【96カ月目の浪江町はいま】浪江中学校で〝最後〟の卒業式。在校生ゼロで閉校へ。学び舎を奪い、友達と離ればなれにさせた原発事故。「当時のクラスメイトと一度も再会できていない」
- 2019/03/14
- 08:29
福島県双葉郡浪江町の町立浪江中学校(二本松市針道)で13日午前、卒業式が行われ、3人の男子生徒が巣立った。あの日、小学校1年生だった子どもたちは原発事故で避難を強いられ、バラバラになった。在校生(新3年生)1人は4月から町内のなみえ創成中学校に通うため、2011年8月から授業を続けてきた針道校舎での卒業式は今年が最後。学校は休校となる。8年前に起きた福島第一原発の爆発事故は子どもたちから学び舎を奪い、友達と離ればなれにさせた。そして今も、子どもたちを翻弄し続けている。
【「事故無ければ浪江町の校舎で卒業」】
卒業生3人が壇上に上がった。答辞にあたる「別れのことば」。それぞれの想いを男性教諭がA4判3枚にまとめた。リレー方式で読んでいく。それは、こんな言葉から始まった。
「僕たちは、この針道校舎で浪江中学校を卒業します。震災、原発事故がなければ浪江町で過ごし、浪江町の校舎で卒業するはずでした。学校からの帰り道では友達とおしゃべりし合い、家に帰れば近くの友達と遊んで過ごしていたことと思います。今、僕たちはスクールバスで登下校し、避難先の家に帰っても、一緒に遊ぶような友達は近くにいません。僕たちの生活は大きく変わりました。でも、震災があったから得られたものがたくさんあります。僕たち3人は、針道校舎で浪江中生として過ごした3年間を、誇りに思っています」
8年前のあの日、彼らは小学校1年生。巨大な揺れに身をすくめた。大津波で街の沿岸部は壊滅的な被害を受けた。そして原発事故。幼い彼らも過酷な避難生活を強いられた。避難先で通い始めた小学校では、名前に「菌」を付けて呼ばれ、「こっち来るな」などの言葉を浴びた子どももいた。友達が出来ず、涙を流した事もあった。式後の教室で、3人を前に男性教諭は涙で言葉を詰まらせた。「少ない人数で本当に頑張って来たと思います。作文を書かせると、3人が3人とも、この8年間苦労してきた事が本当に良く分かります。これを支えてくれたのは家族だと思うんです」。
校舎の外で卒業生を見送りながら、男性教諭は改めて語った。
「転校先でのいじめが無くても、避難の過程の中でいろいろと苦労をしていますからね。日頃、口には出さないけれど、作文を書かせたり、授業の中でこれまでの8年間の事を尋ねたりすると、あゝ苦労してるなあというのは分かりますよね」
思春期の15歳は多くを語らない。須藤伶君は津島小学校のクラスメイトとの再会を未だに果たせていない。取材を受ければ原発事故に関する質問は避けられないが「世間の人には(震災や原発事故を)忘れて欲しくないから」と言葉少なに話した。言葉で表現するのもつらい経験もした。父親や祖母は4月から通う高校で楽しく高校生活を送れるかまだ心配が大きい。残念ながら、避難指示区域から避難指示が出されなかった区域への避難者に対する視線は、まだまだ厳しい。「避難者が皆、多額の賠償金で〝原発事故長者〟になった」との誤解も払拭されていない。それでも、伶君はこうも言った。
「浪江から避難して来たって、言ってみようかな」



(上)二本松市内で行われた浪江中学校の卒業式。「駐在さん」も見守る中、3人が巣立った。これまでの卒業生は計9937人。針道校舎では95人が学んだ。4月からは在校生がいなくなり、休校となる=福島県二本松市針道
(中)須藤伶君はプラモデルのデザイナーを目指している。「幼い子どもでも作れるような難しくないプラモデルをデザインしたい」と語った
(下)久米田滉斗君の夢は声優。「〝七色の声を持つ男〟と呼ばれる山寺宏一さんを尊敬しています」と語る。「原発事故に関する質問も、真剣に聴いてくれるのなら良いと思います」とも
【過疎化にとどめ刺した原発事故】
