【84カ月目の飯舘村はいま】「帰りたいけど…」。仮設住宅で想い続ける故郷。村民が語る「帰村」「復興」「ハコもの」。ウクライナ・サマショーロの報告も
- 2018/03/20
- 07:39
飯舘村民の想いが公民館に充満した。「ウクライナと福島の交流会~高齢者の終の住処を考える」が18日、福島県相馬郡飯舘村の交流センター「ふれ愛館」で開かれ、3人の村民が「帰還」、「復興」、「ハコもの行政」などについて想いを語った。ウクライナ共和国でチェルノブイリ原発から30km圏内のゾーンガイドを務めるフランチュク・セルゲイさんも参加。「サマショーロ」と呼ばれ、食料や医療などの問題に直面する高齢者たちの現状を示しながら、時間と共に減って行った公的支援の問題にも言及した。「ゼロFuku」などの主催。
【「故郷に帰りたい」叫び続けた7年】
「どうしよう、どうしようと思って、毎日毎日、伊達の里の散歩コースを歩いて7年間生きてきました。山の見える所に行くと霊山の山と連なって飯舘村の山並みが続きます。山津見神社の霊峰が見えます。山の尾根を眺めながら『あゝ我が故郷よ。帰りたいなあ』と何回、心の中で叫んだことか。そんな生活を7年繰り返しました」
〝佐須の味噌〟で知られる菅野栄子さん(82)の言葉に、司会進行役の木村真三氏(独協医科大学准教授、同大国際疫学研究室福島分室室長)も「身につまされる」と涙で言葉を詰まらせた。誰だって生まれ育った村に帰りたい。原発事故前のように、豊かな自然に囲まれて穏やかに暮らしたい。住み慣れた故郷で味噌や凍み餅を作りたい。〝ばっぱ〟の苦悩は7年間続き、そして今も解消されていない。
「〝帰村宣言〟されて『飯舘村に帰っても良いですよ』と言われましたけど、伊達市内の仮設住宅に残っています。頭の中にクエスチョンマークがいっぱいあるもんですから。私たち高齢者が飯舘村に帰って来て、どういう生活を送れるのだろうという青写真が私の頭の中ではまだ描かれていません。原発事故は地域の絆も家族の絆も分断し、私は一人旅をする事になりました。いま村に帰って来ても、年寄りばかりの村が安心と安全がどれだけ担保に入っているのか。私もあと何年生きられるか分かりません。いつまでもクエスチョンマークを抱えているわけにはいきませんので、1日も早く村の福祉が充実し、『あなた方の老後は村が責任を持ちますよ』と言って欲しいなと思っています」
木村氏は「何で『帰還ありき』になってしまうのか、というところに私も問題を感じる。ここに帰って来て何とかして頑張っていく、というのも〝あり〟だと思う。ただ、現状としては陸上競技場や五輪の予選が出来るんじゃないかというようなサッカー場をつくったり、小中学校がリフォームと言いながら40億円かけてすごいものになっていく。そういう〝ハコもの〟で『帰す』ということばっかり。なぜもっと、栄子さんのような声が拾われないのか」と疑問を投げかけた。



(上)3人の村民が率直な想いを語り合ったパネルディスカッション=飯舘村交流センター「ふれ愛館」
(中)「村に帰りたい。でもクエスチョンマークが消えない」と語った菅野栄子さんの背後には、除染土壌の入ったフレコンバッグが山のように積まれている
(下)4月1日に開校する小中学校の前では、全天候型400mトラックと人工芝サッカー場の整備工事が続いている。「帰還後の子供たちが安心してスポーツを楽しむ環境が整備され、子供たちの運動機会の確保と体力向上を促進し、子育て世帯の帰還の促進と定住促進を図る」のが目的という
【「5mSvや20mSvでなく年1mSvだ」】
「議会軽視、村民軽視が7年経った今も続いている。村の施策がメディアに先に発表されて、その後に議会や区長会に投げ掛けられる。民主主義そのものが壊された7年間だった。ハコものの建設がほぼ終わり、これからは維持経費がかかってくる」
そう語ったのは、村議で、2016年10月の村長選挙で菅野典雄村長と対峙した佐藤八郎さん。「4月から村内で学校が再開されるが、入学を予定しているのは743人のうち100人を超したくらい。14%程度の子どもがバスやタクシーで通学して来る。しかし、中学校3年生が22人、小学校6年生が13人。来年には卒業していく。入学者が増えない限りは学校運営はなかなか容易では無い。まだ多くの村民が福島市内で生活している。来年、再来年に戻るとはならないだろう。現状では村に戻った人の80%が高齢者。これが、国の言う『インフラ整備の出来た自治体』だ。まったくふざけた話。私たちは棄民では無い。村の学校に通う子どもたちがこれ以上被曝しないために何をするべきかも考えなければならない。これまで村内では年5mSv未満を基準に除染が実施されてきたが、本来は年1mSvを目指すべきだ。汚染の高い所に住めなんて加害者に言われる筋合いはありません」。菅野栄子さんも「年1mSvを目指して努力する義務があると思う」と話した。
