【90カ月目の飯舘村はいま】村役場職員が講演で振り返る「7年前の無策」。初期被曝強いられた村民。空間線量の上昇を「100μSv/h以下だから」と受け流した福島県庁
- 2018/09/09
- 22:50
福島県相馬郡飯舘村の役場職員、杉岡誠さん(復興対策課農政第一係長)が8日夜、福島市内で講演し、原発事故後の7年間を振り返った。2011年3月15日を境に急上昇した空間線量。「100μSv/h以下だから」と屋内退避指示すら出さなかった福島県庁…。生々しい証言からは、放射線から守られず、初期被曝を強いられた村民の様子が浮かび上がってくる。村内の「農」の再生に奔走している杉岡さんの講演を、行政の無策という観点から紹介したい。学校や運動場、公民館、道の駅など「ハコもの」が続々と完成する飯舘村の、もう一つの現実として胸に刻みたい。
【「44・7μSv/hも屋内退避指示無し」】
語り尽くされたはずの2011年3月の福島第一原発事故。だが、改めて語られた生々しい証言に、聴衆は固唾を飲んで聴き入った。
「原発事故前は黄金色の稲穂が実っていた場所のほとんどが、(除染で生じた汚染土壌の)仮仮置き場としてフレコンバッグが置いてある。実はその周辺で田んぼを一枚二枚、何とか作付けを再開したいという事で、今年も作付けしている人がいる。フレコンバッグが隣にあるのに実は作付けしている方もいるという、皆さんから見たら非常に不可思議な感じの状況にいま、飯舘村はいます」
津波など地震の揺れによる直接的な被害はほとんど無く、「村内で怪我をした人は1人だけだった。住宅の倒壊も無かった。御影石の上にある村なので、非常に地震に強かった」と振り返る杉岡さん。「だから、飯舘村は浜通りから避難してくる人々の『支援者』になるつもりだったのです」。3月11日夜から続々と浜通りから逃げてくる人がいた。最終的に、村の人口の20%に相当する1200人が村内で避難生活を始めていた。翌12日から村として「いちばん館」での受け入れを始める。村の女性たちは炊き出しをし、数多くのおにぎりを握った。
様相が一変したのが3月14日。「自分の誕生日だから決して忘れません。テレビをつけたら原発が爆発する映像が流れていた」。不眠不休での業務を一時中断し、自宅でシャワーを浴びていると「福島県庁の依頼で、青森県原子力センターの職員がモニタリングポスト(MP)を設置しに来ている」と電話が鳴った。彼らは白い防護服を着ていた。MPはいちばん館前の花壇に設置され、杉岡さんが1時間おきに数値を確認して福島県庁に報告した。「周囲をコンクリートに囲まれていたので、ここでの数値は村の平均的な数値では無かっただろう」。
計測を始めた時点では、空間線量は約0・09μSv/hだった。それが3月15日に降った雨とともに上昇。日が暮れ、雨が雪に変わるとさらに上昇を続け、最高で44・7μSv/hを計測した。「(帰還困難区域に指定されている)長泥地区では、2011年4月頃にコミュニティセンターをサーベイメーターで測ったら、室内で15~20μSv/hくらいあった。3月の線量はもっと高かっただろう」。
杉岡さんは、数値の上昇を防災無線で福島県庁に報告した。当然、屋内退避指示くらいは出されるものと思っていたが、県職員から返ってきた言葉は危機感の無い、あっさりとしたものだった。
「防災計画上、100μSv/hを超えないと避難指示は出せない。数値を30分おきに報告して欲しい」


8日夜に開かれた講演会。僧侶で飯舘村役場職員の杉岡さんは「『計画的避難』なんて名ばかり。福島県庁なんて全く関係無かった。国と県の連携など皆無に等しかった」などと原発事故直後を振り返った=福島県福島市曽根田の「アクティブシニアセンター・アオウゼ」
【名ばかりだった「計画的避難」】
浜通りからの避難者を受け入れていた飯舘村。この時既に「『支援者』から『被災者』になっていた」(杉岡さん)。しかし、福島県庁のある福島市内で20μSv/hを超えたという事は報じられても、飯舘村の高線量は報道されなかった。屋内退避指示も避難指示も出されぬまま、浜通りからの避難者の受け入れは継続されていた。