原発事故で全町避難を強いられた浪江町は2011年8月25日、既に廃校となっていた旧針道小学校の校舎を借りて授業を再開させた。2012年度には49人の生徒が在籍していたが、避難先で新たな住まいを確保するなどして在校生は徐々に減り、今年は卒業生を含む4人。新3年生の1人は町には戻らないが、新たな住まいからなみえ創成中学校に通う事になった。在校生はゼロとなり、限りなく廃校に近い閉校となる。
浪江町の「町立学校に係る検討委員会」は2017年2月に町に提出した答申の中で、避難先学校の今後のあり方について「浪江町で学校が再開した場合でも避難先の浪江小学校・津島小学校・浪江中学校をそれぞれ避難先で継続すべきである」、「避難先の学校は就学を希望する子どもがいる限り、できるだけ継続すること」などと明記していた。
一方で、福島市内で授業を続けている浪江小・津島小の在校生は3人(6年生、5年生、4年生)。新入生は無く、再来年にはこちらも在校生がいなくなってしまう。同小に通う児童の保護者の中には「中通りの中学校は生徒数が多く、なじめるか不安。せめて小学生が全員、中学校を卒業するまでは存続させて欲しい」などと町教委に求めていた。しかし、福島県教委は「わずか数人のために教職員を充てるのは予算的にも難しい」との方針を早くから打ち出しており、浪江中学校の閉校が決まった。今月22日には、在校生の修了式や閉校式、教職員の離任式を兼ねた会が開かれる予定という。浪江・津島小学校の卒業生は、4月からは避難先の中学校に進学する事になる。
先の男性教諭は「震災前から少子化・過疎化の傾向はもちろんありました。津島小学校にしても人数が減るなどの課題に直面していた時に原発事故が起きてしまったので、さらに加速してしまいましたね」と語った。卒業生の保護者も「子どもの数は減っていたけど、原発事故が決定打となってしまったよね」と寂しそうに話した。
震災前には1700人を超える小中学生がいた浪江町。原発事故による避難は子どもたちもバラバラにした。これもまた、賠償金には換算できない「喪失」の1つなのだ。



(上)体育館に飾られている作品には「4人で夢をつかみとろう」と書かれていた。兄弟のように過ごして来た4人。
(中)教室に描かれた満開の桜。4月からは3人それぞれの高校で新たな生活が始まる
(下)旧針道小学校の校舎から巣立った浪江中生は計95人。たくさんの思い出が詰まった針道校舎も、今月いっぱいで役目を終える
【「いつか再開することを祈って」】
「別れのことば」はこう続く。
「なみえ創成中学校に転校する雅晴君には、浪江中学校を卒業した1万人近くの先輩と、その中でも特に、針道校舎で卒業した92人の先輩の思いを、なみえ創成につないでいく役目があります。浪江中で行った秋桜祭、総合学習など、この2年間で体験した浪江中学校の伝統を、ぜひ、なみえ創成に伝えてください」
須藤君とペアを組み、バドミントンで中学校体育大会相双地区大会のベスト8に勝ち上がった久米田滉斗君は「将来は声優になりたい」と夢を語った。「山寺宏一さんを尊敬しています」。
「原発事故ですか…。僕らに尋ねられても、という気持ちもあるけど、真剣に聴いてくれるのであれば嫌では無いです」
卒業式に出席した吉田数博町長は祝辞の中で「あの日小学校1年生だった皆さんは、入学してから1年が経過しようとする中で、やっと学校生活にも慣れ、多くの友達と楽しい学校生活を過ごしていたと思います。しかし、巨大地震が起こり、続く大津波や原発事故により、皆さんの生活が一変してしまいました。涙をこらえ、苦しみに耐えて、助け合い、そして多くの身近な人々に助けられて努力をし、克服してきたと存じます。離ればなれになったかつてのクラスメイトたちも同様に、困難を乗り越えて、遠く離れた場所で浪江を想い、それぞれの卒業式の舞台に立っていることと思います。きっといつの日か彼らと再会し、語り合う時が来ることでしょう」と語りかけた。町議会の紺野榮重議長も「本来であれば今日は浪江町内、それぞれの中学校で卒業証書が授与されるところでありますが、今年も避難先での卒業式となりました」と述べた。
そして、「別れのことば」はこんな言葉で締めくくられた。
