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【ふるさとを返せ 津島原発訴訟】法廷で涙。募る故郷消失への危機感、事故が奪った「ごく当たり前の事」~第15回口頭弁論。次回期日より専門家証人尋問と原告本人尋問始まる

原発事故で帰還困難区域に指定された福島県浪江町津島地区の住民たちが国や東電に原状回復と完全賠償を求める「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」の第15回口頭弁論が11月30日午後、福島地裁郡山支部303号法廷(佐々木健二裁判長)で開かれた。2人の男性原告が涙ながらに意見陳述。奪われた故郷への想いや悔しさ、怒りをぶつけた。次回期日は2019年1月18日午前10時。元GE技術者・佐藤暁氏への専門家証人尋問と、原告に対する本人尋問が行われる予定。国側は期日前日の11月29日になって佐藤氏を証人として採用しないよう求める申立書を提出したが、佐々木裁判長はこれを却下した。


【「津島を消滅させてたまるか」】
 「私たちは『津島地区という地域が消滅してしまう』ことに一番の危機感を持っています。このままでは津島地区が消滅してしまう。そう思うと夜も眠れません」
 農協職員を経て6期24年間にわたり町議会議員(自民党)を務めた三瓶宝次さん(82)は、目に涙を浮かべながら法廷で語った。澄んだ沢の水が育む山の幸。津島には都会とは違う意味での豊かさがあった。テレビ番組の企画「DASH村」には、自身の所有する土地を提供した。過疎化と地域振興という課題に直面しながらも、故郷の暮らしがあった。それを根こそぎ奪ったのが原発事故だった。
 あの時、津島地区は混乱を極めた。1万人近い町民が続々と避難してきた。津島地区の人々は総出で受け入れた。唯一の幹線道路である国道114号は大渋滞した。大量の放射性物質が降り注いでいた事を住民が知ったのは、ずっと後になってからだった。白い防護服を着た男たちが地区内に入って来たが、住民たちは何も教えてもらえなかった。何も知らない町民は汚染の酷かった津島地区に〝避難〟をし、何も知らない津島の人々は炊き出しなどに奔走した。そして突然の避難指示と帰還困難区域指定。大地震で崩れたわけでも無いわが家は、はるか遠くへと追いやられてしまった。
 2011年10月には、遠藤雄幸川内村長らと「ベラルーシ・ウクライナ福島調査団」(清水修二団長、2011年10月31日から11月7日まで)に参加した。「石棺で覆われたチェルノブイリ原発から半径30kmは許可が無ければ立ち入ることが出来ず、300年は人が住めないと言われています。無人の街に立ち並ぶマンションは朽ち果て、地域コミュニティはおろか自治体そのものが消滅していました」。7年前の衝撃は今でも忘れられない。三瓶さんが「ふるさとの消滅」への危機感を抱いた瞬間だった。
 このまま黙っていては切り捨てられてしまう。2014年11月に「原発事故の完全賠償を求める会」を立ち上げ、馬場績町議(日本共産党)とともに共同代表に就いた。そして2015年9月の提訴。党派を超えた共闘は来年も続く。
 「どうかこの現状を直視していただき、津島地区住民が納得のできる賢明な判断がなされることを心から願うものであります」
 三瓶さんは陳述の途中で何度も言葉に詰まった。故郷は今もバリケードの向こう側にある。




(上)涙ながらに意見陳述した武藤晴男さん。「津島に帰りたい。故郷をもう一度この手にしたい」と訴えた
(下)開廷前、原告たちは郡山駅前で津島の現状を訴え、裁判所までデモ行進した。暖冬と言われるが、寒さが身に染みる

