【中通りに生きる会・損害賠償請求訴訟】6回目の原告本人尋問。子育てへの葛藤、拭えぬ健康不安…。東電側は「危険なら自治体が避難を呼びかけたはず」などと〝安全〟強調
- 2019/01/26
- 08:16
「中通りに生きる会」(平井ふみ子代表)の男女52人(福島県福島市や郡山市、田村市などに在住)が、福島第一原発の事故で精神的損害を被ったとして東電を相手に起こした損害賠償請求訴訟の第14回口頭弁論が25日、福島地方裁判所206号法廷(遠藤東路裁判長)で終日、行われた。前回期日に引き続き、男女7人の原告に対する本人尋問。原発事故が無ければ抱く必要のなかった子育てへの不安や葛藤、避難したくても出来ない苦悩、健康被害への懸念などを訴えた。次回期日は3月22日10時45分。原告に対する本人尋問は次回期日で終了する。
【葛藤消えない「福島での子育て」】
この日、一番目に尋問に臨んだ福島県福島市在住の30代女性は、原発事故で本来なら抱えなくても良かったはずの苦悩や葛藤を何度も口にした。それは母親としての苦悩であり、公務員としての葛藤だった。
女性は原発事故後の2014年に長女を、2016年には長男を出産した。現在、第三子を妊娠している。
「年齢的にもとても悩んだ選択でしたが今、妊娠中です。娘が成長して行動範囲も拡がり、息子もたくさん歩くようになる中、排水溝に近づかない方が良いとか、除染されているかどうか分からない場所があるとか、ここ(福島)で子育てをする事が本当に良い事なのか今も葛藤があります。そもそも子育ての悩みというのはたくさんあるのに、私たちは子どもをどこで遊ばせるべきか、屋外のどこなら遊ばせても構わないのかをいちいち考えなくてはいけません。子どもに対しては、目には見えない放射性物質が存在するかもしれない場所も含めて〝危ない場所〟を教えなくてはいけません。そういう事を考えなくてはいけない事自体が、福島で子育てをする上でとても大変なところです」
自身の被曝への恐怖もあった。しかし川俣町役場の保健師として双葉町からの避難者受け入れに奔走しながら、混乱の中で公務員として「川俣町には避難指示が出されていないから大丈夫ですよ」と伝えている自分の言動に葛藤は募るばかりだった。避難も考えたが親を残して福島県外には出られない。浜通りから避難してくる人々に「ここなら大丈夫」と言っている自分が逃げられるはずが無い。「福島で生きていくしか無いですよね。ここに残るという選択をしました」。しかし2011年4月22日、川俣町の山木屋地区が計画的避難区域に設定された。何が正しい情報なのか。混乱は頂点に達した。
「私が伝えていた事は間違いでした。母親というのは、我が子を良い環境で育てたいと考えるものです。謝った情報を伝えてしまった罪悪感が今もあります」
被告東電の代理人弁護士は、女性の苦悩などお構いなしに、2011年3月当時の新聞記事や自治体の広報紙などを提示しながら、そもそも爆発事故の直後から川俣町も福島市も安全だったと繰り返した。それに対し、女性は法廷でこう反論した。
「安全です安全ですと書いてありますが、本当に『安全』なのか。それは今の時点で分かる事では無く、歳月が経った後で分かる事です。そこに放射性物質は存在しているのに無かった事にして『安全です』、『大丈夫です』と繰り返す姿勢は不愉快です」

原発事故が無ければ抱く必要の無かった不安や苦悩について法廷で訴えた原告たち。被告東電の代理人弁護士はこの日も、2011年3月当時の新聞記事などを示しながら「安全だと言われていたのになぜ不安を抱くのか」と繰り返した。原告に対する本人尋問は次回3月22日の期日で終了する=福島市市民会館
【「夢であって欲しい」とつねった頬】