「普通であれば、浪江中の発展を祈って、この『別れのことば』を終えるところです。でも、浪江中は4月からはありません………この浪江中学校が、いつか再開することを祈って、僕たち3人の別れのことばといたします」
「3・11」が過ぎても、8年が経っても、原発事故は終わっていない。
(了)
【「事故無ければ浪江町の校舎で卒業」】
卒業生3人が壇上に上がった。答辞にあたる「別れのことば」。それぞれの想いを男性教諭がA4判3枚にまとめた。リレー方式で読んでいく。それは、こんな言葉から始まった。
「僕たちは、この針道校舎で浪江中学校を卒業します。震災、原発事故がなければ浪江町で過ごし、浪江町の校舎で卒業するはずでした。学校からの帰り道では友達とおしゃべりし合い、家に帰れば近くの友達と遊んで過ごしていたことと思います。今、僕たちはスクールバスで登下校し、避難先の家に帰っても、一緒に遊ぶような友達は近くにいません。僕たちの生活は大きく変わりました。でも、震災があったから得られたものがたくさんあります。僕たち3人は、針道校舎で浪江中生として過ごした3年間を、誇りに思っています」
8年前のあの日、彼らは小学校1年生。巨大な揺れに身をすくめた。大津波で街の沿岸部は壊滅的な被害を受けた。そして原発事故。幼い彼らも過酷な避難生活を強いられた。避難先で通い始めた小学校では、名前に「菌」を付けて呼ばれ、「こっち来るな」などの言葉を浴びた子どももいた。友達が出来ず、涙を流した事もあった。式後の教室で、3人を前に男性教諭は涙で言葉を詰まらせた。「少ない人数で本当に頑張って来たと思います。作文を書かせると、3人が3人とも、この8年間苦労してきた事が本当に良く分かります。これを支えてくれたのは家族だと思うんです」。
校舎の外で卒業生を見送りながら、男性教諭は改めて語った。
「転校先でのいじめが無くても、避難の過程の中でいろいろと苦労をしていますからね。日頃、口には出さないけれど、作文を書かせたり、授業の中でこれまでの8年間の事を尋ねたりすると、あゝ苦労してるなあというのは分かりますよね」
思春期の15歳は多くを語らない。須藤伶君は津島小学校のクラスメイトとの再会を未だに果たせていない。取材を受ければ原発事故に関する質問は避けられないが「世間の人には(震災や原発事故を)忘れて欲しくないから」と言葉少なに話した。言葉で表現するのもつらい経験もした。父親や祖母は4月から通う高校で楽しく高校生活を送れるかまだ心配が大きい。残念ながら、避難指示区域から避難指示が出されなかった区域への避難者に対する視線は、まだまだ厳しい。「避難者が皆、多額の賠償金で〝原発事故長者〟になった」との誤解も払拭されていない。それでも、伶君はこうも言った。
「浪江から避難して来たって、言ってみようかな」



(上)二本松市内で行われた浪江中学校の卒業式。「駐在さん」も見守る中、3人が巣立った。これまでの卒業生は計9937人。針道校舎では95人が学んだ。4月からは在校生がいなくなり、休校となる=福島県二本松市針道
(中)須藤伶君はプラモデルのデザイナーを目指している。「幼い子どもでも作れるような難しくないプラモデルをデザインしたい」と語った
(下)久米田滉斗君の夢は声優。「〝七色の声を持つ男〟と呼ばれる山寺宏一さんを尊敬しています」と語る。「原発事故に関する質問も、真剣に聴いてくれるのなら良いと思います」とも
【過疎化にとどめ刺した原発事故】
原発事故で全町避難を強いられた浪江町は2011年8月25日、既に廃校となっていた旧針道小学校の校舎を借りて授業を再開させた。2012年度には49人の生徒が在籍していたが、避難先で新たな住まいを確保するなどして在校生は徐々に減り、今年は卒業生を含む4人。新3年生の1人は町には戻らないが、新たな住まいからなみえ創成中学校に通う事になった。在校生はゼロとなり、限りなく廃校に近い閉校となる。
