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【84カ月目の浪江町はいま】〝なみえっ子ファイブ〟から2人巣立つ。二本松市内で浪江小学校の卒業式。原発避難で町民離散、新入生なく3年後に閉校へ

福島県内公立小学校の卒業式が行われた23日、在校生5人の小さな小学校でも2人の卒業生が多くの拍手に包まれて巣立った。福島県双葉郡浪江町の浪江小学校。原発事故当時、幼稚園児だった2人は、放射性物質の拡散による全町避難で親とともに町を離れ、福島県二本松市内の校舎で津島小学校の児童と一緒に小学校生活を送って来た。2人は、4月からは再び本宮市と浪江町で別々の中学校生活を送る。1人は町内に新たに開校する中学校に進学する事になった。原発事故に翻弄され続けた学校。新入生は無く、在校生が全員卒業する3年後には役目を終える。

【「思いもよらぬ原発事故避難」】
 浪江小学校を卒業したのは、今野笑瑠捺(えるな)さんと小船井晴彦君。二本松市の伝統工芸で、重要無形文化財にも指定されている「上川崎和紙」で子どもたちが作った卒業証書を遠藤和雄校長から手渡された。1万894人目の卒業生。遠藤校長は、今野さんには「おみこしやダンスで皆に笑顔と元気を届けてくれました」、小船井君には「晴くんの描いてくれた電車が〝なみえっ子ファイブ〟の夢をのせて走ってくれました」との言葉を添えた。3人の在校生(浪江小4年生、津島小3、5年生)には、それぞれの学年の修了証書が授与された。
 遠藤校長と津島小学校の郡司博明校長は式辞で「思いもよらぬ原発事故による避難から7年が経った。成長した2人の姿に、これまでの苦労も喜びに変わったと思う。子どもたちの姿は、まさに故郷の未来を照らす光であると確信している」などと保護者に語りかけた。
 馬場有(たもつ)町長が体調不良で欠席したため、本間茂行副町長が祝辞を代読。
 馬場町長は「7年前5歳だった2人は、幼稚園や保育園で多くの友達と楽しい日々を過ごしていたと思います。あの災害で2人の生活は大きく変わってしまいました。住んでいた家を離れて知らない場所で避難生活をしなければならなくなり、大きな不安を持ったことでしょう。引っ越しも数回され、周りの環境に慣れるのも大変だったと思います」と2人の卒業生を労った上で「努力をして結果が出ると自信になる。努力をせず、結果が出るとおごりになる。努力をせず、結果も出ないと後悔する。努力をして、結果が出ないとしても経験が生まれる」との言葉を贈った。
 今野さんと小船井君には、卒業記念品として浪江町からは英和辞書が、なみえ焼きそばを使った町おこし団体「浪江焼麺太国」からは大堀相馬焼の大皿が、浪江小学校からは二本松市の伝統工芸で作られた木製の本立てが贈られた。卒業生からは3基のトランポリンが贈られ、遠藤校長は「時々、先生も使わせてください」と述べて、会場の笑いを誘った。
 「別れのことば」を述べた今野さんは「兵庫県や福島県本宮市への避難を経て、2年生の時に(避難先の)本宮小学校から転校して来ました。これからも自分の故郷に誇りを持ち、夢に向かって頑張ります。違う中学校に行っても、晴彦君との友情は永遠です」と話した。最後まで机上に振る舞っていた今野さんだったが、最後はこらえきれずに涙を拭った。






(上)浪江小学校を卒業した小船井晴彦君(左)と今野笑瑠捺さん。4月からは小船井君は浪江町内の中学校へ、今野さんは本宮市内の中学校に通う
(中)卒業式後、学校応援団が「卒業を祝う会」を開いた。杉乃家のなみえ焼きそばやケーキ、カボチャまんじゅうが振る舞われた
(下)校舎の入り口には、2人の卒業生が前日に描いた似顔絵が飾られていた=福島県二本松市下川崎

