【台風19号水害】これでも「追い出しでは無い」? 郡山市が全避難所閉鎖を強行! 戸惑う被災者「甘えてばかりもいられない」自分に言い聞かせて退所
- 2019/12/27
- 06:58
福島県郡山市は25日、台風19号に伴う「10・12水害」の避難所を全て閉鎖した。避難所を〝追い出された〟被災者は、戸惑いながらも「いつまでも甘えてもいられない」と自らに言い聞かせている。28日で発災から11週間。工務店は多忙を極めており、自宅の修繕が完了して自宅に戻れるのは来年4月になる人もいる。いわき市は年内で1カ所に集約するものの、閉鎖や追い出しはしていない。それなのになぜ、郡山市はそんなに避難所閉鎖を急ぐのか。大手メディアはこぞって「天皇の本宮市訪問」を伝えるが、その陰で「期限を決めた自立の強要」がある事も忘れてはならない。

【「閉鎖決まり急いで物件探した」】
「行き先が『決まった』んじゃありません。『決めた』んですよ」
郡山市内の全ての避難所が閉鎖された25日昼、「お別れの会」が開かれた芳賀地域公民館で女性は声を潜めるように話した。郡山市職員は「全員、新しい住まいが決まっているから路頭に迷わない」と強調するが、女性は「閉鎖ありきで動かされた」と証言した。
「もう少しここに居たい、せめて正月三が日が明けるまでは避難所に居たいって言う人もいたけど、いつまでも甘えてばかりというわけにもいかないものね…。25日までしか居られないから、みんな不動産屋さんを巡って大急ぎでアパートを探したんですよ。罹災証明がもっと早く交付されていれば、私たちだって早く動けたんですけどね」
女性の自宅は郡山市水門町にあり、1階が水没。「全壊」の判定を受けた。1986年の「8・5水害」後に転居して来たため当初は危機感は高く無かったが、警報や避難指示で携帯電話が何度も鳴るのに背中を押されるように、芳賀地域公民館に車で避難した。避難生活は結局、2カ月を超えた。
工務店に自宅の修繕を依頼したが、実際に作業に取り掛かれるのが早くて1月中旬。内装なども考えると、自宅に戻れるようになるのは「3月下旬から4月にかけてではないか」と言われたという。それまではアパートで生活する。伊達市は避難所に身を寄せている市民に「自宅に戻れるようになるまで避難所に居て良いですよ」と伝えているが、郡山市はそれを許さなかった。自宅の修繕が完了するまで避難所に身を寄せるのは「甘え」なのだろうか。
女性は一方で、公民館を活動拠点にしている団体への配慮も忘れてはいなかった。
「いつまでも私たちの公民館じゃ無いからね。ここを使って活動したい方々がいるわけだから」
公民館によると、30を超える団体が活動場所として使っている。避難所閉鎖後は片付けと清掃をし、1月中旬から通常利用を再開する予定だという。
「私たち被災者が悪いわけじゃ無い?そりゃそうだけど…。そもそも、日頃から備えていなくて災害が起きたら慌てて公民館や学校を避難所として使うからこうなるのよ。でもね、現実にはいつまでも甘えるわけにはいかない。そう考えるしか無いじゃない。閉鎖されちゃうんだから」
女性は自分に言い聞かせるように話した。被災者にそんな事を言わせる行政で良いのだろうか。


地元の婦人会が開いた「お別れ会」。餅などが振る舞われ「まるで同窓会みたい」との声もあがった。しかし、なぜ25日で閉鎖しなければいけないのか。笑顔の裏に複雑な想いを抱いている被災者も少なくない=福島県郡山市・芳賀地域公民館
【いわき市「集約するが閉鎖はしない」】
同じく甚大な被害が続いているいわき市は全く対応が異なる。
26日午前6時現在、「中央台公民館」に10世帯27人、「内郷コミュニティセンター」に38世帯82人、合計48世帯107人が身を寄せている。いわき市保健福祉課の担当者によると、年末をめどに「内郷コミュニティセンター」1カ所に集約する見通しで「これまでの意向確認の結果、その時点での避難者数は50~60人程度になりそうだ」という。集約はするものの、避難所を閉鎖する時期は全く決めていない。期限を決めて、とにかく新しい住まいの確保を急がせるような事はしていない。
