【ふるさとを返せ 津島原発訴訟】東電代理人の「年20mSvまで安全」発言に法廷は騒然。「奪われた津島での酪農」「自分で建てた家が汚染」~2人の男性原告が本人尋問
- 2019/07/12
- 05:01
原発事故で帰還困難区域に指定された福島県双葉郡浪江町津島地区の住民たちが国や東電に原状回復と完全賠償を求めている「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」の第20回口頭弁論が11日午後、福島地裁郡山支部303号法廷(佐々木健二裁判長)で行われた。2人の男性原告が本人尋問。被告東電の代理人弁護士が「年20mSv以下であれば健康に影響は無い」と発言し、法廷が騒然となる場面もあった。今回も2日連続期日。12日も3人の女性原告が本人尋問を受け、立教大学教授の関礼子さん(環境社会学)が専門家証人として反対尋問に臨む。次回期日は9月19日13時10分。
【アイスにもなった良質の牛乳】
「誠に残念ながら、津島全体で500頭以上いた牛のうち約260頭が原発の犠牲になりました。人間の避難で精一杯。私も30頭だけを町外に移動させました。40頭は無理でした。殺処分せざるを得ませんでした。牛も自分の運命を分かっていたのでしょう。トラックになかなか乗らなかった光景は今でも覚えています。思い出すと涙が出てきます」
今野幸四郎さん(82)の涙声が法廷に響いた。
自身で5代目。代々、林業と農業で生計を立てて来たが、「5年に1度の大冷害に対応するため」1960年代に酪農を始めた。国の減反政策が始まった事もあり、70年代には酪農一本に絞って取り組んできた。やがて長男も手伝うようになり、原発事故の直前には70頭の牛を飼うまでになっていた。
「わが家も含めて津島地区の牛乳の成分が優秀だったので大阪から江崎グリコの社員が訪ねて来た事がありました。『ここの牛乳で『牧場しぼり』というアイスクリームを作りたい』という話でした。私は福島県酪農業協同組合の生産委員長をしていたので、消費拡大の観点から賛成しました。東京の撮影所に行って、女優の石原さとみさんとテレビコマーシャルの撮影をしました。全国で放送され『お前の顔出たぞ』などと言われてうれしかったです」
アイスクリームに加工され、全国の店頭に並んだ津島の牛乳。質の高さが全国で認められた。しかしその3年後、悪夢のような原発事故が津島を襲った。
「震災当日から郡山工場のラインが止まりました。当然、牛乳の出荷も出来ません。現在では、江崎グリコとの取引はありません。お中元とお歳暮は今でも頂きますが…」
原発事故で福島県本宮市に避難。現在は長男を中心に牧場を経営している。しかし、放牧地も含めて広大だった土地は牛舎を建てるので精一杯になるほど縮小し、牛の鳴き声や臭いなど近所の住民に対する気遣いも増えた。エサや寝床にしていた稲わらは津島の仲間からもらえていたが、今は輸入品を買うしか無い。
確かに東電からは一定の賠償金が支払われ、土地もようやく確保出来たので牧場経営は再開出来ている。しかし、環境は一変した。牛の出産に電話一本で駆けつけてくれる仲間も離散してしまった。エサ代や土地の賃料負担も重くのしかかる。津島から避難した酪農家のうち、避難先で酪農を続けているのは今野さん家族だけだという。


郡山駅前で道行く人々に裁判への理解を訴えた原告たちは、福島地裁郡山支部周辺をデモ行進した。裁判は長期化し、原告たちの負担も大きいが、原発事故でふるさとを奪った原発事故への償いと原状回復を求めて闘い続けている
【「毎朝毎晩、津島の方角を向く」】
仲間と助け合い、酪農に汗を流した津島での生活。毎年11月10日には「牛魂祭」を開き、牛の霊を慰め、感謝した。今野さんは今も妻と11月10日には津島に入り、牛魂碑をお参りして写真を撮影している。「誰もいないから、警戒中のおまわりさんにシャッターを押してもらった事もあります。仲間は原発避難でバラバラになってしまいました。『無念』以外にありません」。
原発が爆発してから100カ月。ふるさとへの想いはいささかも変わり無い。
