【中通りに生きる会・損害賠償請求訴訟】原告本人尋問始まる。語られた7通りの「精神的苦痛」。東電側の反対尋問に「ごせやげる」の声も~第9回口頭弁論
- 2018/02/08
- 06:10
ある者は証言台で嗚咽を漏らし、またある者は怒りや悔しさを表現した─。「中通りに生きる会」(平井ふみ子代表)の男女52人(福島県福島市や郡山市、田村市などに在住)が原発事故で精神的損害を被ったとして、東電を相手に起こした損害賠償請求訴訟の第9回口頭弁論が7日、福島地方裁判所206号法廷(金澤秀樹裁判長)で終日、行われた。今回から原告に対する本人尋問が開始。男女7人の原告が、それぞれの精神的損害について語った。次回期日は4月20日。以降も計7回にわたってほぼ全員の原告が本人尋問を受ける。
【耐え難い「自然奪われていない」】
法廷に嗚咽が響いた。決して裁判官に涙で訴えたのでは無い。〝あの時〟の事を思い出すと、自然と涙があふれてしまうのだ。政府による避難指示がだされていない、爆発した原発から60kmも離れている、として原発事故被害が軽く見られがちな福島県の中通りだが、被曝による身体的な被害だけでなく、どれだけ心にも深い傷を負ったのかが分かる。
平井ふみ子さん(福島市)は2010年春に脳腫瘍の手術を受け、体調の回復に向けゆっくりと過ごしていた。その矢先の原発事故。生きがいにしていた畑にも放射性物質は降り注ぎ、無農薬にこだわった畑仕事もあきらめた。事故直後の2011年3月20日には、福島市の自宅を離れて埼玉県内の娘の家に一時避難した。「お母さん、早く逃げて」。娘は何度もメールで避難を促した。体調が万全では無かったが、バスを乗り継いで12時間もかけて一時避難した。独りバスに揺られながら「なぜ私は逃げなければならないのだろう」、「この先どうなってしまうのだろう」とさまざまな想いが頭をよぎった。「バスの中の事を思い出すと、いつも涙が出てしまいます」と平井さんは法廷の真ん中で涙を流した。
確かに福島市には政府の避難指示は出されなかった。しかし、被曝リスクから逃れるために平井さんは動いた。被告・東電はそれを振りかざし、平井さんの行動が「自己判断」だと反論する。「私はこれまで、政府の指示によって人生の選択をした事は一度もありません」と平井さん。避難先でも浄水場の汚染を懸念した母親らがミネラルウォーターを買いに奔走していた。「逃げるのも地獄、逃げないのも地獄でした。そんな状況をつくったのは原発事故。東電に私の避難を云々する資格は無いと思う」。
福島市の自宅に戻った平井さんは2011年7月、町内会長として110世帯の放射線量を計測した。市役所が「測定器を貸与するから空間線量を報告するように」と求められたからだった。数値を報告すると、今度は「町内会で除染をして欲しい」と依頼された。除染のやり方もホットスポットという言葉も良く分からないまま、皆で「除染と称する大掃除」を実施した。しかし思ったほどの低減効果は得られず、残ったのは「4カ月間の外部被曝実効線量は2・3mSv」(2011年3月11日から7月11日までの推計)という数値だけだった。政府による避難指示の有無にかかわらず、平井さんは確実に被曝させられていた。現在も喉が痛み、両目は白内障と診断された。「福島市は盆地ですから、放射能の薄いドームの中で生活してきたんです。放射能の影響はあると思います。私の細胞を丹念に調べれば、放射性物質が見つかると思います」。
事故前に楽しんでいた山の散策も山菜採りも「出来なくなりました」。「東電が『中通りの豊かな自然は奪われていない』と言うのは耐え難い」と反論して尋問を終えた。