「原発事故後、今現在に至るまで、放射能という恐怖に日々おびえて暮らしています。放射能は目に見えず、臭いも分からず、何十年と経たないと健康被害の有無は分からないというのがとても不安です。事故を防げなかった東電による人災と私は考えています。精神的賠償金として東電から12万円が振り込まれました。この金額は、私が今後も抱えるであろう不安や恐怖を軽視しています。とても悔しいです」
夫とともに福島県伊達市内で動物病院を経営している40代女性は、原発事故で被った精神的損害についてこう語った。政府による避難指示は福島市にも伊達市にも出されなかったが「出来れば〝自主避難〟したかった」。関東で暮らす友人から「なぜ他県に避難しないのか」と県外避難を勧められて悩んだ事もあった。しかし、避難は叶わなかった。「動物病院を経営しており、自分だけが〝自主避難〟をするというのは出来ませんでした」。
獣医師として、避難指示の出された南相馬市小高区に取り残されたペットの保護活動に参加した事もあった。空間線量も分からず被曝の恐怖が拭えなかったが、動物たちを放っておく事は出来なかった。動物病院に連れ帰り、放射性物質を取り除いてあげようと何度もシャンプーをした。それとて、原発事故が無ければ負う必要の無い被曝リスクだった。
「被曝への不安」を訴える女性に、被告東電の代理人弁護士は2011年3月当時の地元紙記事を示しながら「専門家の見解や、それに基づいた国や福島県の発表、『原発事故直後の福島市内の放射線量が健康に影響を及ぼすものでは無い』といった情報、『100mSv以下の線量では影響は出ないんだ』とかの新聞報道を信用出来ない科学的根拠は何かお持ちでしょうか」と質した。女性は「過去に例の無い事故で、何年も経過していないにもかかわらず『安全だ』と線引き出来る事自体が私には信用出来ません」と答えた。
福島県田村市に住む70代男性に対する主尋問では、原発事故の前と後に男性が詠んだ短歌が紹介された。
<両の手の 袋いっぱいハルシメジ 採りけし妻の 紅潮せし顔>
原発事故前、豊かな里山でのキノコ狩りや山菜採りに汚染の心配など皆無だった。両手いっぱいにハルシメジを抱えて帰宅した妻のうれしそうな表情が忘れられない。しかし、「原発事故で田村市もすっかり変わってしまった」と男性。事故後は放射性物質が降り注いだ街で生きて行かざるを得ない哀しみを詠むようになった。
<一瞬に 昨日は帰らぬ夢となり 原発事故の 現に彷徨う>
男性は言う。「原発事故を境に、それまでの平和で穏やかな生活は一変してしまいました。もう、あの頃の生活は元には戻らない。夢や幻のようになってしまった。夢であってくれたら良いなと頬をつねってみましたが、夢ではありませんでした。現実だったんです。それを詠みました」

保育所を営む女性は和服で本人尋問に臨んだ。東電の代理人弁護士は「避難しなかったのは必要性が無いと考えていたからではないか」と質したが、女性は「違います」と明確に反論した。避難したくても出来なかった事情について、東電側は理解しようとしない
【「安心出来るのは事故前の放射線量」】
50代の女性は福島市内で保育所を営む。「飲酒や喫煙のリスクと異なり、私は自ら被曝リスクを選択したのではありません。でも、現実に苦しみを味わっている。その理不尽さを裁判で訴えたい」。
原発事故前から屋外保育を柱に据えており、現在は山形県米沢市に毎日、子どもたちを無料で往復させて屋外保育を続けている。利益にはつながらないが、女性は「大人の責任だ」と述べた。園庭は場所によっては10μSv/hにも達したため使えず、後に除染で生じた汚染土壌の保管場所になった(現在は仮置き場へ搬出済み)。地中埋設も選択出来たが「原発事故を忘れたくなかった。埋めてしまったら何も無い事になってしまう。矛盾しているかも知れないけれど、苦しんでいる事を忘れたくなかった。でも、緑色のシートに覆われた汚染土壌を見るたびに苦しんでいた。両方の想いがあります」と複雑な胸中を語った。