「本宮の自宅から津島・赤宇木までは直線距離で32キロメートルです。朝、起床して津島の方角を向き、夜寝る前も必ず、津島の方を見て休むようにしています。そうしないと眠れないんだ」
国道114号線が自由通行になったのと引き換えに、津島地区には不審者の侵入を防ぐためのバリケードがいくつも設置された。一時帰宅する際には事前に日時を申請し、解錠してもらわないとわが家までたどり着けない。場所によっては携帯電話の電波が届かず、貸与される小型無線機も役に立たない事すらある。避難先に戻る際には再び施錠される。国道を走行するのはフリーパスで、住民が帰宅するのに解錠が要る矛盾。「まるで檻にかかったイノシシのようだ」。今野さんの怒りはもっともだ。
「もし明日、バリケードが撤去されるのなら、俺が真っ先に帰りたい。この苦しみを1日も早く解消して欲しい」
反対尋問で、東電の代理人弁護士は今回も、これまでに支払った賠償金で十分だと言わんばかりに一覧表を示して今野さんに質した。今野さんが「字が小さくて読めない」と言うと、東電の代理人弁護士が「よろしければ読み上げましょうか?」と応じ、今野さんが怒る場面もあった。
主尋問、反対尋問合わせて2時間近くにも及んだが、まだまだ言葉にしきれない事がたくさんある。いったん休憩に入ると、今野さんは被告席に向かって「謝ってもらったって駄目なんだ」と声を上げた。傍聴席からは「おい東電、『3つの誓い』を守れよ!」との言葉も飛んだ。奪われたふるさとや今なお続く被害の大きさと、一定の賠償金を支払って終わりにしたい東電。原告たちは毎回、その差に驚き、呆れている。


(上)本人尋問に臨んだ今野幸四郎さん(左から2番目)。法廷では「1日も早く、自由に帰宅出来るようにして欲しい。もし明日、帰還困難区域の指定が解除されてバリケードが撤去されたら、俺が真っ先に帰る」と訴えた=2017年3月撮影
(下)3月の期日で主尋問を受けた立教大学教授の関礼子さん。今日12日、被告国や東電の代理人による反対尋問を受ける
【わが家汚された大工の哀しみ】
武藤茂さん(70)は大工だ。「大工という仕事を選んだ時から、いつか自分の手で家を建てるのが夢だった」。
そしてついに、その夢が叶った。自宅周辺の木を伐り出し、大工仲間の協力も得て、ゆったりとした空間を活かす自宅を建てた。ロフトには、若い頃に東京・秋葉原で購入したオーディオ機器を設置し、音楽を大音量で聴けるようにした。ベースやドラムの重低音が木を伝って全身に響く。至福の時間だった。ほぼ理想通りに完成したわが家。「原発事故が無かったら、80年は持ったはずです」。自らの腕で完成させた家に対する愛着はひとしおだった。
しかし今、武藤さんは家族と福島市内で生活している。自分で家を建ててから19年後に起きた原発事故は、わが家にも放射性物質を降らせた。2011年9月には、自身の測定で自宅周辺は4~6μSv/hあった。線量計が9・99μSv/hまでしか測れず、場所によっては正確な数値が分からないほど汚染されていた。
避難指示が出され、主を失ったわが家。武藤さんは一時帰宅のたびに欠かさず室内を掃除している。「締め切っていては湿気がこもってカビが生えてしまう」と窓を開け放ち、きれいにしている。掃除をしている間、お気に入りの音楽を流して気持ちを和ませる。しかし、どれだけきれいに保っていても、ここで寝泊まりする事は出来ない。避難指示が解除される見通しも立っていない。自然低減が進んだとはいえ、依然として自宅周辺は1~2μSv/hに達する。「一刻も早く除染して住めるようにして欲しい」。わが家が家族を待っている。
一時帰宅は70回を超えた。自身の被曝を考えない事は無い。「放射線には恐怖を感じる。他所の地域に比べると高いと思います」と話す。一時宅のたびに空間線量を測って記録して来た。しかし、東電の代理人弁護士はこんな言葉で武藤さんの恐怖を否定してみせた。
「まだまだ高い、怖い、危険と言うが、具体的な根拠はあるのか。例えば、国際組織であるIAEA(国際原子力機関)は20mSv/年以下、3・8μSv/h以下であれば健康に影響は無いという数字を出している」