「もちろん、行政としては公民館などを通常の利用目的に切り替えていくのは当然です。それに、避難所で新たな年を迎えるよりも、プライバシーがきちんと確保された空間で迎える事が、被災した市民にとっても良いと思います。ですから、無理矢理追い出すという事では無く、被災者も納得した上で退所する。しかも、退所後のアフターフォローも含めてきちんと見守っていく、何か起きた場合には手助けをするという事であれば、一定の期限を決めて避難所を閉鎖するのも行政の1つの考え方としては『有り』だと思います」
いわき市の担当者はそう言って、郡山市の考え方に一定の理解を示した。一方で「あくまで個人的な意見になりますが」と前置きした上で、次のようにも語った。
「私自身が目にした限りですが、避難所から今なお出られない方々にもそれぞれの事情があります。仮に民間アパートが確保出来たとしても、家財道具が調達出来ない場合もあります。泥水で全てを失って、金銭面での不安を抱えている人もいるでしょう。また、特に独り暮らしのお年寄りにとっては、避難所に居る事で話し相手になってくれる人が周囲にいるというメリットもあります。退所したら独りぼっちになってしまうわけで、それに対する不安が大きくなって精神的に落ち着かなくなってしまう人もいます。出来るだけ早く新しい住まいに移って欲しいと考えるのは当然ですが、そういう方々まで結果的に〝追い出す〟ような形になっていないか、気にはなります」


(上)郡山市の公表資料。保健福祉部の担当者は「全員、民間アパートや応急仮設住宅などに入居出来ている。1人も路頭に迷っていない」と話している
(下)芳賀地域公民館からも全員が退所した。1月中旬には、通常の公民館としての機能を再開させる
【郡山市「路頭に迷わせていない」】
郡山市保健福祉部の担当者はこれまで、取材に対し「避難所への配食を委託している業者の都合もあり、25日までに終了しようという事になりました。これまでも避難所での個別相談を続けており、ほとんどの方が25日までに新しい住まいに移れる見通しが立っています。先の見えていない方はひとケタにすぎません。これからもていねいに相談に応じながら、25日までに第二のステップアップをしていただきたいと考えています」と答えていた(12月17日号参照)。
実は郡山市職員の中でも「現実的には、25日で全ての避難所を閉じるというのは無理ではないか。どこか1カ所に集約するという事になるのだろう」との見方が少なくなかった。しかし、いざフタを開けてみたら25日で全員退所。ずいぶん都合よく避難者が動いたものだ。
その点について、保健福祉部の担当者は「『閉鎖』で無く『終了』です。皆さん全員、アパートや震災後に仮設住宅に移られました。特にトラブルもありません。見守りも続けます」と話した。前日の24日にも、ややうんざりした表情で「追い出しではありませんから。皆さん、行き先が見つかっていますから。路頭になんか迷いませんよ」と答えていた。
水門町の自宅が全壊し、芳賀地域公民館に避難していた男性(86)は、25日夜から独りぼっちの生活が始まった。
早い段階で子どもたちがアパートを契約してくれていたが、アパートと行き来しながら夜は避難所で横になっていた。避難所に居れば話し相手もいるし、急な変調にも対応してもらえる。パンやカップ麺だが食事の心配も無い。避難所の入り口には米が並べられていた。「お米ももらって帰らなきゃ。今夜からは自炊しなくちゃいけないからね」。男性は寂しそうに笑った。
「お別れ会」で振る舞われた料理を食べながら、別の男性は「この先まだ長いんだけど、1つのけじめかな。再建に向けてがんばって行かれればなと思います。でも中には、どうしてもがんばれない人はいますよね。お金が無いのかな。財政が悪い悪いって言ってるからね」と苦笑した。また、発災以来、激務が続いている市職員の苦労もおもんぱかった。