浪江町の「町立学校に係る検討委員会」は2017年2月に町に提出した答申の中で、避難先学校の今後のあり方について「浪江町で学校が再開した場合でも避難先の浪江小学校・津島小学校・浪江中学校をそれぞれ避難先で継続すべきである」、「避難先の学校は就学を希望する子どもがいる限り、できるだけ継続すること」などと明記していた。
一方で、福島市内で授業を続けている浪江小・津島小の在校生は3人(6年生、5年生、4年生)。新入生は無く、再来年にはこちらも在校生がいなくなってしまう。同小に通う児童の保護者の中には「中通りの中学校は生徒数が多く、なじめるか不安。せめて小学生が全員、中学校を卒業するまでは存続させて欲しい」などと町教委に求めていた。しかし、福島県教委は「わずか数人のために教職員を充てるのは予算的にも難しい」との方針を早くから打ち出しており、浪江中学校の閉校が決まった。今月22日には、在校生の修了式や閉校式、教職員の離任式を兼ねた会が開かれる予定という。浪江・津島小学校の卒業生は、4月からは避難先の中学校に進学する事になる。
先の男性教諭は「震災前から少子化・過疎化の傾向はもちろんありました。津島小学校にしても人数が減るなどの課題に直面していた時に原発事故が起きてしまったので、さらに加速してしまいましたね」と語った。卒業生の保護者も「子どもの数は減っていたけど、原発事故が決定打となってしまったよね」と寂しそうに話した。
震災前には1700人を超える小中学生がいた浪江町。原発事故による避難は子どもたちもバラバラにした。これもまた、賠償金には換算できない「喪失」の1つなのだ。



(上)体育館に飾られている作品には「4人で夢をつかみとろう」と書かれていた。兄弟のように過ごして来た4人。
(中)教室に描かれた満開の桜。4月からは3人それぞれの高校で新たな生活が始まる
(下)旧針道小学校の校舎から巣立った浪江中生は計95人。たくさんの思い出が詰まった針道校舎も、今月いっぱいで役目を終える
【「いつか再開することを祈って」】
「別れのことば」はこう続く。
「なみえ創成中学校に転校する雅晴君には、浪江中学校を卒業した1万人近くの先輩と、その中でも特に、針道校舎で卒業した92人の先輩の思いを、なみえ創成につないでいく役目があります。浪江中で行った秋桜祭、総合学習など、この2年間で体験した浪江中学校の伝統を、ぜひ、なみえ創成に伝えてください」
須藤君とペアを組み、バドミントンで中学校体育大会相双地区大会のベスト8に勝ち上がった久米田滉斗君は「将来は声優になりたい」と夢を語った。「山寺宏一さんを尊敬しています」。
「原発事故ですか…。僕らに尋ねられても、という気持ちもあるけど、真剣に聴いてくれるのであれば嫌では無いです」
卒業式に出席した吉田数博町長は祝辞の中で「あの日小学校1年生だった皆さんは、入学してから1年が経過しようとする中で、やっと学校生活にも慣れ、多くの友達と楽しい学校生活を過ごしていたと思います。しかし、巨大地震が起こり、続く大津波や原発事故により、皆さんの生活が一変してしまいました。涙をこらえ、苦しみに耐えて、助け合い、そして多くの身近な人々に助けられて努力をし、克服してきたと存じます。離ればなれになったかつてのクラスメイトたちも同様に、困難を乗り越えて、遠く離れた場所で浪江を想い、それぞれの卒業式の舞台に立っていることと思います。きっといつの日か彼らと再会し、語り合う時が来ることでしょう」と語りかけた。町議会の紺野榮重議長も「本来であれば今日は浪江町内、それぞれの中学校で卒業証書が授与されるところでありますが、今年も避難先での卒業式となりました」と述べた。
そして、「別れのことば」はこんな言葉で締めくくられた。
「普通であれば、浪江中の発展を祈って、この『別れのことば』を終えるところです。でも、浪江中は4月からはありません………この浪江中学校が、いつか再開することを祈って、僕たち3人の別れのことばといたします」
「3・11」が過ぎても、8年が経っても、原発事故は終わっていない。
(了)
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