【浪江原発訴訟】「東電は町に情報を一切届けなかった」「健康も老後の生活も全て奪われた」。原告団の紺野副団長が意見陳述~福島地裁で第2回口頭弁論。
- 2019/07/26
- 20:20
福島県双葉郡浪江町の町民が申し立てた集団ADRでの和解案(慰謝料一律増額)を東京電力が6回にわたって拒否し続けた問題で、浪江町民が国や東電を相手取って起こした「浪江原発訴訟」の第2回口頭弁論が18日午後、福島地裁203号法廷(遠藤東路裁判長)で行われた。原告団の紺野則夫副団長(64)=浪江町議=と結城祐弁護士が意見陳述。紺野さんは「東電は町に情報を一切届けなかった」などと静かに怒りをぶつけた。この日までに第3次提訴を済ませており、原告団は174世帯411人に増えた。次回期日は10月31日14時15分。
【届かぬ情報、強いられた被曝】
8年前のあの日。朝から天気が良かった。春の陽射しが浪江町にも降り注いでいた。町内の中学校では卒業式が行われていた。うららかな春。午後、大地が激しく揺れた。そして原発事故。「私たち浪江町民は、国と東京電力からの連絡が無いまま3月12日、津島地区への避難を開始する事になりました」。紺野さんは法廷の真ん中で、静かに意見陳述を始めた。
紺野さんは町役場の職員として津島支所長、津島診療所事務長を務めていた。「町民を津島に避難させるぞ」。当時の馬場有町長(故人)から連絡があった。人口わずか1500人の津島地区が8000人を超える町民を受け入れなければならない。救援物資も届かず、食料などを何とかかき集めた。医師が1人しかいない診療所には、500人ほどの長い列が出来た。薬の調達もままならなかった。身体を休めるのにも難儀し、車中で眠る人も多くいた。しかし津島地区こそ、原発事故による放射性物質の拡散で激しく汚染されていたのだ。避難者受け入れに奔走する紺野さんたちは、その事を全く知らなかった。
「原発事故が起きた日、原発立地町では無い浪江町には東京電力からの連絡はありませんでした。3月15日までの4日間、何の連絡も無かったのです。そのため、多くの町民が4日間もの間、放射線量の高かった津島地区に避難してしまいました。原発内で異変が起きた際にはすみやかに通報連絡するよう東電と浪江町との間で協定が結ばれていたにもかかわらず、履行されなかったのです。これは明らかな協定違反です」
町にはSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)の情報も届かなかった。着の身着のままの町民たちは何も知らされないまま、高線量の津島で被曝を強いられた。一方、津島地区に入って来た警察官や自衛官は防護服を着ていた。
「町民は、無用な高濃度の放射線被ばくという障害にわたる健康被害や不安を与えられる事になったのです。国と東電はその事を知っており、自分たちは防護服を着ながら情報を与えなかったのです。国と東電の対応は浪江町民はもちろんの事、国民を裏切った背信行為そのものです」

閉廷後、報告集会に出席した紺野則夫さん(左)。法廷では放射性物質拡散の情報が浪江町にもたらされず無用の被曝を強いられた事、避難の長期化で自身も含めた町民の健康に大きな悪影響をもたらした事への怒りを陳述した。右は弁護団事務局長の濱野泰嘉弁護士=福島市市民会館
【健康害した長期避難、被曝への不安】
2015年3月の定年退職まで町役場の健康保険課長も務めた紺野さんは、関根俊二医師が中心となってまとめた「健康白書」(2014年12月発行)の作成に携わった。関根医師は、二本松市・安達運動場仮設住宅内に開設された仮設診療所で町民の診療にあたっていた(現在も、二本松市の復興公営住宅「石倉団地」内で診療中)。
