【108カ月目の浪江町はいま】さよなら浪江小学校。最後の卒業生が巣立ち二本松で休校式。〝復興五輪〟の陰で消える学校
- 2020/03/24
- 07:09
原発事故に伴う全町避難で児童数が大幅に減っていた福島県双葉郡浪江町の町立浪江小学校で23日午後、最後の卒業生が巣立った。震災・原発事故発生時には558人いた在校生がゼロになり、移転先の二本松市で147年の長い歴史に幕を閉じた。震災前から過疎化の流れはあったものの、教諭たちは「原発事故さえ無ければ…」と悔しそうな表情で休校式に臨んだ。来春には、やはり町立津島小学校で最後の卒業式が行われる予定。〝復興五輪〟の陰で、町民離散を強いた原発事故が2年続けて町の学校を奪うことになる。

【「このような形で…無念」】
浪江小学校は1873年(明治6年)6月1日に開校。2011年3月の震災・原発事故に伴って休校し、同年8月25日には旧二本松市立下川崎小学校の校舎を使って28人で再開。2014年4月からは、町立津島小学校(児童3人)との合同授業が始まった。
一方で、2017年3月末の避難指示部分解除に伴う帰還政策を受けて、2018年4月には町内で「なみえ創成小学校・中学校」が開校。二本松市での授業を続けている浪江小と津島小への新入生がいない事もあり、在校生の卒業をもって休校する事が決まった。2年前の卒業式では、当時の津島小校長が「3年後に在校生がゼロになった時点で津島小も役目を終えます。原発事故さえ無ければこんなことにはならなかった」と語っていた。
卒業式に引き続いて行われた休校式で、木村裕之校長が笠井淳一教育長に校旗を返納。
最後の卒業生となった女子児童が「長い歴史の中で、浪江小学校はいくつもの試練を乗り越えてきました。一度目は戦争。二度目は昭和41年(1966年)の火事です。机も椅子も校舎と一緒に燃えてしまいました。それも乗り越えて校舎の改築工事も終わり、校庭に芝生を張り始めた頃、三度目の試練、東日本大震災が起こりました。避難先の学校になじめず、二本松で再開した浪江小で笑顔を取り戻した先輩もいました。歴史が途絶えてしまうのは悲しいけれど、未来に向かって笑顔で進んで行きます」と述べた。
笠井教育長は「浪江小学校は双葉地区の基幹校だった。最後の卒業生を含め、これまでに1万895人の卒業生を送り出した。しかし、原発事故で全町避難を余儀なくされ、ここ二本松市で28人の児童とともに学校を再開した。震災が無ければ558人の児童が一緒に学んでいた。歴史と伝統のある浪江小学校が、このような形で休校するのは本当に無念」と悔しさを口にした。





①新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、来賓は吉田町長など3人のみ。簡素な形で卒業式と休校式が行われた
②永久保存されている「卒業証書授与台帳」。新たな名前が記される事はもう無い
③校舎の廊下にも掲示されている校歌。「丈六山」や「高瀬川」が歌詞に出てくる
④⑤2018年5月の運動会は5人。周囲の大人たちが盛り上げた=福島県二本松市下川崎
【「原発事故さえ無ければ」】
最後の卒業生を送り出した木村校長は、日ごろは金庫に大切に保管している「卒業証書授与台帳」を傍らに置きながら、女子児童に壇上から語りかけた。
「浪江小学校の卒業生全員の名前を記してきたものです。あなたの後に名前が書かれる事は、もうありません。いつかきっと実感し、かみしめる時が来るでしょう」
なぜ500人を超す児童が在籍していた小学校が休校しなければならないのか。なぜ在校生がわずか1人になってしまったのか。それは原発事故が起き、放射性物質が降り注ぎ、町民全員が避難を強いられ、バラバラにさせられてしまったからに他ならない。
教諭の1人は「もちろん、過疎化の流れは町にもありました。原発事故が起こらなくても児童数は減っていたと思います。でも浪江小は大きい学校でしたから、原発事故が無ければ、こんなに早く休校する事にはならなかったと思います」と悔しさをにじませた。
伝統ある学校の休校。本来であれば多くの卒業生などが集まって盛大に休校式を行う予定だった。しかし、新型コロナウイルスの感染拡大を防止する観点から規模を大幅に縮小。来賓は吉田数博町長や町議会の佐々木恵寿議長、そして笠井教育長の3人のみ。やや寂しい卒業式・休校式になってしまった。