80代の男性は取材の最中、こう筆者に尋ねた。
「25日で閉鎖するっていうのは市の方針なの?」
これが「追い出しでは無く、ていねいな終了」の実態だった。
(了)

【「閉鎖決まり急いで物件探した」】
「行き先が『決まった』んじゃありません。『決めた』んですよ」
郡山市内の全ての避難所が閉鎖された25日昼、「お別れの会」が開かれた芳賀地域公民館で女性は声を潜めるように話した。郡山市職員は「全員、新しい住まいが決まっているから路頭に迷わない」と強調するが、女性は「閉鎖ありきで動かされた」と証言した。
「もう少しここに居たい、せめて正月三が日が明けるまでは避難所に居たいって言う人もいたけど、いつまでも甘えてばかりというわけにもいかないものね…。25日までしか居られないから、みんな不動産屋さんを巡って大急ぎでアパートを探したんですよ。罹災証明がもっと早く交付されていれば、私たちだって早く動けたんですけどね」
女性の自宅は郡山市水門町にあり、1階が水没。「全壊」の判定を受けた。1986年の「8・5水害」後に転居して来たため当初は危機感は高く無かったが、警報や避難指示で携帯電話が何度も鳴るのに背中を押されるように、芳賀地域公民館に車で避難した。避難生活は結局、2カ月を超えた。
工務店に自宅の修繕を依頼したが、実際に作業に取り掛かれるのが早くて1月中旬。内装なども考えると、自宅に戻れるようになるのは「3月下旬から4月にかけてではないか」と言われたという。それまではアパートで生活する。伊達市は避難所に身を寄せている市民に「自宅に戻れるようになるまで避難所に居て良いですよ」と伝えているが、郡山市はそれを許さなかった。自宅の修繕が完了するまで避難所に身を寄せるのは「甘え」なのだろうか。
女性は一方で、公民館を活動拠点にしている団体への配慮も忘れてはいなかった。
「いつまでも私たちの公民館じゃ無いからね。ここを使って活動したい方々がいるわけだから」
公民館によると、30を超える団体が活動場所として使っている。避難所閉鎖後は片付けと清掃をし、1月中旬から通常利用を再開する予定だという。
「私たち被災者が悪いわけじゃ無い?そりゃそうだけど…。そもそも、日頃から備えていなくて災害が起きたら慌てて公民館や学校を避難所として使うからこうなるのよ。でもね、現実にはいつまでも甘えるわけにはいかない。そう考えるしか無いじゃない。閉鎖されちゃうんだから」
女性は自分に言い聞かせるように話した。被災者にそんな事を言わせる行政で良いのだろうか。


地元の婦人会が開いた「お別れ会」。餅などが振る舞われ「まるで同窓会みたい」との声もあがった。しかし、なぜ25日で閉鎖しなければいけないのか。笑顔の裏に複雑な想いを抱いている被災者も少なくない=福島県郡山市・芳賀地域公民館
【いわき市「集約するが閉鎖はしない」】
同じく甚大な被害が続いているいわき市は全く対応が異なる。
26日午前6時現在、「中央台公民館」に10世帯27人、「内郷コミュニティセンター」に38世帯82人、合計48世帯107人が身を寄せている。いわき市保健福祉課の担当者によると、年末をめどに「内郷コミュニティセンター」1カ所に集約する見通しで「これまでの意向確認の結果、その時点での避難者数は50~60人程度になりそうだ」という。集約はするものの、避難所を閉鎖する時期は全く決めていない。期限を決めて、とにかく新しい住まいの確保を急がせるような事はしていない。
「もちろん、行政としては公民館などを通常の利用目的に切り替えていくのは当然です。それに、避難所で新たな年を迎えるよりも、プライバシーがきちんと確保された空間で迎える事が、被災した市民にとっても良いと思います。ですから、無理矢理追い出すという事では無く、被災者も納得した上で退所する。しかも、退所後のアフターフォローも含めてきちんと見守っていく、何か起きた場合には手助けをするという事であれば、一定の期限を決めて避難所を閉鎖するのも行政の1つの考え方としては『有り』だと思います」