【故郷に戻れないまま逝った両親】
 原告団事務局長の武藤晴男さん(61)も、何度も涙を拭いながら意見陳述した。
 「ごく当たり前の事が原発事故で出来なくなりました。両親には最後まで、故郷に戻るという約束を果たせませんでした。心苦しい思いでいっぱいです」
 原発避難の苦労の末に亡くなった両親。90歳だった父親は最後まで避難に反対した。説得に説得を重ねて自宅を離れ、福島県立本宮高校の体育館にたどり着いた。身体の不自由な父親は一週間もすると歩けなくなった。体育館での避難生活は、トイレなど不便さばかりがつきまとう。埼玉県内の親類宅を経て、茨城県取手市内のアパートに移り住んだ。しかし、今度は母親が体調を崩した。認知症を患い、警察官に付き添われて帰宅した事もあった。そして当然ながら、妻の心身も悲鳴をあげた。武藤さん自身も頸椎の手術を受けるまでになっていた。
 「2011年3月15日からわずか3カ月間で、車の走行距離は2万kmに達しました。経営していた会社の関係で毎日、取手と浪江を往復していたからです。過度な疲労と過酷な生活と避難のストレスで、身体も家族の気持ちもバラバラになりそうでした。言葉では表現きでないほどの悲惨な体験や屈辱的な想いを、嫌というほどしてきました」
 少しでも故郷に近い場所に、と福島県岩瀬郡鏡石町のアパートに転居した。弱り切った父親は「(盟友だった)馬場有町長は頑張っているか?」、「俺、何か悪い事をしたか?」、「死ぬ時は自分の家の畳の上が良いな」とか細い声でささやくようになっていた。そして、「晴男、あとは頼むぞ」という言葉を遺して息を引き取った。母親も2年後、入所していた施設で天国に逝った。住み慣れた津島ではなく、知らない土地での旅立ち。「津島に居れば、あの自分の家で友達や家族全員に看取られて無くなることが出来たでしょう」。原発事故によって奪われた「ごく当たり前の事」は、あまりにも多く、重い。
 高校生の頃、東電はあこがれの職場だった。だが、原発の必要性や安全性ばかりを強調し、危険性に触れない国や東電の姿勢に疑問を抱くようになった。広報誌「アトムふくしま」に何度か意見や質問を送ったが、紋切型の回答が返って来るばかりだった。あれから40年。原発は、故郷を奪った。自宅は荒れ果て、独立して興した会社も今は無い。
 「幼い頃から、遅々には『嘘をつくな』、『人の物を盗るな』、『悪い事をしたら謝れ』と何度も言い聞かされてきました」と語った武藤さん。しかし、国も東電も原発の危険性を嘘で覆い隠し、故郷や人生を奪い尽くし、それでいて謝らない。そして今、武藤さんも原告として法廷に立っている。
 「原発事故の責任が公平に裁かれる事を心から信じています」
 裁判官たちは最後まで武藤さんの顔をじっと見つめながら聴き入っていた。




(上)閉廷後の報告集会で、傍聴できなかった原告のために意見陳述を代読した原告団長の今野秀則さん。涙があふれ、ハンカチで拭いながら読み上げた
(下)中央で拳を突き上げているのが、意見陳述をした三瓶宝次さん=福島県郡山市の「ミューカルがくと館」

【次回期日から原告本人尋問】
 原告による意見陳述は今回で終わり、次回期日からは原告に対する本人尋問が始まる。まずは原告団長の今野秀則さんが尋問に臨む。
 また、専門家証人としてゼネラル・エレクトリック社(GE)の元原発技術者・佐藤暁氏に対する尋問も行われる予定。佐藤氏の証人尋問を巡っては、原告側の弁護団が今年7月の段階で証人として採用するよう意見書を提出していたにもかかわらず、前日の11月29日になって国側の代理人が却下申立書を提出。「既に群馬県への避難者が起こした訴訟(前橋地裁)で尋問を終えており、改めて証人として呼ぶ必要が無い」などと主張していたが、佐々木裁判長はこれを退け、証人として採用する事になった。適切な対策を講じていれば過酷事故が避けられた可能性を中心に証言するとみられる。
 裁判所へ移動するバスの中で、原告の1人は言った。
 「気が付けばもうすぐ8年。長いよなあ。まさか避難生活がこんなに長くなるとはなあ」
 間もなく、原発事故後8度目の正月を迎える。故郷はいまだに帰還困難区域に指定され、自宅に立ち入るにも許可が要る。津島地区を走る国道114号は経済原理優先の考えから自由通行になった(二輪車や歩行者は通行不可)のに、我が家に向かう枝道にはバリケードが設置されている。開錠してもらわなければ自宅に入る事すら許されない不条理。
 別の原告はこう言って苦笑いした。
 「この前、復興なみえ町十日市祭に行ったんだ。そうしたら、泉田川をサケが泳ぐ姿が見えてね…。浪江で自由なのはサケであり、イノシシであり、サルだよなあ。奴らにはバリケードが無いもんなあ。俺達人間だけが不自由なんだ。自分の家に入るのに許可が要る。バリケードを開錠してもらわなければ入れない。何なんだろうなあ。でも今年も自然災害が多かったから、俺たちの事なんてますます忘れられていくよなあ」
 この男性は、あの頃寄せられた義援金が本当にうれしかったと、大きな災害が起こるたびに恩返しの意味をこめて義援金を届けているという。原発事故から93カ月が経っても被害は終わらない。住み慣れた津島で正月を迎える日を心待ちにしている人々がいる。



(了)
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プロフィール

鈴木博喜

Author:鈴木博喜
(メールは hirokix39@gmail.com まで)
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