【ふるさとを返せ 津島原発訴訟】母の涙「津島に帰りたい」。娘の嗚咽「津島出身と言えない」~2回目の原告本人尋問。関教授は「土地に根ざして生きる権利を根こそぎ奪われた」
- 2019/03/16
- 10:00
原発事故で帰還困難区域に指定された福島県浪江町津島地区の住民たちが国や東電に原状回復と完全賠償を求める「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」の第17回口頭弁論が15日、福島地裁郡山支部303号法廷(佐々木健二裁判長)で終日、行われた。三瓶春江さん(59)、早弓さん(28)母娘に対する本人尋問では、大粒の涙を流しながら「津島に帰して」、「津島出身と言えるようにして欲しい」と訴えた。午後には、立教大学教授の関礼子さん(環境社会学)が専門家証人として法廷に立ち、「『土地に根ざして生きる権利』が原発事故で根こそぎ奪われた」などと述べた。次回口頭弁論期日は5月23日13時15分から。
【「あの頃の津島に帰してください」】
そこには、当たり前の日常があった。「うちに上がってお茶飲んでけ」、「まんま食ってったらいいべ」。それが挨拶だった。振る舞い、振る舞われながら皆で生きてきた。それが津島だった。冷蔵庫が空だって、酒のつまみに困ったって何の問題も無い。「自宅の周囲を歩けば、天ぷらに出来るものは何でもありました。家庭菜園の野菜もありましたしね」。清流の脇には瑞々しくて美味しいワサビがあった。しかし、それらを全て奪い取ったのが原発事故であり、放射性物質だった。
三瓶春江さんの主尋問では、賠償金を受け取っただけでは取り戻す事の出来ない津島の文化や日常、地域の人間関係などが次々と語られた。その一つが葬儀。11歳の時、一番上の兄が交通事故で突然、旅立った。家計を支えてくれていた兄の葬儀は津島の自宅で行われ、土葬された。それらを全て取り仕切ってくれたのが隣組の人々だった。
「棺も全て手作りでした。リヤカーに乗せ、土葬先まで列をなして運びました。50人以上はいたと思います。お互いに助け合って生きていく『結い』です。葬儀業者には頼みません。これが津島のやり方でした」
昨年、夫の父親が亡くなった。「津島に帰りたい、帰りたい」と春江さんの手を握りながら逝った義父の葬儀はしかし、津島流では出来なかった。原発事故で避難先はバラバラ。誰がどこに避難しているかも分からず、連絡の取りようが無かった。東京や横浜からも参列してくれる人がいたが、「今まで通り津島で葬式が出来ていれば、皆さんが会いに来てくれたと思う。『生きているうちに会いに来たかった』と言ってくれた方がたくさんいました。遠く避難先から香典を送ってくださった方もいました」と涙ながらに悔しさを口にした。義父の墓を津島に建てるか避難先に設けるか。まだ決めかねているという。
「いくら義父の希望であっても、津島ではなかなか墓参も難しい。避難先では本人の意思に反してしまう。まだ決められないのです」
何度も何度も大粒の涙を流した春江さん。孫への想いを口にした時は、涙声がさらに大きくなった。
「孫は中学生と小学6年生になりました。今、私たちは津島から避難して来たという事を隠し通して生活しています。いつか孫たちが避難者であるという事で差別を受けるのではないかと危機感を抱いています。いつか特別な目で見られるんじゃないかという危機感です」
そして、3人の裁判官に向かってこう訴えた。
「今の生活に満足しているわけではありません。元の幸せに戻して欲しいです。現地検証で津島に入ってくださった事には感謝の気持ちでいっぱいです。私たちの想いは伝わったと信じています。(原発事故前の)津島に帰して欲しいです。お願いします」
静まり返った法廷に嗚咽が響いた。これが原発事故被害の現実だ。


(上)主尋問で「元の幸せに戻りたい。私たちが幸せになるために津島に帰して欲しいです。お願いします」と号泣した三瓶春江さん。原発避難で地域がバラバラにさせられた8年間の苦しみを訴えた=2017年5月撮影
(下)娘の早弓さんは「出たくて出たわけでは無いので津島を嫌いになった事はありません。でも、津島から避難してきたと口にすると『避難民』だとか『賠償金をたくさんもらっている』などと言われるので隠すようになりました。堂々と『津島出身』と言えるようにして欲しいです」と涙を流した=2018年7月撮影
【口に出来ない「津島から避難している」】
娘の早弓さんは、津島小学校、津島中学校、福島県立浪江高等学校津島校を卒業。2011年1月に浪江町の成人式に参加したばかりで原発事故に遭った。東京、二本松、猪苗代を経て、その年の夏から郡山市内で一人暮らしを始めた。その時の出来事は昨夏の意見陳述でも語ったが、改めて法廷で口にした。そのくらいショッキングな出来事だった。