40代女性(福島市在住)は、苦労してようやく授かった息子(原発事故当時、小学校5年生)への想いを述べた。
事故直後、都内に2人で避難したが新学期が始まるのを機に「福島市に戻りたくなかったが、戻らざるを得なかった」。その後、改めて山形県へ〝自主避難〟したが、被曝への不安から息子自身が強迫性障害と診断された事もあり、福島に戻った。今も水道水を飲ませず、福島県外産の食材を購入している。どれも、原発事故が無ければ必要無い事ばかりだ。
「原発事故前は放射線の事など考えた事もありませんでした。ごく普通の生活をしていました。事故後は放射線被曝による健康被害の不安から逃れられません。私たちの苦しい想いを訴えたいです」
伊達郡国見町の60代女性は、被告東電の代理人弁護士による反対尋問で、「国見町では2011年4月上旬に小中学校の入学式が行われました。4月16日にはスポーツ少年団の結団式が行われました。本当に危険があるのであれば、小学校の入学式を行うなど日常生活を再開させずに避難を呼びかけたのではないでしょうか。これらの状況から、国見町で生活する事によって健康には影響が無いと知る事が出来て安心につながったのではないですか?」などと質された。女性は「原発事故前の放射線量に戻らないと安心出来ない」などと答えた。
60代の女性(福島市在住)は、娘の健康被害への不安や母親の失意などについて述べた。母親は畑や花壇の手入れが好きだったが、原発事故後は被曝してはいけないと行動を制限するようになってしまった。夫の測定で当時、庭の空間線量は3μSv/hに達した。石にも水を遣りコケを育てていたが、自宅の除染で庭の石からコケ類が完全に取り除かれてしまった。畑の表土も取り除かれ、それまでの違う色の土が敷き詰められた。「母は呆然と眺めていました。『あゝこれでは駄目だ』という言葉が忘れられません」。
被告東電の代理人弁護士は「(庭の空間線量が3μSv/hだとしても)お母様が畑仕事等を行う事については何ら制約は無かったと思うのですが、認知症だったから畑仕事を控えさせたのではないか」と質したが、女性は「放射性物質は目に見えないので、手を洗うよう着替えるよう言ってもなかなかやってくれなかった」と、被曝を避けるために畑仕事や庭の手入れが出来なくなったと反論した。
(了)
【葛藤消えない「福島での子育て」】
この日、一番目に尋問に臨んだ福島県福島市在住の30代女性は、原発事故で本来なら抱えなくても良かったはずの苦悩や葛藤を何度も口にした。それは母親としての苦悩であり、公務員としての葛藤だった。
女性は原発事故後の2014年に長女を、2016年には長男を出産した。現在、第三子を妊娠している。
「年齢的にもとても悩んだ選択でしたが今、妊娠中です。娘が成長して行動範囲も拡がり、息子もたくさん歩くようになる中、排水溝に近づかない方が良いとか、除染されているかどうか分からない場所があるとか、ここ(福島)で子育てをする事が本当に良い事なのか今も葛藤があります。そもそも子育ての悩みというのはたくさんあるのに、私たちは子どもをどこで遊ばせるべきか、屋外のどこなら遊ばせても構わないのかをいちいち考えなくてはいけません。子どもに対しては、目には見えない放射性物質が存在するかもしれない場所も含めて〝危ない場所〟を教えなくてはいけません。そういう事を考えなくてはいけない事自体が、福島で子育てをする上でとても大変なところです」
自身の被曝への恐怖もあった。しかし川俣町役場の保健師として双葉町からの避難者受け入れに奔走しながら、混乱の中で公務員として「川俣町には避難指示が出されていないから大丈夫ですよ」と伝えている自分の言動に葛藤は募るばかりだった。避難も考えたが親を残して福島県外には出られない。浜通りから避難してくる人々に「ここなら大丈夫」と言っている自分が逃げられるはずが無い。「福島で生きていくしか無いですよね。ここに残るという選択をしました」。しかし2011年4月22日、川俣町の山木屋地区が計画的避難区域に設定された。何が正しい情報なのか。混乱は頂点に達した。