〝40代代表〟として参加した愛澤卓見さんも、村に戻らず福島市内の借り上げ住宅での生活を継続中。「それも2019年3月末で終了してしまう。自宅を新築している人もいるが、自分はまだ、どこに住むというのも五里霧中な状態。腰が定まっていません」と話した愛澤さん。「特に子育て世代がどこに家を建てるかというのは本来は人生設計上の選択であって、村の再建とか復興とかの観点では無いはずです。村外に家を建てても良いはずなのに村を捨てたかのように言われてしまう事もある」と指摘した。
「代案を提示出来ない以上、〝ハコもの行政〟もやむを得ない、反対一辺倒ではないが、行政体としての村が存続していくのは難しいだろうというのが40代以下の率直な認識です。悲観的に見ている人は多い。村内で再開される学校に100人を超える子どもが通うというのは避難指示が解除された地域では突出して多いが、いつまで続くのだろうか。毎日毎日1時間かけてスクールバスで通学するのは子どもたちへの負担にもなる」



(上)「サマショーロの老人たちの今」と題して講演したフランチュク・セルゲイさん。「皆さんも自分の国の政府の事をあまり信用しない方が良い」と語りかける場面も
(中)ゾーン内で暮らすマリアさん。「こんなに大変な状況になる事が分かっていたら帰って来なかった。将来的には娘の住むキエフに移りたい」と話す。同じ村で暮らす人は13人に減ったという。
(下)「ふれ愛館」に隣接して駐在所が設置された飯舘村。〝村の駐在さん〟が常駐する
【「政府を信用しない方が良い」】
パネルディスカッションに先立ち、ウクライナ共和国で「チェルノブイリ・ゾーンガイド」として働くフランチュク・セルゲイさんが「サマショーロの老人たちの今」と題して講演した。セルゲイさんは環境省認定のガイドで、チェルノブイリ原発から30km圏内への立ち入り希望者に同行し禁止事項に違反しないか全ての行動を管理している。2017年に立ち入りを希望したのは4万9758人で、そのうち670人が日本人だったという。
「福島では帰還政策が始まったと聞きましたが、私の働くチェルノブイリから30kmゾーンでは、32年経った今でも公式には生活が許されていません。検問が設置され、警察によって入域が管理されています。そこは強制移住地域だが、戻って生活している人々がいます。現地では『サマショーロ』と呼ばれています。ほとんどが独り暮らしの高齢者で、行政からのサポートは限定的です。相当な覚悟が無いと生活は厳しい。特に食料と医療の問題が大きく、雪が降ると移動販売車が来られないので主食のパンが手に入りません。病院や診療所はゾーンから数十km離れた場所にしかありません。薬局が無いので不衛生な包帯を使っている。倒れてしまったら、そのまま。故郷への強い想いの先には、実際には多くの困難が待ち受けていた、というのがウクライナの現状です」
「国が住民を支援したのは初めの頃だけで、時間が経つと国からのサポートは一切なくなった」と話したセルゲイさん。「皆さんも自分の国の政府の事をあまり信用しない方が良いと思います」と呼びかけた。「飯舘村に戻りたい人がいれば自己責任で帰れば良いと思う。無理に引っ張って来て住まわせる必要は無い。近い将来、山にある汚染が除染をしたはずの所に下りてくるのは間違いありません。ここは皆さんの土地です。皆さんが考えて決断してください」。
都合がつかず、パネルディスカッションには「コメントの代読」という形での参加となった菅野義人さん(比曽行政区)は、村に戻って営農再開を目指している。その人ですら、次のような言葉を託したという意味を、村役場も私たちも重く受け止める必要がある。
「ハコもの行政のやり方に疑問がある。汚染度の高い比曽地区は5戸しか戻って来ていない。生活をする上で、郵便ポストが無い。郵便物を投函するのに隣の行政区に行かなければならない。一部の宅配業者は『配達しない地域』にしている。ガソリンスタンドも再開していない。『農地回復』と言うが、除染された農地は砂だらけ。時には石ころだらけ。水はけが悪くなった場所は自分たちで解決しなければならない。マイナスからのスタートだ。最近の広報紙では、線量による帰還を『若い人が安心して暮らせるようになった』と書いてある。こうした取り組みも重要。賛否両論あるが、甲状腺ガンも気にして生きていかなければならない」