「『健康白書』には、避難生活が3年を経過し、慢性疾患の持病を抱えている人は急性憎悪がみられ、高齢者の認知症の発症と進行、介護認定者の増加がみられるようになったとの分析結果が掲載されています。高血圧症や糖尿病などの生活習慣病の悪化や、新たな発症などの傾向もみられるとのことでした。原発事故後の避難生活やストレスを経て、浪江町民の健康は害され続けて来たのです」
自身の体調にも変化が現れた。避難生活が始まって半年ほど経った頃から、血糖値や血圧が上昇するようになった。体重も減った。眠れなくなった。被曝をしてしまったという不安が頭から離れない。医師はストレス性の体調不良だと診断した。長期避難によるストレスは妻も同じだった。血圧を下げる薬を服用するようになっていた。
母親は原発事故の前から独り暮らしだったが、近所の人々との交流で元気に暮らしていた。小学校の教師をしていたこともあり、悩みごとの相談にのる事も多かった。しかし、原発避難で離れ離れになってしまった。仮設住宅でも独りぼっち。元気だった母は体重が減り、歩く事さえままならなくなった。要介護認定を受け、精神状態も不安定になってしまった。そして2018年11月、91歳で旅立った。「衰えていく母を見るのはつらかった。このような形で人生の終わりを迎えた母は、本当に無念だったと思います」。
「原発事故は、今まで築き上げてきたもの全てを消し去ってしまいました」
老後は浪江町の自宅で妻とゆっくりお茶を飲みながら過ごそうと考えていた。未来の生活まで奪われた。「失ったものがあまりにも大きく、心が無になったようです」。一方、放射線による健康被害への不安だけが残った。
「国や東電が、私たち浪江町民の苦しみをしっかりと受け止めた上で原発事故の責任を認め、誠意ある対応をしてくれる事を強く望みます」

2回目の口頭弁論期日だった18日は、参議院選挙の真っ只中。「れいわ新選組」を立ち上げた山本太郎代表の街頭演説の準備が進む横で、紺野さんたちも道行く人々に訴えた。訴訟の存在を知ってもらい、理解をしてもらう事が狙いだ=福島駅東口
【「巨大津波は予見出来た」】
弁護団の結城祐弁護士も意見陳述し、国も東電も敷地高を超えるような巨大津波の襲来を予見出来たと主張した。
「国や東電は、2002年7月31日に公表された『長期評価』に基づいて想定津波の試算を行えば、遅くとも2002年12月31日時点において福島第一原発1ないし4号機付近の敷地高(OP+10メートル)を超える津波が発生する事を予見出来ました」
「『長期評価』は、17世紀以降の約400年で3回発生した大地震がいずれも異なる場所で繰り返し発生している事からすれば、津波マグニチュード8・2とされる明治三陸地震と同規模の地震が三陸沖北部から房総沖の海溝寄りの領域内のどこでも発生し得ると結論付けたのです」
単なる個々の専門家の論文等とは異なり、多数の専門家による検証を踏まえた合理性のある知見、自信本部が当代一流の専門家を集め白熱した議論を交わし、その最大公約数として集約して公表したものであり、十分に信頼性の認められる合理的なものであって「科学的に相応の根拠のある知見」である事は明らか─。その上で、結城弁護士は次のように主張した。
「本件のような大規模な自己が発生し甚大な被害をもたらしたのは、被告らが『長期評価』を意に介さず、何らの対策も講じなかった結果なのです」
巨大津波襲来の予見可能性や過酷事故を回避出来た可能性については、既に全国各地の避難者集団訴訟で地裁が認めている。「福島原発かながわ訴訟」の弁護団事務局長・黒澤知弘弁護士は今年2月、横浜地裁で言い渡された判決を受けて「国の法的責任は、民事訴訟ではこれで5勝1敗。国はもはや責任を免れない。もうこれ以上争うなと主張していきたい」と語っていた。
この点について、弁護団事務局長の濱野泰嘉弁護士は閉廷後の報告集会で、「確かに国の規制権限不行使については、ある程度出尽くしている。ただ、国は毎回毎回同じ主張をしているので、それに対してこちらも反論する必要はある。裁判ごとに主張立証はしっかりやっていかなければいけない」と説明した。