友人に誘われて参加した食事会。自己紹介では「郡山に住んでいる」とだけ口にした。「多額の賠償金をもらって朝からパチンコ三昧と思われるのが嫌だった」と早弓さん。男性陣からの質問に「浜通りから来ました」、「双葉郡です」と答えた。「津島」という地名はどうしても口にしたくなかった。何とか別の話題に変えようとしたが駄目だった。追い詰められたように、早弓さんは「浪江の津島」と口にした。男性たちの反応はあまりにストレートだった。その後どんな会話をしたか、何を食べたか、ほとんど覚えていないという。「傷付いた」という言葉では表現出来ないほどショックだった。
「『原発じゃん』、『避難民なの?』、『お金をたくさんもらってるんだよね』などと言われました。あゝ話に聞いていた事は本当だったんだな、と思いました。その後は、早く帰りたいという想いでいっぱいでした。あまり覚えていません。一緒に参加した女の子の友達が私のアパートに泊まったので『避難者と思われるのはつらいね』と話しました。原発事故がなければ、津島の自然や子どもの頃の遊びなどを堂々と話せたのに…」
それ以来、誘われても応じなくなった。裁判期日に行われてきたデモ行進では、車の運転席から「うるせえ」、「そんなに金が欲しいのか」と怒鳴られた。すごく怖かった。自分たちは「避難を強いられた」のに、なぜこんな想いをしなければいけないのか。避難者であると思われるのが怖くなってしまった。男性と知り合っても打ち明ける事が出来ない。男性が理解してくれたとしても、親が被曝を理由に反対するのではないかと思うと踏み込めないという。
「私の意見陳述を読んだという先輩から『すごく共感した。頑張って』と連絡がありました。私だけじゃないんだと分かりました。伝えられる事は伝えて行こうと思いました」
涙を流しながら「津島から出たくて出たわけではありません。だから津島を嫌いになった事はありません」と語った早弓さん。「同じように悩んでいる人がたくさんいる事を分かって欲しいです。堂々と『津島出身』と言えるようにして欲しい」と訴えた。
母・春江さんも原告席で涙を流していた。


環境社会学者・関礼子さんが提出した意見書の一部。法廷では「原告は『土地に根ざして生きる権利』という、一般の人々が享受している権利を全て根こそぎ奪われている。その不正義・不公正を正すにはADRのような手続きでは事足りないと訴訟が起こされた」と述べた
【「『喪失』では無く『ふるさとはく奪』だ」】
午後には、立教大学社会学部教授の関礼子さん(環境社会学)が専門家証人として出廷し、主尋問に臨んだ。
今回の原発事故とこれまでの公害被害と異なる点として、関教授は①土壌や水など1つの汚染問題では無く、水も土壌も大気も環境が全て汚染されている②原状回復に相当長い期間を要する─を挙げた。その上で「健康被害が生じているかいないかに関して、不確実性が高い。これまでの環境の議論では、予防原則に立って出来るだけリスクを小さくする事が重要だとされてきたが、今回の原発事故ではこれまでと方向性が違う。健康被害への不安が将来に持ち越されたままになっている」と述べた。
関教授は、意見書の中で「『ふるさと津島』の喪失、より正確にいえば原発事故による『ふるさとはく奪』」と記している。これについて、「『喪失』は、私は失った、失くしてしまったという意味で、主観性が強く示される。もちろん、裏側には加害が潜んでいるが、その加害性を明確にするためには『はく奪』と表現するのが適切だと考えている」と補足した。
津島には、農作業だけにとどまらない「結い」(相互扶助)の精神があった。物の分配(あげる、もうらう)は当たり前。日常生活に根付いている「お茶飲み」、冷蔵庫の中身まで見えるような緊密性など、地域のつながりは自然な形でセーフティネットになっていた。指示や義務感などでは無く、津島全体が「ひとつの家族」として機能していた。通学バスに乗り遅れてしまった子どもがいれば、誰ともなく声をかけて車に乗せてあげた。関教授の研究成果が、原発事故前の集落の様子を法廷に浮かび上がらせていった。
三瓶早弓さんのように、出自を語れない避難者は少なくない。「出自はアイデンティティの根幹。これを口に出来ない事で尊厳や自尊心が傷付く。この先、長く続く心の傷になる可能性がある」と述べた。また、政府が避難指示解除の基準としている年20mSv(空間線量率で推定された年間積算線量)については「自然とかかわる暮らしには、自然や環境への全幅の信頼がある。年20mSv基準では自然への信頼を回復した津島の暮らしは取り戻せないだろう。津島の人たちの暮らしは家の内部だけ、家の周囲だけで完結していたのでは無い。田んぼや畑、背後の山など広い空間が生活圏としていた。その空間を取り戻す事をもって『除染した』と言える」と指摘した。