「私が伝えていた事は間違いでした。母親というのは、我が子を良い環境で育てたいと考えるものです。謝った情報を伝えてしまった罪悪感が今もあります」
被告東電の代理人弁護士は、女性の苦悩などお構いなしに、2011年3月当時の新聞記事や自治体の広報紙などを提示しながら、そもそも爆発事故の直後から川俣町も福島市も安全だったと繰り返した。それに対し、女性は法廷でこう反論した。
「安全です安全ですと書いてありますが、本当に『安全』なのか。それは今の時点で分かる事では無く、歳月が経った後で分かる事です。そこに放射性物質は存在しているのに無かった事にして『安全です』、『大丈夫です』と繰り返す姿勢は不愉快です」

原発事故が無ければ抱く必要の無かった不安や苦悩について法廷で訴えた原告たち。被告東電の代理人弁護士はこの日も、2011年3月当時の新聞記事などを示しながら「安全だと言われていたのになぜ不安を抱くのか」と繰り返した。原告に対する本人尋問は次回3月22日の期日で終了する=福島市市民会館
【「夢であって欲しい」とつねった頬】
「原発事故後、今現在に至るまで、放射能という恐怖に日々おびえて暮らしています。放射能は目に見えず、臭いも分からず、何十年と経たないと健康被害の有無は分からないというのがとても不安です。事故を防げなかった東電による人災と私は考えています。精神的賠償金として東電から12万円が振り込まれました。この金額は、私が今後も抱えるであろう不安や恐怖を軽視しています。とても悔しいです」
夫とともに福島県伊達市内で動物病院を経営している40代女性は、原発事故で被った精神的損害についてこう語った。政府による避難指示は福島市にも伊達市にも出されなかったが「出来れば〝自主避難〟したかった」。関東で暮らす友人から「なぜ他県に避難しないのか」と県外避難を勧められて悩んだ事もあった。しかし、避難は叶わなかった。「動物病院を経営しており、自分だけが〝自主避難〟をするというのは出来ませんでした」。
獣医師として、避難指示の出された南相馬市小高区に取り残されたペットの保護活動に参加した事もあった。空間線量も分からず被曝の恐怖が拭えなかったが、動物たちを放っておく事は出来なかった。動物病院に連れ帰り、放射性物質を取り除いてあげようと何度もシャンプーをした。それとて、原発事故が無ければ負う必要の無い被曝リスクだった。
「被曝への不安」を訴える女性に、被告東電の代理人弁護士は2011年3月当時の地元紙記事を示しながら「専門家の見解や、それに基づいた国や福島県の発表、『原発事故直後の福島市内の放射線量が健康に影響を及ぼすものでは無い』といった情報、『100mSv以下の線量では影響は出ないんだ』とかの新聞報道を信用出来ない科学的根拠は何かお持ちでしょうか」と質した。女性は「過去に例の無い事故で、何年も経過していないにもかかわらず『安全だ』と線引き出来る事自体が私には信用出来ません」と答えた。
福島県田村市に住む70代男性に対する主尋問では、原発事故の前と後に男性が詠んだ短歌が紹介された。
<両の手の 袋いっぱいハルシメジ 採りけし妻の 紅潮せし顔>
原発事故前、豊かな里山でのキノコ狩りや山菜採りに汚染の心配など皆無だった。両手いっぱいにハルシメジを抱えて帰宅した妻のうれしそうな表情が忘れられない。しかし、「原発事故で田村市もすっかり変わってしまった」と男性。事故後は放射性物質が降り注いだ街で生きて行かざるを得ない哀しみを詠むようになった。
<一瞬に 昨日は帰らぬ夢となり 原発事故の 現に彷徨う>
