【中通りに生きる会・損害賠償請求訴訟】5年間の闘いが結審。年内にも裁判所が和解勧告へ~最後の意見陳述「苦しい作業だった『心の損害』との向き合い」「魂ぶつけ合い進めた〝発掘作業〟」
- 2019/07/18
- 06:02
「中通りに生きる会」(平井ふみ子代表)の男女52人(福島県福島市や郡山市、田村市などに在住)が、福島第一原発の事故で精神的損害を被ったとして東電を相手に起こした損害賠償請求訴訟の第16回口頭弁論が17日午後、福島地方裁判所206号法廷(遠藤東路裁判長)で行われた。原告の代表と代理人弁護士が最後の意見陳述をして結審。判決は2020年2月19日に言い渡される事が決まったが、原告たちは和解による決着を強く望んでおり、年内にも福島地裁が和解案を提示する見通し。陳述書の執筆着手から5年。長く苦しい闘いがようやく終わる。
【「自分自身との闘いでもあった」】
東電と争う事はそれぞれの「心の損害」と向き合う苦しい重労働だった─。会の代表として先頭に立って奔走してきた平井ふみ子さん(福島県福島市在住)が、最後に原告を代表して法廷で想いを述べた。
提訴を決意してからは、苦しさの連続だった。「弁護士に委任状を書いて渡せばすぐに訴訟が出来ると思っておりましたので正直、戸惑いました」と平井さん。しかし、代理人となった野村吉太郎弁護士が「中通りに生きる会」のメンバーに課したのは、「少なくとも原稿用紙8枚、3200字以上の陳述書」だった。
陳述書など書いた事が無い。何をどう書いたらいいのか分からない。書いても書いても、野村弁護士から〝合格〟は得られなかった。何度も赤のペンで添削され、真っ赤になって戻って来た。「裸になれ」、「自分をさらけ出せ」と言われて頭を抱えた。夏目漱石の小説「こころ」を参考にしろと言われ、読んでさらに混乱した。その厳しさに提訴を断念する人が続出。当初の120人から提訴時には52人にまで減っていた。
実は苦しいのは書き直す事では無かった。「『私の心の損害』を掘り下げて書くという事は、私たちにとって困難な苦しい重労働のようなものでした。精神的損害が原発事故とどのように関係するのかを考える中で苦しくなり、傷付いていくという連続でもありました。必死の思いでかじりつくようにして陳述書を書き上げました」。提訴を迎えるまでに2年を要した。
提訴から3年。陳述書の執筆着手から数えれば実に5年の月日が流れた。原告たちの疲弊はピークに達しており、和解の道を選んだ。原発事故から8年が過ぎても、当時の恐怖や不安を忘れる事は無い。今でも涙があふれてくる。陳述書で傷付き、意見陳述で再び傷付き、本人尋問でも心の傷をえぐられた。苦しさの連続だった。
福島県中通りに政府の避難指示は出されなかった。東電から支払われた賠償金はごくわずか。「このまま黙って我慢していたら、原発事故は無かった事にして片付けられてしまう」との一心で闘ってきた。自身や家族を守ろうと避難した人も少なくなかった。動きたくても動けなかった人もいた。それぞれが直面してきた日々の被曝リスク。「朝起きてから寝るまで、四六時中放射能の事が頭から放れない、息苦しい生活を私たちは送らざるを得ませんでした」。長く苦しい闘いがようやく、終わりを迎える。
「この訴訟は私たち自分との闘いでもありました。そして、やれるだけの事はやったという自負があります。だから私たちは『和解』の道を選んだのです」


(上)ようやく結審し、笑顔を見せた平井ふみ子さん。会の代表として走り続けてきた。最後の意見陳述では、原告を代表し「やれるだけの事はやったという自負がある」と胸を張った
(下)閉廷後、原告たちはそれぞれの言葉で5年間を振り返った。何人もの原告が涙を流した。自身の「心の損害」と向き合う作業は、それだけ苦しさの連続だったのだ=福島市市民会館
【鬼に徹した弁護士「力引き出すため」】
なぜそこまで「提訴前の陳述書」にこだわったのか。一般的に陳述書は、原告から聞き取った話を提訴後に代理人弁護士がまとめる事が多い。しかし、あくまで原告本人が自分の手で陳述書を書き上げるよう求めた。その理由について、野村吉太郎弁護士は法廷でこう陳述した。