主尋問の最後に、関教授は裁判官を正視し「裁判所は人権の最後の砦。最後の希望。原告は『土地に根ざして生きる権利』という、一般の人々が享受している権利を全て根こそぎ奪われている。その不正義・不公正を正すにはADRのような手続きでは事足りない、と訴訟が起こされた。人々の人権の守り手として、社会を良い方向に動かす歯車としての役割を原告は裁判所に期待しているのではないかと考えている」と求めた。
(了)
【「あの頃の津島に帰してください」】
そこには、当たり前の日常があった。「うちに上がってお茶飲んでけ」、「まんま食ってったらいいべ」。それが挨拶だった。振る舞い、振る舞われながら皆で生きてきた。それが津島だった。冷蔵庫が空だって、酒のつまみに困ったって何の問題も無い。「自宅の周囲を歩けば、天ぷらに出来るものは何でもありました。家庭菜園の野菜もありましたしね」。清流の脇には瑞々しくて美味しいワサビがあった。しかし、それらを全て奪い取ったのが原発事故であり、放射性物質だった。
三瓶春江さんの主尋問では、賠償金を受け取っただけでは取り戻す事の出来ない津島の文化や日常、地域の人間関係などが次々と語られた。その一つが葬儀。11歳の時、一番上の兄が交通事故で突然、旅立った。家計を支えてくれていた兄の葬儀は津島の自宅で行われ、土葬された。それらを全て取り仕切ってくれたのが隣組の人々だった。
「棺も全て手作りでした。リヤカーに乗せ、土葬先まで列をなして運びました。50人以上はいたと思います。お互いに助け合って生きていく『結い』です。葬儀業者には頼みません。これが津島のやり方でした」
昨年、夫の父親が亡くなった。「津島に帰りたい、帰りたい」と春江さんの手を握りながら逝った義父の葬儀はしかし、津島流では出来なかった。原発事故で避難先はバラバラ。誰がどこに避難しているかも分からず、連絡の取りようが無かった。東京や横浜からも参列してくれる人がいたが、「今まで通り津島で葬式が出来ていれば、皆さんが会いに来てくれたと思う。『生きているうちに会いに来たかった』と言ってくれた方がたくさんいました。遠く避難先から香典を送ってくださった方もいました」と涙ながらに悔しさを口にした。義父の墓を津島に建てるか避難先に設けるか。まだ決めかねているという。
「いくら義父の希望であっても、津島ではなかなか墓参も難しい。避難先では本人の意思に反してしまう。まだ決められないのです」
何度も何度も大粒の涙を流した春江さん。孫への想いを口にした時は、涙声がさらに大きくなった。
「孫は中学生と小学6年生になりました。今、私たちは津島から避難して来たという事を隠し通して生活しています。いつか孫たちが避難者であるという事で差別を受けるのではないかと危機感を抱いています。いつか特別な目で見られるんじゃないかという危機感です」
そして、3人の裁判官に向かってこう訴えた。
「今の生活に満足しているわけではありません。元の幸せに戻して欲しいです。現地検証で津島に入ってくださった事には感謝の気持ちでいっぱいです。私たちの想いは伝わったと信じています。(原発事故前の)津島に帰して欲しいです。お願いします」
静まり返った法廷に嗚咽が響いた。これが原発事故被害の現実だ。


(上)主尋問で「元の幸せに戻りたい。私たちが幸せになるために津島に帰して欲しいです。お願いします」と号泣した三瓶春江さん。原発避難で地域がバラバラにさせられた8年間の苦しみを訴えた=2017年5月撮影
(下)娘の早弓さんは「出たくて出たわけでは無いので津島を嫌いになった事はありません。でも、津島から避難してきたと口にすると『避難民』だとか『賠償金をたくさんもらっている』などと言われるので隠すようになりました。堂々と『津島出身』と言えるようにして欲しいです」と涙を流した=2018年7月撮影
【口に出来ない「津島から避難している」】
娘の早弓さんは、津島小学校、津島中学校、福島県立浪江高等学校津島校を卒業。2011年1月に浪江町の成人式に参加したばかりで原発事故に遭った。東京、二本松、猪苗代を経て、その年の夏から郡山市内で一人暮らしを始めた。その時の出来事は昨夏の意見陳述でも語ったが、改めて法廷で口にした。そのくらいショッキングな出来事だった。
友人に誘われて参加した食事会。自己紹介では「郡山に住んでいる」とだけ口にした。「多額の賠償金をもらって朝からパチンコ三昧と思われるのが嫌だった」と早弓さん。男性陣からの質問に「浜通りから来ました」、「双葉郡です」と答えた。「津島」という地名はどうしても口にしたくなかった。何とか別の話題に変えようとしたが駄目だった。追い詰められたように、早弓さんは「浪江の津島」と口にした。男性たちの反応はあまりにストレートだった。その後どんな会話をしたか、何を食べたか、ほとんど覚えていないという。「傷付いた」という言葉では表現出来ないほどショックだった。
