
 「原発事故で将来の希望を失った。放射性物質をまき散らしておいて平然としているのは許せないです」
 

閉廷後に開かれた報告集会。この日も、49の一般傍聴席に対し108人が集まり抽選が行われた=横浜市開港記念会館

【狂った人生、取れぬ〝胸のしこり〟】
 「パニック映画のワンシーンのようでした」
 経験したことのない揺れ、鳴り響く警報、煙の焦げ臭さ…。数百人が避難経路に殺到した。誰もが必死の形相だった。福島県双葉郡川内村に生まれ育った40代の男性は、福島第二原発の作業員として迎えた「3.11」を昨日の事のように振り返った。
 妻は無事だったが、富岡町内の自宅は半壊状態だった。原発事故を受けて川内村、葛尾村を経て、役場職員の指示で福島市内の福島県営あづま球場に向かったが、既に避難者であふれ返っていた。やむなく車中泊をし、茨城県ひたちなか市内の親せき宅に身を寄せ、自身はJヴィレッジでの仕事に戻った。
 「身体表面の汚染測定や除染を一週間やりました。食事は乾パン、冷たい廊下に雑魚寝でした」
 ここから人生が大きく狂い始める。千葉県内に転居した妻と考え方の違いが生じて離婚。もちろん、原発事故前は離婚の話題など出たことも無かった。また、従業員への被曝リスク、健康被害を軽視する会社の姿勢に疑問を抱き退社した。神奈川県川崎市内に転居。太陽光パネルの会社を経て、現在はマッサージ店を経営している。どんな想いを抱きながら避難生活を送っていたか。被告・国や東電には理解出来まい。
 「頻繁に福島に帰っていたので、なかなか就職活動が出来なかった。仮に働き始めても休みがちになってしまう。『これだから福島の人間は…』とだけは言われたくなかったんです」
 福島県双葉郡浪江町から避難した女性は、町のシルバー人材センターに登録して働く傍ら、100坪ほどの農園で無農薬野菜づくりに励んでいた。
 「米も野菜も浪江ではほとんど買った事が無かったです。味?そりゃあもう、避難先で買うのとはまるで違います。別物ですよ」
 ずっと浪江に帰れる日を夢見ていた。年に数回、一時帰宅しては自宅の片付けに汗を流した。しかし…。豊かな食べ物を作りだした農地は、除染作業ですっかり変わり果ててしまった。イノシシなどが室内を荒らし、大切にしていた着物も駄目になってしまった。昨年3月末で避難指示が部分解除されたが、生活環境は元通りにはなっていない。帰りたい。でも、その想いはいつのまにか萎んでしまった。
 「農村崩壊です。買い物をするにも南相馬市まで車で30~40分かけて行かなければいけません。周囲が帰らないのに私だけ戻ってもね…。天災ならあきらめもつくのかもしれないが、人災で戻れないという現状は、自分が積み重ねてきたものは何だったのだろうって思います。重いしこりが、どうしても取れないで胸の中にあるのです」


報告集会の会場では、いわき市内に避難した浪江町民が作った手芸品も販売された

【大きい喪失感、乏しい加害者意識】
 70代の男性は、小学校の校長まで務めた後、故郷の富岡町に戻って暮らしていた。荒れ地を自ら開墾した父親は、土地に対する感謝の言葉を常に口にしていたという。
 「『畑はかわいいなあ』なんて言ってましたね。私も、旬の野菜は五感を楽しませてくれるものだと思っていました。昔から風邪を引くこともなく、医師からは『100歳コースだね』と言われるほど元気な父でした」
 だが、原発事故に伴う避難生活で体調は一変する。農地に囲まれた富岡町から、市街地の川崎市へ。畑仕事も出来ず、外出も減った。急速に元気がなくなり、2年前に99歳の誕生日を目前にして亡くなった。男性は涙をこらえながら語った。
 「『帰りたいなあ』って言ってましたね。一世紀近くを富岡で過ごしたんですからね。強い望郷の念があったんだと思います」
 退職後、双葉幼稚園の園長として遊びを重視した3年保育に取り組んだが、最初の教え子の卒園式を3月23日に控えた矢先の原発事故。成長した姿を見る事も無く、避難でバラバラになってしまった。
 「まるで鳥の群れに石を投げたように、避難で四方八方に散ってしまいました。もう以前の富岡町ではありません。心も形もバラバラになってしまった。私が原発事故で失ったもの?『ふるさと』に尽きます。確かに一定の賠償金は得たが、喪失感は大きいです」
 被告・国や東電の代理人弁護士とは当然ながら話はかみ合わない。被曝リスクへの不安を口にすれば、もはや空間線量は大幅に下がっていると反論される。母親が避難先で転倒・骨折したという主張には、避難生活とは無関係だという方向での反対尋問が続いた。避難先で体調を崩した娘に寄り添っていた母親には「娘を独りで寝かせて働きに出る事は出来なかったのか」と迫って傍聴席の怒りを買った。既に支払われた賠償金の金額を挙げ、まるで原告が強欲であるかのように印象付ける発言も相次いだ。
 浪江町で英会話教室を経営していた女性は、それらの声を振り払うように想いを述べた。
 「原発事故で全てを失いました。新しい土地で英会話教室を再開したが、私の資産になるとの理由で事業再開にかかった費用を東電は賠償金として認めませんでした。納得出来ません。原発事故の責任を感じていないのではないでしょうか。私は負けたくありません」
 次回3月7日の期日で、原告に対する本人尋問は終了。2月8日の現地検証を経て、今年7月には結審する予定だ。弁護団の黒澤知弘弁護士は閉廷後「今年3月には京都、東京、いわきの集団訴訟の判決が言い渡される。ここで勝訴の波をつくれるかどうか、非常に大きな局面だ」と語った。



(了)
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プロフィール

鈴木博喜

Author:鈴木博喜
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