(了)
【「故郷に帰りたい」叫び続けた7年】
「どうしよう、どうしようと思って、毎日毎日、伊達の里の散歩コースを歩いて7年間生きてきました。山の見える所に行くと霊山の山と連なって飯舘村の山並みが続きます。山津見神社の霊峰が見えます。山の尾根を眺めながら『あゝ我が故郷よ。帰りたいなあ』と何回、心の中で叫んだことか。そんな生活を7年繰り返しました」
〝佐須の味噌〟で知られる菅野栄子さん(82)の言葉に、司会進行役の木村真三氏(独協医科大学准教授、同大国際疫学研究室福島分室室長)も「身につまされる」と涙で言葉を詰まらせた。誰だって生まれ育った村に帰りたい。原発事故前のように、豊かな自然に囲まれて穏やかに暮らしたい。住み慣れた故郷で味噌や凍み餅を作りたい。〝ばっぱ〟の苦悩は7年間続き、そして今も解消されていない。
「〝帰村宣言〟されて『飯舘村に帰っても良いですよ』と言われましたけど、伊達市内の仮設住宅に残っています。頭の中にクエスチョンマークがいっぱいあるもんですから。私たち高齢者が飯舘村に帰って来て、どういう生活を送れるのだろうという青写真が私の頭の中ではまだ描かれていません。原発事故は地域の絆も家族の絆も分断し、私は一人旅をする事になりました。いま村に帰って来ても、年寄りばかりの村が安心と安全がどれだけ担保に入っているのか。私もあと何年生きられるか分かりません。いつまでもクエスチョンマークを抱えているわけにはいきませんので、1日も早く村の福祉が充実し、『あなた方の老後は村が責任を持ちますよ』と言って欲しいなと思っています」
木村氏は「何で『帰還ありき』になってしまうのか、というところに私も問題を感じる。ここに帰って来て何とかして頑張っていく、というのも〝あり〟だと思う。ただ、現状としては陸上競技場や五輪の予選が出来るんじゃないかというようなサッカー場をつくったり、小中学校がリフォームと言いながら40億円かけてすごいものになっていく。そういう〝ハコもの〟で『帰す』ということばっかり。なぜもっと、栄子さんのような声が拾われないのか」と疑問を投げかけた。



(上)3人の村民が率直な想いを語り合ったパネルディスカッション=飯舘村交流センター「ふれ愛館」
(中)「村に帰りたい。でもクエスチョンマークが消えない」と語った菅野栄子さんの背後には、除染土壌の入ったフレコンバッグが山のように積まれている
(下)4月1日に開校する小中学校の前では、全天候型400mトラックと人工芝サッカー場の整備工事が続いている。「帰還後の子供たちが安心してスポーツを楽しむ環境が整備され、子供たちの運動機会の確保と体力向上を促進し、子育て世帯の帰還の促進と定住促進を図る」のが目的という
【「5mSvや20mSvでなく年1mSvだ」】
「議会軽視、村民軽視が7年経った今も続いている。村の施策がメディアに先に発表されて、その後に議会や区長会に投げ掛けられる。民主主義そのものが壊された7年間だった。ハコものの建設がほぼ終わり、これからは維持経費がかかってくる」
そう語ったのは、村議で、2016年10月の村長選挙で菅野典雄村長と対峙した佐藤八郎さん。「4月から村内で学校が再開されるが、入学を予定しているのは743人のうち100人を超したくらい。14%程度の子どもがバスやタクシーで通学して来る。しかし、中学校3年生が22人、小学校6年生が13人。来年には卒業していく。入学者が増えない限りは学校運営はなかなか容易では無い。まだ多くの村民が福島市内で生活している。来年、再来年に戻るとはならないだろう。現状では村に戻った人の80%が高齢者。これが、国の言う『インフラ整備の出来た自治体』だ。まったくふざけた話。私たちは棄民では無い。村の学校に通う子どもたちがこれ以上被曝しないために何をするべきかも考えなければならない。これまで村内では年5mSv未満を基準に除染が実施されてきたが、本来は年1mSvを目指すべきだ。汚染の高い所に住めなんて加害者に言われる筋合いはありません」。菅野栄子さんも「年1mSvを目指して努力する義務があると思う」と話した。
