【浪江原発訴訟】大津波に飲まれた兄。救助を阻んだ放射能。「原発事故無ければ助けられたかも」女性原告が意見陳述。原告数は545人に~福島地裁で第3回口頭弁論
- 2019/12/07
- 00:25
福島県双葉郡浪江町の町民が申し立てた集団ADRでの和解案(慰謝料一律増額)を東京電力が6回にわたって拒否し続けた問題で、浪江町民が国や東電を相手取って起こした「浪江原発訴訟」の第3回口頭弁論が10月31日午後、福島地裁203号法廷(遠藤東路裁判長)で行われた。女性原告が意見陳述し「原発事故が無ければ、津波に飲まれた兄は助かったかもしれない。放射能が憎い」などと訴えた。この日までに第4次提訴を済ませており、原告団は288世帯545人に増えた。次回期日は2020年2月12日14時15分。原発事故から間もなく9年。浪江町民の闘いはまだ続く。

【放射能が阻んだ兄の救助】
「私は浪江町で生まれ育ち、結婚し、そして子どもを育てました。原発事故で、人生の中で大事にしてきたものが奪われ、もう取り戻せなくなってしまいました。原発事故を起こした国と東電を私は許せません」
静まり返った法廷のど真ん中で、大橋茂子さん(70)は少し緊張した様子で意見陳述を始めた。
大橋さんにとって「人生の中で大事にしてきたもの」。その1つに、2歳年上のお兄さんの存在があった。家業の漁業を継いだお兄さんは2011年3月11日、大津波に飲まれてこの世を去った。
実は浪江町では、大地震と大津波と並行して進行していた「もう1つの事故」が津波犠牲者の救出を阻んでいた。それが福島原発事故の爆発と、それに伴う放射性物質の拡散だった。アニメーション映画「無念」にも描かれているように、原発事故さえ無ければ地元消防団による救助活動は中断される事は無かった。助けられたであろう命があったのだ。大橋さんは当時の救助活動に感謝しつつ、次のように怒りを言葉にした。
「救助活動をしていた方々は、強い放射能、暗闇での捜索、がれきの危険な足場、二次被害の恐れのため、中断を余儀なくされました。断腸の想いで『すまない、許してくれ。明日必ず助けに来るから』と神に祈りつつ後にしたという事を、後になって聞きました。助けられたはずの命を助ける事が出来なかった事実があった事を忘れてはなりません。放射能さえ無ければ兄は助かっていたかもしれないのです。放射能が憎い、東京電力が憎いです」
このきょうだいの無念さを想う時、誰が「原発事故で死んだ人はいない」などと言えようか。

法廷で意見陳述した原告の大橋茂子さん。大津波に飲まれて亡くなったお兄さんに関して「助けられたはずの命を助ける事が出来なかった事実があった事を忘れてはなりません。放射能さえ無ければ兄は助かっていたかもしれないのです。放射能が憎い、東京電力が憎いです」と訴えた
【「〝安全神話〟刷り込まれた」】
当時、大橋さん自身も混乱の渦中にいた。
町の防災無線は良く聞き取れず、ようやく避難の必要性を認識した時には、町内の幹線道路である国道114号線は大渋滞になっていた。多くの町民が向かった津島地区には行かれず、大橋さんは南相馬市から飯舘村へ抜けた。しかし、これも津島地区に逃げた人々と同じく、放射線量の高い方向への避難だった。無用な被曝を避けるためにどのように避難したら良いか、届けられなければならない「情報」は全く入って来なかった。
「ガソリンの残りが少なかったが、遠くに逃げなければと思いました。小雪が舞ってきたので、途中でガソリンが無くなれば凍死する覚悟でした。何の情報も与えられなかった私たちは、どんどん放射線量の高い方に逃げる事になってしまいました。夫は狭心症、私は脳梗塞の持病があるので本当に大変でした」
猪苗代町にたどり着いた時、既に5カ所目の避難先になっていた。先が見えない避難生活。転々としながらでは落ち着けるはずも無い。そんな中、初めて一時帰宅が許された。他の町民とバスに分乗して自宅に向かった。途中、防護服やマスク、靴カバーなどが配られた。「自分の家に行くのに情けないやら悲しいやら、怒りがこみあげてきました。人も文化も何もかも奪われました。これはいったい誰の責任なのでしょう」。
子どもの頃から原発の〝安全神話〟を刷り込まれて育った。20代の頃には福島第一原発を見学し、案内人の説明に「妙に納得した」と振り返る。その〝効果〟なのか、原発事故後に防護マスクをした自衛官の姿を目にしても、頭のどこかで「すぐに収まるだろう」と考えていた。それが爆発の映像をテレビで見て「目が覚めた」。大橋さんは、次のような言葉で意見陳述を締めくくった。
「自分がいかに無知で従順だったか。愚かで情けない気持ちになりました。無知と従順は恥ずかしい事です。先祖にも子どもにも申し訳ない事です。私は、国と東電を許せません」
閉廷後、「家で練習をした時にはもっと上手だったんだけど、法廷では今いちでした」と謙遜した大橋さん。幼い頃、一緒に親の手伝いをしたお兄さんがきっと、天国から見守っていたはずだ。