いわき市の担当者はそう言って、郡山市の考え方に一定の理解を示した。一方で「あくまで個人的な意見になりますが」と前置きした上で、次のようにも語った。
「私自身が目にした限りですが、避難所から今なお出られない方々にもそれぞれの事情があります。仮に民間アパートが確保出来たとしても、家財道具が調達出来ない場合もあります。泥水で全てを失って、金銭面での不安を抱えている人もいるでしょう。また、特に独り暮らしのお年寄りにとっては、避難所に居る事で話し相手になってくれる人が周囲にいるというメリットもあります。退所したら独りぼっちになってしまうわけで、それに対する不安が大きくなって精神的に落ち着かなくなってしまう人もいます。出来るだけ早く新しい住まいに移って欲しいと考えるのは当然ですが、そういう方々まで結果的に〝追い出す〟ような形になっていないか、気にはなります」


(上)郡山市の公表資料。保健福祉部の担当者は「全員、民間アパートや応急仮設住宅などに入居出来ている。1人も路頭に迷っていない」と話している
(下)芳賀地域公民館からも全員が退所した。1月中旬には、通常の公民館としての機能を再開させる
【郡山市「路頭に迷わせていない」】
郡山市保健福祉部の担当者はこれまで、取材に対し「避難所への配食を委託している業者の都合もあり、25日までに終了しようという事になりました。これまでも避難所での個別相談を続けており、ほとんどの方が25日までに新しい住まいに移れる見通しが立っています。先の見えていない方はひとケタにすぎません。これからもていねいに相談に応じながら、25日までに第二のステップアップをしていただきたいと考えています」と答えていた(12月17日号参照)。
実は郡山市職員の中でも「現実的には、25日で全ての避難所を閉じるというのは無理ではないか。どこか1カ所に集約するという事になるのだろう」との見方が少なくなかった。しかし、いざフタを開けてみたら25日で全員退所。ずいぶん都合よく避難者が動いたものだ。
その点について、保健福祉部の担当者は「『閉鎖』で無く『終了』です。皆さん全員、アパートや震災後に仮設住宅に移られました。特にトラブルもありません。見守りも続けます」と話した。前日の24日にも、ややうんざりした表情で「追い出しではありませんから。皆さん、行き先が見つかっていますから。路頭になんか迷いませんよ」と答えていた。
水門町の自宅が全壊し、芳賀地域公民館に避難していた男性(86)は、25日夜から独りぼっちの生活が始まった。
早い段階で子どもたちがアパートを契約してくれていたが、アパートと行き来しながら夜は避難所で横になっていた。避難所に居れば話し相手もいるし、急な変調にも対応してもらえる。パンやカップ麺だが食事の心配も無い。避難所の入り口には米が並べられていた。「お米ももらって帰らなきゃ。今夜からは自炊しなくちゃいけないからね」。男性は寂しそうに笑った。
「お別れ会」で振る舞われた料理を食べながら、別の男性は「この先まだ長いんだけど、1つのけじめかな。再建に向けてがんばって行かれればなと思います。でも中には、どうしてもがんばれない人はいますよね。お金が無いのかな。財政が悪い悪いって言ってるからね」と苦笑した。また、発災以来、激務が続いている市職員の苦労もおもんぱかった。
80代の男性は取材の最中、こう筆者に尋ねた。
「25日で閉鎖するっていうのは市の方針なの?」
これが「追い出しでは無く、ていねいな終了」の実態だった。
(了)
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