裁判はまだ始まったばかり。傍聴に駆け付けた町民からは「これからどのくらいかかるのか」という質問もあった。濱野弁護士は「来年いっぱいまでは書面のやり取りが続き、専門家証人の尋問や原告本人尋問が続く。原告は100人くらいに尋問する事になるだろう。判決までは2、3年はかかるのではないか」と答えた。
(了)
【届かぬ情報、強いられた被曝】
8年前のあの日。朝から天気が良かった。春の陽射しが浪江町にも降り注いでいた。町内の中学校では卒業式が行われていた。うららかな春。午後、大地が激しく揺れた。そして原発事故。「私たち浪江町民は、国と東京電力からの連絡が無いまま3月12日、津島地区への避難を開始する事になりました」。紺野さんは法廷の真ん中で、静かに意見陳述を始めた。
紺野さんは町役場の職員として津島支所長、津島診療所事務長を務めていた。「町民を津島に避難させるぞ」。当時の馬場有町長(故人)から連絡があった。人口わずか1500人の津島地区が8000人を超える町民を受け入れなければならない。救援物資も届かず、食料などを何とかかき集めた。医師が1人しかいない診療所には、500人ほどの長い列が出来た。薬の調達もままならなかった。身体を休めるのにも難儀し、車中で眠る人も多くいた。しかし津島地区こそ、原発事故による放射性物質の拡散で激しく汚染されていたのだ。避難者受け入れに奔走する紺野さんたちは、その事を全く知らなかった。
「原発事故が起きた日、原発立地町では無い浪江町には東京電力からの連絡はありませんでした。3月15日までの4日間、何の連絡も無かったのです。そのため、多くの町民が4日間もの間、放射線量の高かった津島地区に避難してしまいました。原発内で異変が起きた際にはすみやかに通報連絡するよう東電と浪江町との間で協定が結ばれていたにもかかわらず、履行されなかったのです。これは明らかな協定違反です」
町にはSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)の情報も届かなかった。着の身着のままの町民たちは何も知らされないまま、高線量の津島で被曝を強いられた。一方、津島地区に入って来た警察官や自衛官は防護服を着ていた。
「町民は、無用な高濃度の放射線被ばくという障害にわたる健康被害や不安を与えられる事になったのです。国と東電はその事を知っており、自分たちは防護服を着ながら情報を与えなかったのです。国と東電の対応は浪江町民はもちろんの事、国民を裏切った背信行為そのものです」

閉廷後、報告集会に出席した紺野則夫さん(左)。法廷では放射性物質拡散の情報が浪江町にもたらされず無用の被曝を強いられた事、避難の長期化で自身も含めた町民の健康に大きな悪影響をもたらした事への怒りを陳述した。右は弁護団事務局長の濱野泰嘉弁護士=福島市市民会館
【健康害した長期避難、被曝への不安】
2015年3月の定年退職まで町役場の健康保険課長も務めた紺野さんは、関根俊二医師が中心となってまとめた「健康白書」(2014年12月発行)の作成に携わった。関根医師は、二本松市・安達運動場仮設住宅内に開設された仮設診療所で町民の診療にあたっていた(現在も、二本松市の復興公営住宅「石倉団地」内で診療中)。
「『健康白書』には、避難生活が3年を経過し、慢性疾患の持病を抱えている人は急性憎悪がみられ、高齢者の認知症の発症と進行、介護認定者の増加がみられるようになったとの分析結果が掲載されています。高血圧症や糖尿病などの生活習慣病の悪化や、新たな発症などの傾向もみられるとのことでした。原発事故後の避難生活やストレスを経て、浪江町民の健康は害され続けて来たのです」