福島地方裁判所に向かう原告団。この日までに228世帯545人が原告になった。年内の期日はこれで終わり。次回期日は2月12日だ
【「建屋水密化で事故防げた」】
この日の弁論では、原告側代理人弁護士が「結果回避可能性」について改めて陳述。「東京電力は、想定津波に対する防護措置として少なくとも『建屋の水密化』を実施する事が求められ、『建屋の水密化』を実施していれば全交流電源喪失に起因する本件原発事故は回避する事が出来た」と主張した。
弁護団の事務局長を務める濱野泰嘉弁護士によると、これまでに第4次提訴まで終えており、原告数は228世帯545人に増えた(第1次提訴109人、第2次提訴115人、第3次提訴187人、第4次提訴134人)。弁護団は訴訟に関心のある町民のために、今月14日午後に浪江町(浪江町役場)と二本松市(浪江町役場二本松事務所)で、15日午前にはいわき市(なみえ交流館)と郡山市(郡山市青少年会館)で訴訟説明会を開く。
年が明け、3月になると2011年の原発事故発生から9年になる。だが、浪江町民の裁判は始まったばかり。国も福島県も〝復興五輪〟で「原発事故から立ち直った福島県の姿」を世界中に発信する事を狙っているが、一律解決を求めて闘っている人々がいる。11月末現在の浪江町の人口は1万7201人だが、復興事業の作業員などを含めても、実際に町内で生活している人は764世帯1174人にとどまる。これが、間もなく避難指示の部分解除(帰還困難区域は依然として避難指示中)から3年になろうとしている町の現実だ。
原発事故は本当に過去の出来事になったのか。被害者は救済されたのか。年の瀬に改めて考えたい。
(了)

【放射能が阻んだ兄の救助】
「私は浪江町で生まれ育ち、結婚し、そして子どもを育てました。原発事故で、人生の中で大事にしてきたものが奪われ、もう取り戻せなくなってしまいました。原発事故を起こした国と東電を私は許せません」
静まり返った法廷のど真ん中で、大橋茂子さん(70)は少し緊張した様子で意見陳述を始めた。
大橋さんにとって「人生の中で大事にしてきたもの」。その1つに、2歳年上のお兄さんの存在があった。家業の漁業を継いだお兄さんは2011年3月11日、大津波に飲まれてこの世を去った。
実は浪江町では、大地震と大津波と並行して進行していた「もう1つの事故」が津波犠牲者の救出を阻んでいた。それが福島原発事故の爆発と、それに伴う放射性物質の拡散だった。アニメーション映画「無念」にも描かれているように、原発事故さえ無ければ地元消防団による救助活動は中断される事は無かった。助けられたであろう命があったのだ。大橋さんは当時の救助活動に感謝しつつ、次のように怒りを言葉にした。
「救助活動をしていた方々は、強い放射能、暗闇での捜索、がれきの危険な足場、二次被害の恐れのため、中断を余儀なくされました。断腸の想いで『すまない、許してくれ。明日必ず助けに来るから』と神に祈りつつ後にしたという事を、後になって聞きました。助けられたはずの命を助ける事が出来なかった事実があった事を忘れてはなりません。放射能さえ無ければ兄は助かっていたかもしれないのです。放射能が憎い、東京電力が憎いです」
このきょうだいの無念さを想う時、誰が「原発事故で死んだ人はいない」などと言えようか。