3月16日にはMPが機能停止したが、福島県庁は「代わりは無い」と言うばかり。杉岡さんが防災無線越しに怒鳴るように代替機を求めると翌朝、サーベイメーターが届けられた。役場2階のテラスで空間線量を計測すると、5μSv/hもあった。それでも、いちばん館前の半分程度。県職員は「今後はこちらの数値で報告してください」と口にしたが、杉岡さんは「そんな事が許されるはずがない。同じ場所で測り続ける」と拒んだという。この頃、草野行政区にある杉岡さんの自宅(善仁寺)は玄関前で28μSv/h、室内でも11μSv/hあった。
3月19日から、希望者を栃木県鹿沼市へ避難させた。もはや福島県庁は頼りにならず、村役場の職員がガソリンを直接、買い付けに行って手に入れた。翌20日は、役場庁舎の水道水から放射性ヨウ素が検出されるに至る。国が計画的避難の方針を固めたのは4月11日。爆発事故から1カ月近くが経ってからだった。しかしこの時、菅野典雄村長は「村が崩壊する」として村民を避難させる事を拒んでいる。それはそのまま、避難指示の早急な解除という目標に切り替えられ、解除後は、避難した村民をいかに村に戻らせるかに腐心する政治姿勢に引き継がれた。村民を放射線から守らなかったのは福島県庁だけでは無い。菅野村長も同じだった。今年3月に出版された「飯舘を掘る~天明の飢饉と福島原発」(佐藤昌明著)の中で、次のような杉岡さんの言葉が紹介されている。
「役場職員、消防署員、警察官、行政区長、民間の人、村に避難してきた浜通りの町の大勢の人たちに早く事態の重大性を知らせ、屋内退避させなければと思った。しかし村長、副村長に言っても、事の重大性が理解されなかった」
避難先の住まいも、役場職員を含めて村民自らが探さなければいけなかった。「『計画的避難』なんて名ばかり。福島県庁なんて全く関係無かった。国と県の連携など皆無に等しかった」。こうして、飯舘村民は初期被曝を強いられたのだった。



飯舘村民は初期被曝を強いられた。放射線から守られなかった。国も福島県も、そして菅野典雄村長も、誰も村民を守らなかった。現場の役場職員だけが奔走していた
【田畑の野焼きは自粛中】
飯舘村内には現在、約230万袋のフレコンバッグが仮置きされていると言われている。杉岡さんは、それを「クフ王のピラミッド」に例えた。ピラミッドに使われている石の数とちょうど同じだからだ。蕨平には減容化施設があり、村内外の放射性廃棄物を燃やしている。村役場の発表では、9月1日現在の村内居住者数は893人(452世帯)。依然として4854人(2005世帯)が福島県内外での避難生活を続けている。
杉岡さんは「農家がいかにやる気を失わないか」に軸を置き、村外での営農再開を支援してきた。意向調査や試験作付けを経て、現在は200以上の農家が村内で営農を再開している。一方で「放射性セシウムが飛散しないとは言い切れず、新たな風評被害を生む恐れがある」として野焼きの自粛が続いている。杉岡さんによると田畑の保全目的で野焼きを希望する農家はいるが、営農再開を目的とした野焼き希望者はいないという。
「村としては、営農のためであれば、野焼きを出来る方向で研究・実験をして欲しいと国や福島県には要請をしている。営農のための野焼きとは、カメムシ防除のために春先に行う野焼き。それは必要な技術対策をした上でさせたいという考え方ではいる」。村議会の一般質問に対し、菅野典雄村長は「野焼きの再開に向けて国や福島県と再検討する」と答弁したという。
2016年度に村内27カ所で野菜の試験作付けを行った際、農作業時の被曝リスクを調べようと産総研(国立研究開発法人産業技術総合研究所)が農家にフィルムバッジの着用を依頼したが、実際に着用に応じたのはわずか4、5人しかいなかったという。
杉岡さんは「村内で農作業を行おうという人は、自分の被曝云々というのはあまり気にしていないし、気にしているのならやらないというのが現状。今のところ、村内でそんなに線量の高い所で農作業をしている人はいないし、田んぼや畑の中の方がむしろ線量は低い。24時間365日農作業をしているわけでも無いので、そんなに大きな被曝量にはなっていないのではないか」との見方を示した。村としてはあまり実測データは持っていないという。
「国も菅野村長も『村に帰る』という事を標ぼうしているが、『村に帰る』という事を自分の重石にして考え始めたら苦しいですよ、そんな事(帰村)を考えなくても出来る事で良いじゃないですか、と農家には言っている」と杉岡さん。僧侶と村役場職員の〝二足のわらじ〟で、「飯舘の農」再生に奔走する。