これには傍聴席から怒りの声があがり、佐々木裁判長が強くたしなめる場面もあった。そもそも、原発事故前の空間線量は0・04μSv/h程度だった。ふるさとを奪われ、わが家を追われた被害者に、加害企業が「20mSv/年まで安全ですよ」と恐怖感を否定する。もっと言えば国も同じ姿勢だ。これが原発事故から100カ月後の現実だ。
一緒に避難した愛犬は視力がかなり落ちてしまった。再び家族とともにわが家に帰って放射線など気にせず暮らしたい。武藤さんの願いはそれだけだ。
(了)
【アイスにもなった良質の牛乳】
「誠に残念ながら、津島全体で500頭以上いた牛のうち約260頭が原発の犠牲になりました。人間の避難で精一杯。私も30頭だけを町外に移動させました。40頭は無理でした。殺処分せざるを得ませんでした。牛も自分の運命を分かっていたのでしょう。トラックになかなか乗らなかった光景は今でも覚えています。思い出すと涙が出てきます」
今野幸四郎さん(82)の涙声が法廷に響いた。
自身で5代目。代々、林業と農業で生計を立てて来たが、「5年に1度の大冷害に対応するため」1960年代に酪農を始めた。国の減反政策が始まった事もあり、70年代には酪農一本に絞って取り組んできた。やがて長男も手伝うようになり、原発事故の直前には70頭の牛を飼うまでになっていた。
「わが家も含めて津島地区の牛乳の成分が優秀だったので大阪から江崎グリコの社員が訪ねて来た事がありました。『ここの牛乳で『牧場しぼり』というアイスクリームを作りたい』という話でした。私は福島県酪農業協同組合の生産委員長をしていたので、消費拡大の観点から賛成しました。東京の撮影所に行って、女優の石原さとみさんとテレビコマーシャルの撮影をしました。全国で放送され『お前の顔出たぞ』などと言われてうれしかったです」
アイスクリームに加工され、全国の店頭に並んだ津島の牛乳。質の高さが全国で認められた。しかしその3年後、悪夢のような原発事故が津島を襲った。
「震災当日から郡山工場のラインが止まりました。当然、牛乳の出荷も出来ません。現在では、江崎グリコとの取引はありません。お中元とお歳暮は今でも頂きますが…」
原発事故で福島県本宮市に避難。現在は長男を中心に牧場を経営している。しかし、放牧地も含めて広大だった土地は牛舎を建てるので精一杯になるほど縮小し、牛の鳴き声や臭いなど近所の住民に対する気遣いも増えた。エサや寝床にしていた稲わらは津島の仲間からもらえていたが、今は輸入品を買うしか無い。
確かに東電からは一定の賠償金が支払われ、土地もようやく確保出来たので牧場経営は再開出来ている。しかし、環境は一変した。牛の出産に電話一本で駆けつけてくれる仲間も離散してしまった。エサ代や土地の賃料負担も重くのしかかる。津島から避難した酪農家のうち、避難先で酪農を続けているのは今野さん家族だけだという。


郡山駅前で道行く人々に裁判への理解を訴えた原告たちは、福島地裁郡山支部周辺をデモ行進した。裁判は長期化し、原告たちの負担も大きいが、原発事故でふるさとを奪った原発事故への償いと原状回復を求めて闘い続けている
【「毎朝毎晩、津島の方角を向く」】
仲間と助け合い、酪農に汗を流した津島での生活。毎年11月10日には「牛魂祭」を開き、牛の霊を慰め、感謝した。今野さんは今も妻と11月10日には津島に入り、牛魂碑をお参りして写真を撮影している。「誰もいないから、警戒中のおまわりさんにシャッターを押してもらった事もあります。仲間は原発避難でバラバラになってしまいました。『無念』以外にありません」。
原発が爆発してから100カ月。ふるさとへの想いはいささかも変わり無い。
「本宮の自宅から津島・赤宇木までは直線距離で32キロメートルです。朝、起床して津島の方角を向き、夜寝る前も必ず、津島の方を見て休むようにしています。そうしないと眠れないんだ」
国道114号線が自由通行になったのと引き換えに、津島地区には不審者の侵入を防ぐためのバリケードがいくつも設置された。一時帰宅する際には事前に日時を申請し、解錠してもらわないとわが家までたどり着けない。場所によっては携帯電話の電波が届かず、貸与される小型無線機も役に立たない事すらある。避難先に戻る際には再び施錠される。国道を走行するのはフリーパスで、住民が帰宅するのに解錠が要る矛盾。「まるで檻にかかったイノシシのようだ」。今野さんの怒りはもっともだ。