「『原発じゃん』、『避難民なの?』、『お金をたくさんもらってるんだよね』などと言われました。あゝ話に聞いていた事は本当だったんだな、と思いました。その後は、早く帰りたいという想いでいっぱいでした。あまり覚えていません。一緒に参加した女の子の友達が私のアパートに泊まったので『避難者と思われるのはつらいね』と話しました。原発事故がなければ、津島の自然や子どもの頃の遊びなどを堂々と話せたのに…」
それ以来、誘われても応じなくなった。裁判期日に行われてきたデモ行進では、車の運転席から「うるせえ」、「そんなに金が欲しいのか」と怒鳴られた。すごく怖かった。自分たちは「避難を強いられた」のに、なぜこんな想いをしなければいけないのか。避難者であると思われるのが怖くなってしまった。男性と知り合っても打ち明ける事が出来ない。男性が理解してくれたとしても、親が被曝を理由に反対するのではないかと思うと踏み込めないという。
「私の意見陳述を読んだという先輩から『すごく共感した。頑張って』と連絡がありました。私だけじゃないんだと分かりました。伝えられる事は伝えて行こうと思いました」
涙を流しながら「津島から出たくて出たわけではありません。だから津島を嫌いになった事はありません」と語った早弓さん。「同じように悩んでいる人がたくさんいる事を分かって欲しいです。堂々と『津島出身』と言えるようにして欲しい」と訴えた。
母・春江さんも原告席で涙を流していた。


環境社会学者・関礼子さんが提出した意見書の一部。法廷では「原告は『土地に根ざして生きる権利』という、一般の人々が享受している権利を全て根こそぎ奪われている。その不正義・不公正を正すにはADRのような手続きでは事足りないと訴訟が起こされた」と述べた
【「『喪失』では無く『ふるさとはく奪』だ」】
午後には、立教大学社会学部教授の関礼子さん(環境社会学)が専門家証人として出廷し、主尋問に臨んだ。
今回の原発事故とこれまでの公害被害と異なる点として、関教授は①土壌や水など1つの汚染問題では無く、水も土壌も大気も環境が全て汚染されている②原状回復に相当長い期間を要する─を挙げた。その上で「健康被害が生じているかいないかに関して、不確実性が高い。これまでの環境の議論では、予防原則に立って出来るだけリスクを小さくする事が重要だとされてきたが、今回の原発事故ではこれまでと方向性が違う。健康被害への不安が将来に持ち越されたままになっている」と述べた。
関教授は、意見書の中で「『ふるさと津島』の喪失、より正確にいえば原発事故による『ふるさとはく奪』」と記している。これについて、「『喪失』は、私は失った、失くしてしまったという意味で、主観性が強く示される。もちろん、裏側には加害が潜んでいるが、その加害性を明確にするためには『はく奪』と表現するのが適切だと考えている」と補足した。
津島には、農作業だけにとどまらない「結い」(相互扶助)の精神があった。物の分配(あげる、もうらう)は当たり前。日常生活に根付いている「お茶飲み」、冷蔵庫の中身まで見えるような緊密性など、地域のつながりは自然な形でセーフティネットになっていた。指示や義務感などでは無く、津島全体が「ひとつの家族」として機能していた。通学バスに乗り遅れてしまった子どもがいれば、誰ともなく声をかけて車に乗せてあげた。関教授の研究成果が、原発事故前の集落の様子を法廷に浮かび上がらせていった。
三瓶早弓さんのように、出自を語れない避難者は少なくない。「出自はアイデンティティの根幹。これを口に出来ない事で尊厳や自尊心が傷付く。この先、長く続く心の傷になる可能性がある」と述べた。また、政府が避難指示解除の基準としている年20mSv(空間線量率で推定された年間積算線量)については「自然とかかわる暮らしには、自然や環境への全幅の信頼がある。年20mSv基準では自然への信頼を回復した津島の暮らしは取り戻せないだろう。津島の人たちの暮らしは家の内部だけ、家の周囲だけで完結していたのでは無い。田んぼや畑、背後の山など広い空間が生活圏としていた。その空間を取り戻す事をもって『除染した』と言える」と指摘した。
主尋問の最後に、関教授は裁判官を正視し「裁判所は人権の最後の砦。最後の希望。原告は『土地に根ざして生きる権利』という、一般の人々が享受している権利を全て根こそぎ奪われている。その不正義・不公正を正すにはADRのような手続きでは事足りない、と訴訟が起こされた。人々の人権の守り手として、社会を良い方向に動かす歯車としての役割を原告は裁判所に期待しているのではないかと考えている」と求めた。
(了)
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