閉廷後に開かれた報告集会で本人尋問を振り返った野村吉太郎弁護士。原告の1人は「事前に考えていた事の半分も言えなかった」と悔しさをにじませた。法廷の真ん中で尋問を受けるという事は、それだけ大変な事なのだ=福島市市民会館
【打ち砕かれた福島での余生】
植木昭三さん、律子さん夫妻(福島市)は共に元教師。定年を迎え、2007年に東京から福島市に移住した。当時の想いを、2人は「希望を持って」、「喜びいっぱいで」、「夢にまで見た福島での生活」と振り返った。余生を自然豊かな美しい福島で暮らそう、と移り住んで4年の原発事故。昭三さんは言う。「希望に胸あふれていたが、もろくも崩れ去った」。既に提出した陳述書には、哀しさと放射能を浴びてしまった悔しさを込めた。律子さんも「原発事故で受けた哀しみや苦しみを、このまま黙って残りの人生を過ごす事は悔いを残す事になると考えました。つらくても、事実を訴えなければならないという想いで書きました」と語った。
二本松市内の小学校で非常勤講師や介助員をしていた植木さん夫妻。マスクをし、長袖で登校。授業中も窓を閉め切っている様子に心が痛んだ。「ここで生活する事が正しい事なのか」。悩みながら子どもたちと接したがどうする事も出来ない。自由にのびのびとさせてあげられない状況は耐え難かったと振り返る。「教え子はわが子と同じくらいに大切ですから」と律子さん。勤務先の小学校は、校庭の空間線量が3μSv/hあると耳にした。「100mSv以下で健康影響が出ないという証拠はどこにもありません。毎日ビクビク、生きた心地がしなかった」と話す。福島市内の自宅は2014年にようやく除染されたが、汚染度は今も玄関近くの敷地内に埋められたまま。「ここに放射性物質が埋めてあるんだ、と思うと思わず息を止めてしまいます。早く搬出して欲しいが目途が立っていません」。ストレスを抱えながらの7年間だった。
昭三さんは今、リウマチ性多発筋痛症という病に悩まされている。原発事故から2年が経った2013年から全身が痛み出した。単なる筋肉痛かと思ったが、やがて歩く事も困難になった。「それまで病気らしい病気などした事が無かった」昭三さん。やがて赤ペンで丸をつけることさえ出来なくなってしまった。教育一筋。子どもたちの成長を見守るのが生きがいだったという。「毎日の授業が楽しかった。辞めたくなかったが、退職せざるを得なくなった。心も大きく傷つきました」。病院で調べてもらったが原因は分からない。「被曝の影響です」などと明言する医師などいるはずも無い。それでも、昭三さんは「原発事故が引き金になったのではないか」と考えている。原告席でも、しんどそうに右肩をおさえる場面もあった。
お金が欲しいわけでは無い。しかし、被った損害を償ってもらうにはお金しか無い。
「(東電から既に支払われた)12万円だけでは足りません」

被告・東電の代理人弁護士が盛んに引用した資料の1つが「ふくしま市政だより 2011年4月21日号」だった。福島県放射線健康リスク管理アドバイザーだった山下俊一氏や高村昇氏が監修したQ&Aを挙げ「行政は当時、子どもを外遊びさせても洗濯物を屋外に干しても大丈夫、という見解を広報していた」と原告たちの不安が〝過剰不安〟〝正しい知識に基づかない不安〟だと迫った
【「事故前の0・04μSv/hに戻して」】
福島市の女性原告は「心が壊れてしまった」と述べた。原発事故から1カ月後の4月中旬、友人を誘って市内の花見山や小鳥の森を散策した。後に放射線量が高い場所と知り、友人に詫びを入れた。以来、大好きな散策をやめてしまった。「山に入るなど考えられません。生活の潤いがなくなってしまいました」。放射性物質に色が付いていたら良いのに、と考えた事もある。そんな想いを抱きながら大好きな山を眺めていたら一瞬、山が灰色に見えた。まばたきをし、我に返ると山はいつもの色だった。女性は「心の目」と表現した。ある日突然、放射性物質が暮らしの中に降り注ぐという事は、こういう事なのだ。