講演会は「ふくしま復興支援フォーラム」の主催。同フォーラムは2011年11月以降、月1~2回のペースで原発事故関連の講演会を開いており、今回で135回目。過去には川内村長、川俣町長、飯舘村長も登壇。次回9月26日は、双葉郡浪江町からの避難が続いている石井絹江さんが「避難女性農業者による食と農の再建の模索~浪江での暮らしを取り戻したいだけ~」と題して講演する。
(了)
【「44・7μSv/hも屋内退避指示無し」】
語り尽くされたはずの2011年3月の福島第一原発事故。だが、改めて語られた生々しい証言に、聴衆は固唾を飲んで聴き入った。
「原発事故前は黄金色の稲穂が実っていた場所のほとんどが、(除染で生じた汚染土壌の)仮仮置き場としてフレコンバッグが置いてある。実はその周辺で田んぼを一枚二枚、何とか作付けを再開したいという事で、今年も作付けしている人がいる。フレコンバッグが隣にあるのに実は作付けしている方もいるという、皆さんから見たら非常に不可思議な感じの状況にいま、飯舘村はいます」
津波など地震の揺れによる直接的な被害はほとんど無く、「村内で怪我をした人は1人だけだった。住宅の倒壊も無かった。御影石の上にある村なので、非常に地震に強かった」と振り返る杉岡さん。「だから、飯舘村は浜通りから避難してくる人々の『支援者』になるつもりだったのです」。3月11日夜から続々と浜通りから逃げてくる人がいた。最終的に、村の人口の20%に相当する1200人が村内で避難生活を始めていた。翌12日から村として「いちばん館」での受け入れを始める。村の女性たちは炊き出しをし、数多くのおにぎりを握った。
様相が一変したのが3月14日。「自分の誕生日だから決して忘れません。テレビをつけたら原発が爆発する映像が流れていた」。不眠不休での業務を一時中断し、自宅でシャワーを浴びていると「福島県庁の依頼で、青森県原子力センターの職員がモニタリングポスト(MP)を設置しに来ている」と電話が鳴った。彼らは白い防護服を着ていた。MPはいちばん館前の花壇に設置され、杉岡さんが1時間おきに数値を確認して福島県庁に報告した。「周囲をコンクリートに囲まれていたので、ここでの数値は村の平均的な数値では無かっただろう」。
計測を始めた時点では、空間線量は約0・09μSv/hだった。それが3月15日に降った雨とともに上昇。日が暮れ、雨が雪に変わるとさらに上昇を続け、最高で44・7μSv/hを計測した。「(帰還困難区域に指定されている)長泥地区では、2011年4月頃にコミュニティセンターをサーベイメーターで測ったら、室内で15~20μSv/hくらいあった。3月の線量はもっと高かっただろう」。
杉岡さんは、数値の上昇を防災無線で福島県庁に報告した。当然、屋内退避指示くらいは出されるものと思っていたが、県職員から返ってきた言葉は危機感の無い、あっさりとしたものだった。
「防災計画上、100μSv/hを超えないと避難指示は出せない。数値を30分おきに報告して欲しい」


8日夜に開かれた講演会。僧侶で飯舘村役場職員の杉岡さんは「『計画的避難』なんて名ばかり。福島県庁なんて全く関係無かった。国と県の連携など皆無に等しかった」などと原発事故直後を振り返った=福島県福島市曽根田の「アクティブシニアセンター・アオウゼ」
【名ばかりだった「計画的避難」】
浜通りからの避難者を受け入れていた飯舘村。この時既に「『支援者』から『被災者』になっていた」(杉岡さん)。しかし、福島県庁のある福島市内で20μSv/hを超えたという事は報じられても、飯舘村の高線量は報道されなかった。屋内退避指示も避難指示も出されぬまま、浜通りからの避難者の受け入れは継続されていた。
3月16日にはMPが機能停止したが、福島県庁は「代わりは無い」と言うばかり。杉岡さんが防災無線越しに怒鳴るように代替機を求めると翌朝、サーベイメーターが届けられた。役場2階のテラスで空間線量を計測すると、5μSv/hもあった。それでも、いちばん館前の半分程度。県職員は「今後はこちらの数値で報告してください」と口にしたが、杉岡さんは「そんな事が許されるはずがない。同じ場所で測り続ける」と拒んだという。この頃、草野行政区にある杉岡さんの自宅(善仁寺)は玄関前で28μSv/h、室内でも11μSv/hあった。