「もし明日、バリケードが撤去されるのなら、俺が真っ先に帰りたい。この苦しみを1日も早く解消して欲しい」
反対尋問で、東電の代理人弁護士は今回も、これまでに支払った賠償金で十分だと言わんばかりに一覧表を示して今野さんに質した。今野さんが「字が小さくて読めない」と言うと、東電の代理人弁護士が「よろしければ読み上げましょうか?」と応じ、今野さんが怒る場面もあった。
主尋問、反対尋問合わせて2時間近くにも及んだが、まだまだ言葉にしきれない事がたくさんある。いったん休憩に入ると、今野さんは被告席に向かって「謝ってもらったって駄目なんだ」と声を上げた。傍聴席からは「おい東電、『3つの誓い』を守れよ!」との言葉も飛んだ。奪われたふるさとや今なお続く被害の大きさと、一定の賠償金を支払って終わりにしたい東電。原告たちは毎回、その差に驚き、呆れている。


(上)本人尋問に臨んだ今野幸四郎さん(左から2番目)。法廷では「1日も早く、自由に帰宅出来るようにして欲しい。もし明日、帰還困難区域の指定が解除されてバリケードが撤去されたら、俺が真っ先に帰る」と訴えた=2017年3月撮影
(下)3月の期日で主尋問を受けた立教大学教授の関礼子さん。今日12日、被告国や東電の代理人による反対尋問を受ける
【わが家汚された大工の哀しみ】
武藤茂さん(70)は大工だ。「大工という仕事を選んだ時から、いつか自分の手で家を建てるのが夢だった」。
そしてついに、その夢が叶った。自宅周辺の木を伐り出し、大工仲間の協力も得て、ゆったりとした空間を活かす自宅を建てた。ロフトには、若い頃に東京・秋葉原で購入したオーディオ機器を設置し、音楽を大音量で聴けるようにした。ベースやドラムの重低音が木を伝って全身に響く。至福の時間だった。ほぼ理想通りに完成したわが家。「原発事故が無かったら、80年は持ったはずです」。自らの腕で完成させた家に対する愛着はひとしおだった。
しかし今、武藤さんは家族と福島市内で生活している。自分で家を建ててから19年後に起きた原発事故は、わが家にも放射性物質を降らせた。2011年9月には、自身の測定で自宅周辺は4~6μSv/hあった。線量計が9・99μSv/hまでしか測れず、場所によっては正確な数値が分からないほど汚染されていた。
避難指示が出され、主を失ったわが家。武藤さんは一時帰宅のたびに欠かさず室内を掃除している。「締め切っていては湿気がこもってカビが生えてしまう」と窓を開け放ち、きれいにしている。掃除をしている間、お気に入りの音楽を流して気持ちを和ませる。しかし、どれだけきれいに保っていても、ここで寝泊まりする事は出来ない。避難指示が解除される見通しも立っていない。自然低減が進んだとはいえ、依然として自宅周辺は1~2μSv/hに達する。「一刻も早く除染して住めるようにして欲しい」。わが家が家族を待っている。
一時帰宅は70回を超えた。自身の被曝を考えない事は無い。「放射線には恐怖を感じる。他所の地域に比べると高いと思います」と話す。一時宅のたびに空間線量を測って記録して来た。しかし、東電の代理人弁護士はこんな言葉で武藤さんの恐怖を否定してみせた。
「まだまだ高い、怖い、危険と言うが、具体的な根拠はあるのか。例えば、国際組織であるIAEA(国際原子力機関)は20mSv/年以下、3・8μSv/h以下であれば健康に影響は無いという数字を出している」
これには傍聴席から怒りの声があがり、佐々木裁判長が強くたしなめる場面もあった。そもそも、原発事故前の空間線量は0・04μSv/h程度だった。ふるさとを奪われ、わが家を追われた被害者に、加害企業が「20mSv/年まで安全ですよ」と恐怖感を否定する。もっと言えば国も同じ姿勢だ。これが原発事故から100カ月後の現実だ。
一緒に避難した愛犬は視力がかなり落ちてしまった。再び家族とともにわが家に帰って放射線など気にせず暮らしたい。武藤さんの願いはそれだけだ。
(了)
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