別の女性原告(福島市)は、癌を患った事のある息子のためにせめて、と息子家族の自宅の庭を自主除染した。マスクをし、3日間にわたって芝生を剥いだが、目の保護までは思いが至らなかった。その後、目を患い網膜のレーザー治療を7回も受けた。「失明してしまうのではないかと心配です」。確かに血圧は低くは無かったが、眼底出血するほどでは無いと医師は不思議がったという。「息子にしてあげられる精一杯の除染でした。原発事故が無ければそんな事をする必要も無かった」と女性。ストレスで軽度のうつ病にもなり、原因不明の体調不良が続く。車の運転も出来なくなった。「以前は自信にあふれ、元気はつらつでした。原発事故前の身体に戻りたい」。当然の訴えだった。
「本当は逃げたかった」と話したのは福島市の女性。夫の病気で避難を断念したが、県外産の食材を探すなど初孫を守るために必死で奔走した。除染で自宅の庭から大切にしていた花がなくなってしまった。娘や孫は現在は仙台市内で暮らしているが「原発事故が無ければ遠くに行く必要は無かった。近くにいたんです」。
中通りで暮らす女性は「原発事故前の0・04μSv/hに戻して欲しい」と求めた。「放射能は目に見えません。五感で感じる事の出来ない〝サイレントキラー〟。被曝の心配は取り越し苦労ではありません」。線源から少しでも遠ざかるべきだという事は分かっていたが、様々な事情で避難は叶わなかった。「それで良かったのかと今も葛藤は続いています」と女性。「いくら専門家に大丈夫と言われても不安は拭い切れません」と訴えた。
閉廷後に開かれた報告集会で、女性原告の放った言葉が痛烈だった。東電の代理人弁護士が市の広報紙や新聞記事を示しながら「専門家が大丈夫だと言っている。それでも不安は解消されないのか」などと反対尋問で繰り返し質したからだ。
「東電の代理人弁護士は現実的に福島に住んだ事も無い。1週間も生活した事の無い人たちが机上の資料ばかり提示して、ものすごく『ごせやげる』。聞いていられない」
「ごせやげる」とは、福島の方言で「腹が立つ」の意味。これ以上ない言葉だった。
(了)
【耐え難い「自然奪われていない」】
法廷に嗚咽が響いた。決して裁判官に涙で訴えたのでは無い。〝あの時〟の事を思い出すと、自然と涙があふれてしまうのだ。政府による避難指示がだされていない、爆発した原発から60kmも離れている、として原発事故被害が軽く見られがちな福島県の中通りだが、被曝による身体的な被害だけでなく、どれだけ心にも深い傷を負ったのかが分かる。
平井ふみ子さん(福島市)は2010年春に脳腫瘍の手術を受け、体調の回復に向けゆっくりと過ごしていた。その矢先の原発事故。生きがいにしていた畑にも放射性物質は降り注ぎ、無農薬にこだわった畑仕事もあきらめた。事故直後の2011年3月20日には、福島市の自宅を離れて埼玉県内の娘の家に一時避難した。「お母さん、早く逃げて」。娘は何度もメールで避難を促した。体調が万全では無かったが、バスを乗り継いで12時間もかけて一時避難した。独りバスに揺られながら「なぜ私は逃げなければならないのだろう」、「この先どうなってしまうのだろう」とさまざまな想いが頭をよぎった。「バスの中の事を思い出すと、いつも涙が出てしまいます」と平井さんは法廷の真ん中で涙を流した。
確かに福島市には政府の避難指示は出されなかった。しかし、被曝リスクから逃れるために平井さんは動いた。被告・東電はそれを振りかざし、平井さんの行動が「自己判断」だと反論する。「私はこれまで、政府の指示によって人生の選択をした事は一度もありません」と平井さん。避難先でも浄水場の汚染を懸念した母親らがミネラルウォーターを買いに奔走していた。「逃げるのも地獄、逃げないのも地獄でした。そんな状況をつくったのは原発事故。東電に私の避難を云々する資格は無いと思う」。