〝40代代表〟として参加した愛澤卓見さんも、村に戻らず福島市内の借り上げ住宅での生活を継続中。「それも2019年3月末で終了してしまう。自宅を新築している人もいるが、自分はまだ、どこに住むというのも五里霧中な状態。腰が定まっていません」と話した愛澤さん。「特に子育て世代がどこに家を建てるかというのは本来は人生設計上の選択であって、村の再建とか復興とかの観点では無いはずです。村外に家を建てても良いはずなのに村を捨てたかのように言われてしまう事もある」と指摘した。
「代案を提示出来ない以上、〝ハコもの行政〟もやむを得ない、反対一辺倒ではないが、行政体としての村が存続していくのは難しいだろうというのが40代以下の率直な認識です。悲観的に見ている人は多い。村内で再開される学校に100人を超える子どもが通うというのは避難指示が解除された地域では突出して多いが、いつまで続くのだろうか。毎日毎日1時間かけてスクールバスで通学するのは子どもたちへの負担にもなる」



(上)「サマショーロの老人たちの今」と題して講演したフランチュク・セルゲイさん。「皆さんも自分の国の政府の事をあまり信用しない方が良い」と語りかける場面も
(中)ゾーン内で暮らすマリアさん。「こんなに大変な状況になる事が分かっていたら帰って来なかった。将来的には娘の住むキエフに移りたい」と話す。同じ村で暮らす人は13人に減ったという。
(下)「ふれ愛館」に隣接して駐在所が設置された飯舘村。〝村の駐在さん〟が常駐する
【「政府を信用しない方が良い」】
パネルディスカッションに先立ち、ウクライナ共和国で「チェルノブイリ・ゾーンガイド」として働くフランチュク・セルゲイさんが「サマショーロの老人たちの今」と題して講演した。セルゲイさんは環境省認定のガイドで、チェルノブイリ原発から30km圏内への立ち入り希望者に同行し禁止事項に違反しないか全ての行動を管理している。2017年に立ち入りを希望したのは4万9758人で、そのうち670人が日本人だったという。
「福島では帰還政策が始まったと聞きましたが、私の働くチェルノブイリから30kmゾーンでは、32年経った今でも公式には生活が許されていません。検問が設置され、警察によって入域が管理されています。そこは強制移住地域だが、戻って生活している人々がいます。現地では『サマショーロ』と呼ばれています。ほとんどが独り暮らしの高齢者で、行政からのサポートは限定的です。相当な覚悟が無いと生活は厳しい。特に食料と医療の問題が大きく、雪が降ると移動販売車が来られないので主食のパンが手に入りません。病院や診療所はゾーンから数十km離れた場所にしかありません。薬局が無いので不衛生な包帯を使っている。倒れてしまったら、そのまま。故郷への強い想いの先には、実際には多くの困難が待ち受けていた、というのがウクライナの現状です」
「国が住民を支援したのは初めの頃だけで、時間が経つと国からのサポートは一切なくなった」と話したセルゲイさん。「皆さんも自分の国の政府の事をあまり信用しない方が良いと思います」と呼びかけた。「飯舘村に戻りたい人がいれば自己責任で帰れば良いと思う。無理に引っ張って来て住まわせる必要は無い。近い将来、山にある汚染が除染をしたはずの所に下りてくるのは間違いありません。ここは皆さんの土地です。皆さんが考えて決断してください」。
都合がつかず、パネルディスカッションには「コメントの代読」という形での参加となった菅野義人さん(比曽行政区)は、村に戻って営農再開を目指している。その人ですら、次のような言葉を託したという意味を、村役場も私たちも重く受け止める必要がある。
「ハコもの行政のやり方に疑問がある。汚染度の高い比曽地区は5戸しか戻って来ていない。生活をする上で、郵便ポストが無い。郵便物を投函するのに隣の行政区に行かなければならない。一部の宅配業者は『配達しない地域』にしている。ガソリンスタンドも再開していない。『農地回復』と言うが、除染された農地は砂だらけ。時には石ころだらけ。水はけが悪くなった場所は自分たちで解決しなければならない。マイナスからのスタートだ。最近の広報紙では、線量による帰還を『若い人が安心して暮らせるようになった』と書いてある。こうした取り組みも重要。賛否両論あるが、甲状腺ガンも気にして生きていかなければならない」
(了)
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