「(原告たちの)精神的損害を掘り下げる必要があったのですが、従来の損害賠償における損害論、特に精神的損害賠償については深くきめ細かな分析が全くなされておらず、単に『慰謝料』としてまとめて一括りにされており、判決等においてもその中身はブラックボックス化しておりました。個別損害項目積み上げ方式に立脚しながらも精神的損害の中味を追究し、分析・分類する事により精神的損害が一括りにされないよう、そして納得出来るような賠償額に近づけるためには材料・証拠が必要です。その材料・証拠が陳述書なのです」
野村弁護士は、原告たちに陳述書を書いてもらう事は「個々の精神的損害を『発掘』する作業でもあった」と振り返る。そして「決して楽な作業では無かった」とも。「原告一人一人と向き合い、原発事故とは何だったのか、心の損害とは何かという事を突き詰める作業はある意味、弁護士である私と原告らとの魂のぶつかり合いでもありました」。
裁判でものを言うのは依頼者自身の力。それを最大限に引き出すのが弁護士の仕事だと考える。「私がまず陳述書を書いてもらったのは、原告らの『力』を引き出すため、その『力』を頼りに私が裁判で争う武器を手に入れるためでもあった」。時には原告たちが怒るほど厳しい姿勢で向き合った。全ては原告の「力」を引き出し、なぜ精神的損害が原発事故に起因すると言えるのかを立証するためだった。
「被災者である原告自身が陳述書を書かなければ、苦しみや哀しみ、つらさ、悔しさなど本当の精神的損害を表す事が出来ないのです。そうしなければ本当の意味での『依頼者の力』を引き出す事が出来ないと考えたのです」
鬼に徹した5年間。
「原告らがまさに全身全霊を打ち込んで闘い、そして今は和解で終了したいという想いを是非とも裁判所は受け止めて、原告らの期待に応えていただきたい」
野村弁護士の「魂のぶつかり合い」も、間もなく終わる。


最終弁論では、原告と代理人弁護士が意見陳述をした。どちらも苦しかった陳述書の作成について触れた。原告たちは自分自身と向き合い、弁護士は原告たちの力を引き出そうと鬼に徹した。「魂のぶつかり合いだった」と振り返る
【被告の「全否定」に高まった怒り】
このまま判決を迎えても被告東電が控訴すれば高裁での争いが続く。疲弊がピークに達している原告たちは和解の道を選んだ。当初は消極的だった裁判所側も、和解を勧告する意思を固めた。今年5月には原告たちが記者会見をして東電が和解案を受諾するよう訴えた。力は尽くした。後は裁判所の提示する和解案を待つばかりだ。
原告たちは、裁判所が和解案を提示すれば受け入れる方針を決めている。東電も受諾すれば来年2月の判決期日は取り消され、長く苦しい闘いにピリオドが打たれる。
閉廷後、福島市市民会館に集まった原告たちは、「本人尋問では何を話したか覚えていないくらいのプレッシャーを感じた」などと5年間を振り返った。
「仕事で夜勤をし、陳述書で夜勤をした」。陳述書を書き上げるのは並大抵の苦労では無かった。「まさに七転八倒。頭の中が破裂するくらいだった」と表現した原告もいた。「文章を書くのも人前で話すのも苦手」な原告たちにとっては、つらい事だらけだった。それでもやめなかったのは金が欲しいからでは無い。「絶対に起こしてはいけない原発事故を起こした東電」にきちんと償ってほしかったからだ。
しかし、被告東電は裁判を通じ、原告たちの避難や被曝リスクへの不安を全否定した。「これが〝加害者〟の言葉か」。準備書面が出されるたびに、原告たちの怒りは高まった。大好きなふるさとを汚された。いまだに生活空間に汚染土壌の入ったフレコンバッグが保管されている。家庭菜園も山菜採りもあきらめた。それらの想いを被告側は全否定した。「100mSv以下では他の健康リスクに隠れてしまうほど発ガンリスクは小さい」、「国も自治体も家庭菜園を禁じていない」。ある原告はきっぱりと反論した。「逃げようと考えた事を悪いとは思っていない」。