福島市の自宅に戻った平井さんは2011年7月、町内会長として110世帯の放射線量を計測した。市役所が「測定器を貸与するから空間線量を報告するように」と求められたからだった。数値を報告すると、今度は「町内会で除染をして欲しい」と依頼された。除染のやり方もホットスポットという言葉も良く分からないまま、皆で「除染と称する大掃除」を実施した。しかし思ったほどの低減効果は得られず、残ったのは「4カ月間の外部被曝実効線量は2・3mSv」(2011年3月11日から7月11日までの推計)という数値だけだった。政府による避難指示の有無にかかわらず、平井さんは確実に被曝させられていた。現在も喉が痛み、両目は白内障と診断された。「福島市は盆地ですから、放射能の薄いドームの中で生活してきたんです。放射能の影響はあると思います。私の細胞を丹念に調べれば、放射性物質が見つかると思います」。
事故前に楽しんでいた山の散策も山菜採りも「出来なくなりました」。「東電が『中通りの豊かな自然は奪われていない』と言うのは耐え難い」と反論して尋問を終えた。

閉廷後に開かれた報告集会で本人尋問を振り返った野村吉太郎弁護士。原告の1人は「事前に考えていた事の半分も言えなかった」と悔しさをにじませた。法廷の真ん中で尋問を受けるという事は、それだけ大変な事なのだ=福島市市民会館
【打ち砕かれた福島での余生】
植木昭三さん、律子さん夫妻(福島市)は共に元教師。定年を迎え、2007年に東京から福島市に移住した。当時の想いを、2人は「希望を持って」、「喜びいっぱいで」、「夢にまで見た福島での生活」と振り返った。余生を自然豊かな美しい福島で暮らそう、と移り住んで4年の原発事故。昭三さんは言う。「希望に胸あふれていたが、もろくも崩れ去った」。既に提出した陳述書には、哀しさと放射能を浴びてしまった悔しさを込めた。律子さんも「原発事故で受けた哀しみや苦しみを、このまま黙って残りの人生を過ごす事は悔いを残す事になると考えました。つらくても、事実を訴えなければならないという想いで書きました」と語った。
二本松市内の小学校で非常勤講師や介助員をしていた植木さん夫妻。マスクをし、長袖で登校。授業中も窓を閉め切っている様子に心が痛んだ。「ここで生活する事が正しい事なのか」。悩みながら子どもたちと接したがどうする事も出来ない。自由にのびのびとさせてあげられない状況は耐え難かったと振り返る。「教え子はわが子と同じくらいに大切ですから」と律子さん。勤務先の小学校は、校庭の空間線量が3μSv/hあると耳にした。「100mSv以下で健康影響が出ないという証拠はどこにもありません。毎日ビクビク、生きた心地がしなかった」と話す。福島市内の自宅は2014年にようやく除染されたが、汚染度は今も玄関近くの敷地内に埋められたまま。「ここに放射性物質が埋めてあるんだ、と思うと思わず息を止めてしまいます。早く搬出して欲しいが目途が立っていません」。ストレスを抱えながらの7年間だった。
昭三さんは今、リウマチ性多発筋痛症という病に悩まされている。原発事故から2年が経った2013年から全身が痛み出した。単なる筋肉痛かと思ったが、やがて歩く事も困難になった。「それまで病気らしい病気などした事が無かった」昭三さん。やがて赤ペンで丸をつけることさえ出来なくなってしまった。教育一筋。子どもたちの成長を見守るのが生きがいだったという。「毎日の授業が楽しかった。辞めたくなかったが、退職せざるを得なくなった。心も大きく傷つきました」。病院で調べてもらったが原因は分からない。「被曝の影響です」などと明言する医師などいるはずも無い。それでも、昭三さんは「原発事故が引き金になったのではないか」と考えている。原告席でも、しんどそうに右肩をおさえる場面もあった。