男性は言う。「原発事故を境に、それまでの平和で穏やかな生活は一変してしまいました。もう、あの頃の生活は元には戻らない。夢や幻のようになってしまった。夢であってくれたら良いなと頬をつねってみましたが、夢ではありませんでした。現実だったんです。それを詠みました」

保育所を営む女性は和服で本人尋問に臨んだ。東電の代理人弁護士は「避難しなかったのは必要性が無いと考えていたからではないか」と質したが、女性は「違います」と明確に反論した。避難したくても出来なかった事情について、東電側は理解しようとしない
【「安心出来るのは事故前の放射線量」】
50代の女性は福島市内で保育所を営む。「飲酒や喫煙のリスクと異なり、私は自ら被曝リスクを選択したのではありません。でも、現実に苦しみを味わっている。その理不尽さを裁判で訴えたい」。
原発事故前から屋外保育を柱に据えており、現在は山形県米沢市に毎日、子どもたちを無料で往復させて屋外保育を続けている。利益にはつながらないが、女性は「大人の責任だ」と述べた。園庭は場所によっては10μSv/hにも達したため使えず、後に除染で生じた汚染土壌の保管場所になった(現在は仮置き場へ搬出済み)。地中埋設も選択出来たが「原発事故を忘れたくなかった。埋めてしまったら何も無い事になってしまう。矛盾しているかも知れないけれど、苦しんでいる事を忘れたくなかった。でも、緑色のシートに覆われた汚染土壌を見るたびに苦しんでいた。両方の想いがあります」と複雑な胸中を語った。
40代女性(福島市在住)は、苦労してようやく授かった息子(原発事故当時、小学校5年生)への想いを述べた。
事故直後、都内に2人で避難したが新学期が始まるのを機に「福島市に戻りたくなかったが、戻らざるを得なかった」。その後、改めて山形県へ〝自主避難〟したが、被曝への不安から息子自身が強迫性障害と診断された事もあり、福島に戻った。今も水道水を飲ませず、福島県外産の食材を購入している。どれも、原発事故が無ければ必要無い事ばかりだ。
「原発事故前は放射線の事など考えた事もありませんでした。ごく普通の生活をしていました。事故後は放射線被曝による健康被害の不安から逃れられません。私たちの苦しい想いを訴えたいです」
伊達郡国見町の60代女性は、被告東電の代理人弁護士による反対尋問で、「国見町では2011年4月上旬に小中学校の入学式が行われました。4月16日にはスポーツ少年団の結団式が行われました。本当に危険があるのであれば、小学校の入学式を行うなど日常生活を再開させずに避難を呼びかけたのではないでしょうか。これらの状況から、国見町で生活する事によって健康には影響が無いと知る事が出来て安心につながったのではないですか?」などと質された。女性は「原発事故前の放射線量に戻らないと安心出来ない」などと答えた。
60代の女性(福島市在住)は、娘の健康被害への不安や母親の失意などについて述べた。母親は畑や花壇の手入れが好きだったが、原発事故後は被曝してはいけないと行動を制限するようになってしまった。夫の測定で当時、庭の空間線量は3μSv/hに達した。石にも水を遣りコケを育てていたが、自宅の除染で庭の石からコケ類が完全に取り除かれてしまった。畑の表土も取り除かれ、それまでの違う色の土が敷き詰められた。「母は呆然と眺めていました。『あゝこれでは駄目だ』という言葉が忘れられません」。
被告東電の代理人弁護士は「(庭の空間線量が3μSv/hだとしても)お母様が畑仕事等を行う事については何ら制約は無かったと思うのですが、認知症だったから畑仕事を控えさせたのではないか」と質したが、女性は「放射性物質は目に見えないので、手を洗うよう着替えるよう言ってもなかなかやってくれなかった」と、被曝を避けるために畑仕事や庭の手入れが出来なくなったと反論した。
(了)
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