裁判所の和解案を目にする事無く旅立った仲間もいる。「私を誘ってくれたのに…。この場に居ないのが哀しい。一緒にこの日を迎えたかった」。原告の1人は大粒の涙を流して天国の仲間を想った。
果たしてどのような和解案になるのか分からない。自分たちの想いが少しでも和解案に反映され、それを東電が受諾する事を願いながら吉報を待つ。原発事故から100カ月。原告たちは一つの節目を迎えた。
(了)
【「自分自身との闘いでもあった」】
東電と争う事はそれぞれの「心の損害」と向き合う苦しい重労働だった─。会の代表として先頭に立って奔走してきた平井ふみ子さん(福島県福島市在住)が、最後に原告を代表して法廷で想いを述べた。
提訴を決意してからは、苦しさの連続だった。「弁護士に委任状を書いて渡せばすぐに訴訟が出来ると思っておりましたので正直、戸惑いました」と平井さん。しかし、代理人となった野村吉太郎弁護士が「中通りに生きる会」のメンバーに課したのは、「少なくとも原稿用紙8枚、3200字以上の陳述書」だった。
陳述書など書いた事が無い。何をどう書いたらいいのか分からない。書いても書いても、野村弁護士から〝合格〟は得られなかった。何度も赤のペンで添削され、真っ赤になって戻って来た。「裸になれ」、「自分をさらけ出せ」と言われて頭を抱えた。夏目漱石の小説「こころ」を参考にしろと言われ、読んでさらに混乱した。その厳しさに提訴を断念する人が続出。当初の120人から提訴時には52人にまで減っていた。
実は苦しいのは書き直す事では無かった。「『私の心の損害』を掘り下げて書くという事は、私たちにとって困難な苦しい重労働のようなものでした。精神的損害が原発事故とどのように関係するのかを考える中で苦しくなり、傷付いていくという連続でもありました。必死の思いでかじりつくようにして陳述書を書き上げました」。提訴を迎えるまでに2年を要した。
提訴から3年。陳述書の執筆着手から数えれば実に5年の月日が流れた。原告たちの疲弊はピークに達しており、和解の道を選んだ。原発事故から8年が過ぎても、当時の恐怖や不安を忘れる事は無い。今でも涙があふれてくる。陳述書で傷付き、意見陳述で再び傷付き、本人尋問でも心の傷をえぐられた。苦しさの連続だった。
福島県中通りに政府の避難指示は出されなかった。東電から支払われた賠償金はごくわずか。「このまま黙って我慢していたら、原発事故は無かった事にして片付けられてしまう」との一心で闘ってきた。自身や家族を守ろうと避難した人も少なくなかった。動きたくても動けなかった人もいた。それぞれが直面してきた日々の被曝リスク。「朝起きてから寝るまで、四六時中放射能の事が頭から放れない、息苦しい生活を私たちは送らざるを得ませんでした」。長く苦しい闘いがようやく、終わりを迎える。
「この訴訟は私たち自分との闘いでもありました。そして、やれるだけの事はやったという自負があります。だから私たちは『和解』の道を選んだのです」


(上)ようやく結審し、笑顔を見せた平井ふみ子さん。会の代表として走り続けてきた。最後の意見陳述では、原告を代表し「やれるだけの事はやったという自負がある」と胸を張った
(下)閉廷後、原告たちはそれぞれの言葉で5年間を振り返った。何人もの原告が涙を流した。自身の「心の損害」と向き合う作業は、それだけ苦しさの連続だったのだ=福島市市民会館
【鬼に徹した弁護士「力引き出すため」】
なぜそこまで「提訴前の陳述書」にこだわったのか。一般的に陳述書は、原告から聞き取った話を提訴後に代理人弁護士がまとめる事が多い。しかし、あくまで原告本人が自分の手で陳述書を書き上げるよう求めた。その理由について、野村吉太郎弁護士は法廷でこう陳述した。
「(原告たちの)精神的損害を掘り下げる必要があったのですが、従来の損害賠償における損害論、特に精神的損害賠償については深くきめ細かな分析が全くなされておらず、単に『慰謝料』としてまとめて一括りにされており、判決等においてもその中身はブラックボックス化しておりました。個別損害項目積み上げ方式に立脚しながらも精神的損害の中味を追究し、分析・分類する事により精神的損害が一括りにされないよう、そして納得出来るような賠償額に近づけるためには材料・証拠が必要です。その材料・証拠が陳述書なのです」