【4月には浪江町内にも開校】
 子どもたちも学校も、原発事故に振り回されてきた7年間だった。
 津島小学校の郡司校長は、慎重に言葉を選びながらも「新入生は望めません。4月から在校生は4、5、6年生。つまり、来年から1人ずつ巣立って行くわけです。3年後には在校生がいなくなってしまう。来月には、浪江町内に『なみえ創成小学校・なみえ創成中学校』が開校しますから、3年後に在校生がゼロになった時点でこの学校の役目も終えます。日ごろはあまり口にはしませんが、原発事故さえ無ければこんなことにはならなかった。本当に良い環境だったんですから、津島小学校は」と悔しさをにじませた。
 原発事故が起きた2011年4月、浪江町には1162人の小学生がいた。浪江小学校には558人、津島小学校にも58人が在籍していたが、放射性物質の拡散による避難で町民が離散。請戸小学校、大堀小学校、苅野小学校など町立小学校は休校に追い込まれた。その年の8月、旧二本松市立下川崎小学校の校舎を除染して浪江小学校が開校(在校生28人)。2014年4月には津島小学校の児童3人も合流。少しずつ児童数が減りながら、大人たちに支えられながら小学校生活を送って来た。
 来月6日には、帰還政策の一環として「なみえ創成小学校・なみえ創成中学校」が旧浪江東中学校の敷地に開校。小船井君も同町加倉の自宅からスクールバスで創成中学校に通う。小船井君の父親は「放射能汚染も心配するほどでは無いし、当初から避難元の自宅に戻るつもりでいた。息子も含めて同級生は2人と寂しいけれど、楽しい中学校生活を送って欲しい」と語った。
 一方、今野さんは、兄が福島県郡山市内の高校に進学する事もあり、避難先の本宮市内にある中学校に進学する。母親は「娘の故郷はどこなのか?考え方でしょうけれど、今は生まれ育った浪江町と避難生活を送っている本宮市と半々ですよね。これから先、さらに避難生活が長くなっていくにつれて、本宮が〝第二の故郷〟になっていくんだと思います。私自身はいつかは浪江町に戻りたいと考えています。自宅がありますから」と語った。
 2月末現在、浪江町内で暮らすのは351世帯516人。帰還率は2・8%。町民の7割が福島県内で避難生活を送っており、最も多いのはいわき市の3224人。次いで福島市2856人、南相馬市2072人、郡山市1828人、二本松市1215人の順。






(上)(中)2017年5月13日の運動会。在校生こそ5人と少ないが、大人も多く参加し、大いに盛り上がった
(下)2017年11月に二本松市内で開かれた〝最後の十日市祭〟では、手作りのみこしをかついで披露した

【「子どもたちの故郷はどこ?」】
 卒業式の後、〝浪江小学校を応援する会〟が卒業を祝う会を開き、なみえ焼きそばやケーキなどを振る舞って、改めて2人の卒業を祝った。
 会のメンバーで、浪江町商工会の原田雄一会長は「原発事故避難から7年が経った。今日、卒業した2人はまだ浪江町を覚えているかもしれません。しかし、これから小学生となる子どもたちは恐らく、浪江町を知らないでしょう。住民票が浪江町にある親を持つ子どもにとって、これから故郷はどこになるのでしょうか。私たちの愛情で子どもたちを包み込む事が〝心の故郷〟になり得ると思います。たとえ児童が1人いなっても応援し続ける」と挨拶。石井絹江さんは手づくりのカボチャまんじゅうを用意した。
 帰還困難区域を除く避難指示が昨年3月末で解除され、賠償打ち切りや仮設住宅への入居期限が迫る。子どもたちも大人の事情や思惑に巻き込まれながら、それぞれの歩みを始める。原発事故から7年経ち、大人たちは多くを語らなくなった。「原発事故さえ無ければ…」という言葉をあまり口にしなくなった。町に戻る、戻らないの二者択一は町民の心を苦しめ、無用な軋轢も生んでいる。心温まる卒業式だったが、原発事故の罪深さが随所に見られた区切りの日でもあった。



(了)
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鈴木博喜

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