法廷で意見陳述した原告の大橋茂子さん。大津波に飲まれて亡くなったお兄さんに関して「助けられたはずの命を助ける事が出来なかった事実があった事を忘れてはなりません。放射能さえ無ければ兄は助かっていたかもしれないのです。放射能が憎い、東京電力が憎いです」と訴えた
【「〝安全神話〟刷り込まれた」】
当時、大橋さん自身も混乱の渦中にいた。
町の防災無線は良く聞き取れず、ようやく避難の必要性を認識した時には、町内の幹線道路である国道114号線は大渋滞になっていた。多くの町民が向かった津島地区には行かれず、大橋さんは南相馬市から飯舘村へ抜けた。しかし、これも津島地区に逃げた人々と同じく、放射線量の高い方向への避難だった。無用な被曝を避けるためにどのように避難したら良いか、届けられなければならない「情報」は全く入って来なかった。
「ガソリンの残りが少なかったが、遠くに逃げなければと思いました。小雪が舞ってきたので、途中でガソリンが無くなれば凍死する覚悟でした。何の情報も与えられなかった私たちは、どんどん放射線量の高い方に逃げる事になってしまいました。夫は狭心症、私は脳梗塞の持病があるので本当に大変でした」
猪苗代町にたどり着いた時、既に5カ所目の避難先になっていた。先が見えない避難生活。転々としながらでは落ち着けるはずも無い。そんな中、初めて一時帰宅が許された。他の町民とバスに分乗して自宅に向かった。途中、防護服やマスク、靴カバーなどが配られた。「自分の家に行くのに情けないやら悲しいやら、怒りがこみあげてきました。人も文化も何もかも奪われました。これはいったい誰の責任なのでしょう」。
子どもの頃から原発の〝安全神話〟を刷り込まれて育った。20代の頃には福島第一原発を見学し、案内人の説明に「妙に納得した」と振り返る。その〝効果〟なのか、原発事故後に防護マスクをした自衛官の姿を目にしても、頭のどこかで「すぐに収まるだろう」と考えていた。それが爆発の映像をテレビで見て「目が覚めた」。大橋さんは、次のような言葉で意見陳述を締めくくった。
「自分がいかに無知で従順だったか。愚かで情けない気持ちになりました。無知と従順は恥ずかしい事です。先祖にも子どもにも申し訳ない事です。私は、国と東電を許せません」
閉廷後、「家で練習をした時にはもっと上手だったんだけど、法廷では今いちでした」と謙遜した大橋さん。幼い頃、一緒に親の手伝いをしたお兄さんがきっと、天国から見守っていたはずだ。

福島地方裁判所に向かう原告団。この日までに228世帯545人が原告になった。年内の期日はこれで終わり。次回期日は2月12日だ
【「建屋水密化で事故防げた」】
この日の弁論では、原告側代理人弁護士が「結果回避可能性」について改めて陳述。「東京電力は、想定津波に対する防護措置として少なくとも『建屋の水密化』を実施する事が求められ、『建屋の水密化』を実施していれば全交流電源喪失に起因する本件原発事故は回避する事が出来た」と主張した。
弁護団の事務局長を務める濱野泰嘉弁護士によると、これまでに第4次提訴まで終えており、原告数は228世帯545人に増えた(第1次提訴109人、第2次提訴115人、第3次提訴187人、第4次提訴134人)。弁護団は訴訟に関心のある町民のために、今月14日午後に浪江町(浪江町役場)と二本松市(浪江町役場二本松事務所)で、15日午前にはいわき市(なみえ交流館)と郡山市(郡山市青少年会館)で訴訟説明会を開く。
年が明け、3月になると2011年の原発事故発生から9年になる。だが、浪江町民の裁判は始まったばかり。国も福島県も〝復興五輪〟で「原発事故から立ち直った福島県の姿」を世界中に発信する事を狙っているが、一律解決を求めて闘っている人々がいる。11月末現在の浪江町の人口は1万7201人だが、復興事業の作業員などを含めても、実際に町内で生活している人は764世帯1174人にとどまる。これが、間もなく避難指示の部分解除(帰還困難区域は依然として避難指示中)から3年になろうとしている町の現実だ。
原発事故は本当に過去の出来事になったのか。被害者は救済されたのか。年の瀬に改めて考えたい。
(了)
スポンサーサイト