野村弁護士は、原告たちに陳述書を書いてもらう事は「個々の精神的損害を『発掘』する作業でもあった」と振り返る。そして「決して楽な作業では無かった」とも。「原告一人一人と向き合い、原発事故とは何だったのか、心の損害とは何かという事を突き詰める作業はある意味、弁護士である私と原告らとの魂のぶつかり合いでもありました」。
裁判でものを言うのは依頼者自身の力。それを最大限に引き出すのが弁護士の仕事だと考える。「私がまず陳述書を書いてもらったのは、原告らの『力』を引き出すため、その『力』を頼りに私が裁判で争う武器を手に入れるためでもあった」。時には原告たちが怒るほど厳しい姿勢で向き合った。全ては原告の「力」を引き出し、なぜ精神的損害が原発事故に起因すると言えるのかを立証するためだった。
「被災者である原告自身が陳述書を書かなければ、苦しみや哀しみ、つらさ、悔しさなど本当の精神的損害を表す事が出来ないのです。そうしなければ本当の意味での『依頼者の力』を引き出す事が出来ないと考えたのです」
鬼に徹した5年間。
「原告らがまさに全身全霊を打ち込んで闘い、そして今は和解で終了したいという想いを是非とも裁判所は受け止めて、原告らの期待に応えていただきたい」
野村弁護士の「魂のぶつかり合い」も、間もなく終わる。


最終弁論では、原告と代理人弁護士が意見陳述をした。どちらも苦しかった陳述書の作成について触れた。原告たちは自分自身と向き合い、弁護士は原告たちの力を引き出そうと鬼に徹した。「魂のぶつかり合いだった」と振り返る
【被告の「全否定」に高まった怒り】
このまま判決を迎えても被告東電が控訴すれば高裁での争いが続く。疲弊がピークに達している原告たちは和解の道を選んだ。当初は消極的だった裁判所側も、和解を勧告する意思を固めた。今年5月には原告たちが記者会見をして東電が和解案を受諾するよう訴えた。力は尽くした。後は裁判所の提示する和解案を待つばかりだ。
原告たちは、裁判所が和解案を提示すれば受け入れる方針を決めている。東電も受諾すれば来年2月の判決期日は取り消され、長く苦しい闘いにピリオドが打たれる。
閉廷後、福島市市民会館に集まった原告たちは、「本人尋問では何を話したか覚えていないくらいのプレッシャーを感じた」などと5年間を振り返った。
「仕事で夜勤をし、陳述書で夜勤をした」。陳述書を書き上げるのは並大抵の苦労では無かった。「まさに七転八倒。頭の中が破裂するくらいだった」と表現した原告もいた。「文章を書くのも人前で話すのも苦手」な原告たちにとっては、つらい事だらけだった。それでもやめなかったのは金が欲しいからでは無い。「絶対に起こしてはいけない原発事故を起こした東電」にきちんと償ってほしかったからだ。
しかし、被告東電は裁判を通じ、原告たちの避難や被曝リスクへの不安を全否定した。「これが〝加害者〟の言葉か」。準備書面が出されるたびに、原告たちの怒りは高まった。大好きなふるさとを汚された。いまだに生活空間に汚染土壌の入ったフレコンバッグが保管されている。家庭菜園も山菜採りもあきらめた。それらの想いを被告側は全否定した。「100mSv以下では他の健康リスクに隠れてしまうほど発ガンリスクは小さい」、「国も自治体も家庭菜園を禁じていない」。ある原告はきっぱりと反論した。「逃げようと考えた事を悪いとは思っていない」。
裁判所の和解案を目にする事無く旅立った仲間もいる。「私を誘ってくれたのに…。この場に居ないのが哀しい。一緒にこの日を迎えたかった」。原告の1人は大粒の涙を流して天国の仲間を想った。
果たしてどのような和解案になるのか分からない。自分たちの想いが少しでも和解案に反映され、それを東電が受諾する事を願いながら吉報を待つ。原発事故から100カ月。原告たちは一つの節目を迎えた。
(了)
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