3月19日から、希望者を栃木県鹿沼市へ避難させた。もはや福島県庁は頼りにならず、村役場の職員がガソリンを直接、買い付けに行って手に入れた。翌20日は、役場庁舎の水道水から放射性ヨウ素が検出されるに至る。国が計画的避難の方針を固めたのは4月11日。爆発事故から1カ月近くが経ってからだった。しかしこの時、菅野典雄村長は「村が崩壊する」として村民を避難させる事を拒んでいる。それはそのまま、避難指示の早急な解除という目標に切り替えられ、解除後は、避難した村民をいかに村に戻らせるかに腐心する政治姿勢に引き継がれた。村民を放射線から守らなかったのは福島県庁だけでは無い。菅野村長も同じだった。今年3月に出版された「飯舘を掘る~天明の飢饉と福島原発」(佐藤昌明著)の中で、次のような杉岡さんの言葉が紹介されている。
「役場職員、消防署員、警察官、行政区長、民間の人、村に避難してきた浜通りの町の大勢の人たちに早く事態の重大性を知らせ、屋内退避させなければと思った。しかし村長、副村長に言っても、事の重大性が理解されなかった」
避難先の住まいも、役場職員を含めて村民自らが探さなければいけなかった。「『計画的避難』なんて名ばかり。福島県庁なんて全く関係無かった。国と県の連携など皆無に等しかった」。こうして、飯舘村民は初期被曝を強いられたのだった。



飯舘村民は初期被曝を強いられた。放射線から守られなかった。国も福島県も、そして菅野典雄村長も、誰も村民を守らなかった。現場の役場職員だけが奔走していた
【田畑の野焼きは自粛中】
飯舘村内には現在、約230万袋のフレコンバッグが仮置きされていると言われている。杉岡さんは、それを「クフ王のピラミッド」に例えた。ピラミッドに使われている石の数とちょうど同じだからだ。蕨平には減容化施設があり、村内外の放射性廃棄物を燃やしている。村役場の発表では、9月1日現在の村内居住者数は893人(452世帯)。依然として4854人(2005世帯)が福島県内外での避難生活を続けている。
杉岡さんは「農家がいかにやる気を失わないか」に軸を置き、村外での営農再開を支援してきた。意向調査や試験作付けを経て、現在は200以上の農家が村内で営農を再開している。一方で「放射性セシウムが飛散しないとは言い切れず、新たな風評被害を生む恐れがある」として野焼きの自粛が続いている。杉岡さんによると田畑の保全目的で野焼きを希望する農家はいるが、営農再開を目的とした野焼き希望者はいないという。
「村としては、営農のためであれば、野焼きを出来る方向で研究・実験をして欲しいと国や福島県には要請をしている。営農のための野焼きとは、カメムシ防除のために春先に行う野焼き。それは必要な技術対策をした上でさせたいという考え方ではいる」。村議会の一般質問に対し、菅野典雄村長は「野焼きの再開に向けて国や福島県と再検討する」と答弁したという。
2016年度に村内27カ所で野菜の試験作付けを行った際、農作業時の被曝リスクを調べようと産総研(国立研究開発法人産業技術総合研究所)が農家にフィルムバッジの着用を依頼したが、実際に着用に応じたのはわずか4、5人しかいなかったという。
杉岡さんは「村内で農作業を行おうという人は、自分の被曝云々というのはあまり気にしていないし、気にしているのならやらないというのが現状。今のところ、村内でそんなに線量の高い所で農作業をしている人はいないし、田んぼや畑の中の方がむしろ線量は低い。24時間365日農作業をしているわけでも無いので、そんなに大きな被曝量にはなっていないのではないか」との見方を示した。村としてはあまり実測データは持っていないという。
「国も菅野村長も『村に帰る』という事を標ぼうしているが、『村に帰る』という事を自分の重石にして考え始めたら苦しいですよ、そんな事(帰村)を考えなくても出来る事で良いじゃないですか、と農家には言っている」と杉岡さん。僧侶と村役場職員の〝二足のわらじ〟で、「飯舘の農」再生に奔走する。
講演会は「ふくしま復興支援フォーラム」の主催。同フォーラムは2011年11月以降、月1~2回のペースで原発事故関連の講演会を開いており、今回で135回目。過去には川内村長、川俣町長、飯舘村長も登壇。次回9月26日は、双葉郡浪江町からの避難が続いている石井絹江さんが「避難女性農業者による食と農の再建の模索~浪江での暮らしを取り戻したいだけ~」と題して講演する。
(了)
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