自身の体調にも変化が現れた。避難生活が始まって半年ほど経った頃から、血糖値や血圧が上昇するようになった。体重も減った。眠れなくなった。被曝をしてしまったという不安が頭から離れない。医師はストレス性の体調不良だと診断した。長期避難によるストレスは妻も同じだった。血圧を下げる薬を服用するようになっていた。
母親は原発事故の前から独り暮らしだったが、近所の人々との交流で元気に暮らしていた。小学校の教師をしていたこともあり、悩みごとの相談にのる事も多かった。しかし、原発避難で離れ離れになってしまった。仮設住宅でも独りぼっち。元気だった母は体重が減り、歩く事さえままならなくなった。要介護認定を受け、精神状態も不安定になってしまった。そして2018年11月、91歳で旅立った。「衰えていく母を見るのはつらかった。このような形で人生の終わりを迎えた母は、本当に無念だったと思います」。
「原発事故は、今まで築き上げてきたもの全てを消し去ってしまいました」
老後は浪江町の自宅で妻とゆっくりお茶を飲みながら過ごそうと考えていた。未来の生活まで奪われた。「失ったものがあまりにも大きく、心が無になったようです」。一方、放射線による健康被害への不安だけが残った。
「国や東電が、私たち浪江町民の苦しみをしっかりと受け止めた上で原発事故の責任を認め、誠意ある対応をしてくれる事を強く望みます」

2回目の口頭弁論期日だった18日は、参議院選挙の真っ只中。「れいわ新選組」を立ち上げた山本太郎代表の街頭演説の準備が進む横で、紺野さんたちも道行く人々に訴えた。訴訟の存在を知ってもらい、理解をしてもらう事が狙いだ=福島駅東口
【「巨大津波は予見出来た」】
弁護団の結城祐弁護士も意見陳述し、国も東電も敷地高を超えるような巨大津波の襲来を予見出来たと主張した。
「国や東電は、2002年7月31日に公表された『長期評価』に基づいて想定津波の試算を行えば、遅くとも2002年12月31日時点において福島第一原発1ないし4号機付近の敷地高(OP+10メートル)を超える津波が発生する事を予見出来ました」
「『長期評価』は、17世紀以降の約400年で3回発生した大地震がいずれも異なる場所で繰り返し発生している事からすれば、津波マグニチュード8・2とされる明治三陸地震と同規模の地震が三陸沖北部から房総沖の海溝寄りの領域内のどこでも発生し得ると結論付けたのです」
単なる個々の専門家の論文等とは異なり、多数の専門家による検証を踏まえた合理性のある知見、自信本部が当代一流の専門家を集め白熱した議論を交わし、その最大公約数として集約して公表したものであり、十分に信頼性の認められる合理的なものであって「科学的に相応の根拠のある知見」である事は明らか─。その上で、結城弁護士は次のように主張した。
「本件のような大規模な自己が発生し甚大な被害をもたらしたのは、被告らが『長期評価』を意に介さず、何らの対策も講じなかった結果なのです」
巨大津波襲来の予見可能性や過酷事故を回避出来た可能性については、既に全国各地の避難者集団訴訟で地裁が認めている。「福島原発かながわ訴訟」の弁護団事務局長・黒澤知弘弁護士は今年2月、横浜地裁で言い渡された判決を受けて「国の法的責任は、民事訴訟ではこれで5勝1敗。国はもはや責任を免れない。もうこれ以上争うなと主張していきたい」と語っていた。
この点について、弁護団事務局長の濱野泰嘉弁護士は閉廷後の報告集会で、「確かに国の規制権限不行使については、ある程度出尽くしている。ただ、国は毎回毎回同じ主張をしているので、それに対してこちらも反論する必要はある。裁判ごとに主張立証はしっかりやっていかなければいけない」と説明した。
裁判はまだ始まったばかり。傍聴に駆け付けた町民からは「これからどのくらいかかるのか」という質問もあった。濱野弁護士は「来年いっぱいまでは書面のやり取りが続き、専門家証人の尋問や原告本人尋問が続く。原告は100人くらいに尋問する事になるだろう。判決までは2、3年はかかるのではないか」と答えた。
(了)
スポンサーサイト