お金が欲しいわけでは無い。しかし、被った損害を償ってもらうにはお金しか無い。
「(東電から既に支払われた)12万円だけでは足りません」

被告・東電の代理人弁護士が盛んに引用した資料の1つが「ふくしま市政だより 2011年4月21日号」だった。福島県放射線健康リスク管理アドバイザーだった山下俊一氏や高村昇氏が監修したQ&Aを挙げ「行政は当時、子どもを外遊びさせても洗濯物を屋外に干しても大丈夫、という見解を広報していた」と原告たちの不安が〝過剰不安〟〝正しい知識に基づかない不安〟だと迫った
【「事故前の0・04μSv/hに戻して」】
福島市の女性原告は「心が壊れてしまった」と述べた。原発事故から1カ月後の4月中旬、友人を誘って市内の花見山や小鳥の森を散策した。後に放射線量が高い場所と知り、友人に詫びを入れた。以来、大好きな散策をやめてしまった。「山に入るなど考えられません。生活の潤いがなくなってしまいました」。放射性物質に色が付いていたら良いのに、と考えた事もある。そんな想いを抱きながら大好きな山を眺めていたら一瞬、山が灰色に見えた。まばたきをし、我に返ると山はいつもの色だった。女性は「心の目」と表現した。ある日突然、放射性物質が暮らしの中に降り注ぐという事は、こういう事なのだ。
別の女性原告(福島市)は、癌を患った事のある息子のためにせめて、と息子家族の自宅の庭を自主除染した。マスクをし、3日間にわたって芝生を剥いだが、目の保護までは思いが至らなかった。その後、目を患い網膜のレーザー治療を7回も受けた。「失明してしまうのではないかと心配です」。確かに血圧は低くは無かったが、眼底出血するほどでは無いと医師は不思議がったという。「息子にしてあげられる精一杯の除染でした。原発事故が無ければそんな事をする必要も無かった」と女性。ストレスで軽度のうつ病にもなり、原因不明の体調不良が続く。車の運転も出来なくなった。「以前は自信にあふれ、元気はつらつでした。原発事故前の身体に戻りたい」。当然の訴えだった。
「本当は逃げたかった」と話したのは福島市の女性。夫の病気で避難を断念したが、県外産の食材を探すなど初孫を守るために必死で奔走した。除染で自宅の庭から大切にしていた花がなくなってしまった。娘や孫は現在は仙台市内で暮らしているが「原発事故が無ければ遠くに行く必要は無かった。近くにいたんです」。
中通りで暮らす女性は「原発事故前の0・04μSv/hに戻して欲しい」と求めた。「放射能は目に見えません。五感で感じる事の出来ない〝サイレントキラー〟。被曝の心配は取り越し苦労ではありません」。線源から少しでも遠ざかるべきだという事は分かっていたが、様々な事情で避難は叶わなかった。「それで良かったのかと今も葛藤は続いています」と女性。「いくら専門家に大丈夫と言われても不安は拭い切れません」と訴えた。
閉廷後に開かれた報告集会で、女性原告の放った言葉が痛烈だった。東電の代理人弁護士が市の広報紙や新聞記事を示しながら「専門家が大丈夫だと言っている。それでも不安は解消されないのか」などと反対尋問で繰り返し質したからだ。
「東電の代理人弁護士は現実的に福島に住んだ事も無い。1週間も生活した事の無い人たちが机上の資料ばかり提示して、ものすごく『ごせやげる』。聞いていられない」
「ごせやげる」とは、福島の方言で「腹が立つ」の意味。これ以上ない言葉だった。
(了)
スポンサーサイト