①最後の卒業生となった女子児童。4月からは中通りの公立中学校に通う
②卒業式の会場には、女子児童が描いた絵も飾られた
③式が終わり、改めて卒業証書を手渡す担任教諭。女子児童自身が作った和紙が使われた
④津島小学校最後の在校生となる須藤嘉人君。「バレーボールなどたくさんの思い出が出来ました」と送り出した
⑤来春には今度は津島小学校が休校となる。原発事故は学校までも奪う
【津島小も来春で閉校】
3年前、筆者が運動会を取材した時の在校生は、今年の卒業生を含む5人。「なみえっ子ファイブ」と命名し、ダンスなどに取り組んでいた。子どもが少ないため、町民でつくる〝浪江小学校を応援する会〟も参加。一緒に走り回って運動会を盛り上げた。
2018年3月に2人が卒業。翌年から毎年1人ずつが巣立って行った。そして4月からは浪江小学校の児童はいなくなり、津島小学校の新6年生、須藤嘉人君が唯一の在校生となる。教諭の人数も減る予定だ。
須藤君は、卒業式で「お昼休みにみんなでやったバレーボールなどたくさんの思い出が出来ました。僕は人前で発表するのが苦手ですが、一緒に練習してくれたから頑張れました。中学校に行っても笑顔で頑張ってください」との言葉を送った。
来年の卒業式では、今度は須藤君が「津島小学校最後の卒業生」として送り出される。幼くして大地震を経験し、原発事故による避難。慣れない中通りでの生活は10年になろうとしている。原発事故が何気ない日常を奪い、住まいを奪い、そして母校も奪う。「後は任せたよ」と女子児童に声をかけられると、少し照れたように「うん」と笑った。
なお、取材に当たっては卒業生の保護者から「氏名や顔写真の掲載を遠慮して欲しい」との申し出があった。式後に写真を確認してもらい、了承を得たもののみ掲載した。
(了)

【「このような形で…無念」】
浪江小学校は1873年(明治6年)6月1日に開校。2011年3月の震災・原発事故に伴って休校し、同年8月25日には旧二本松市立下川崎小学校の校舎を使って28人で再開。2014年4月からは、町立津島小学校(児童3人)との合同授業が始まった。
一方で、2017年3月末の避難指示部分解除に伴う帰還政策を受けて、2018年4月には町内で「なみえ創成小学校・中学校」が開校。二本松市での授業を続けている浪江小と津島小への新入生がいない事もあり、在校生の卒業をもって休校する事が決まった。2年前の卒業式では、当時の津島小校長が「3年後に在校生がゼロになった時点で津島小も役目を終えます。原発事故さえ無ければこんなことにはならなかった」と語っていた。
卒業式に引き続いて行われた休校式で、木村裕之校長が笠井淳一教育長に校旗を返納。
最後の卒業生となった女子児童が「長い歴史の中で、浪江小学校はいくつもの試練を乗り越えてきました。一度目は戦争。二度目は昭和41年(1966年)の火事です。机も椅子も校舎と一緒に燃えてしまいました。それも乗り越えて校舎の改築工事も終わり、校庭に芝生を張り始めた頃、三度目の試練、東日本大震災が起こりました。避難先の学校になじめず、二本松で再開した浪江小で笑顔を取り戻した先輩もいました。歴史が途絶えてしまうのは悲しいけれど、未来に向かって笑顔で進んで行きます」と述べた。
笠井教育長は「浪江小学校は双葉地区の基幹校だった。最後の卒業生を含め、これまでに1万895人の卒業生を送り出した。しかし、原発事故で全町避難を余儀なくされ、ここ二本松市で28人の児童とともに学校を再開した。震災が無ければ558人の児童が一緒に学んでいた。歴史と伝統のある浪江小学校が、このような形で休校するのは本当に無念」と悔しさを口にした。





①新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、来賓は吉田町長など3人のみ。簡素な形で卒業式と休校式が行われた
②永久保存されている「卒業証書授与台帳」。新たな名前が記される事はもう無い
③校舎の廊下にも掲示されている校歌。「丈六山」や「高瀬川」が歌詞に出てくる
④⑤2018年5月の運動会は5人。周囲の大人たちが盛り上げた=福島県二本松市下川崎
【「原発事故さえ無ければ」】
最後の卒業生を送り出した木村校長は、日ごろは金庫に大切に保管している「卒業証書授与台帳」を傍らに置きながら、女子児童に壇上から語りかけた。
「浪江小学校の卒業生全員の名前を記してきたものです。あなたの後に名前が書かれる事は、もうありません。いつかきっと実感し、かみしめる時が来るでしょう」
なぜ500人を超す児童が在籍していた小学校が休校しなければならないのか。なぜ在校生がわずか1人になってしまったのか。それは原発事故が起き、放射性物質が降り注ぎ、町民全員が避難を強いられ、バラバラにさせられてしまったからに他ならない。
教諭の1人は「もちろん、過疎化の流れは町にもありました。原発事故が起こらなくても児童数は減っていたと思います。でも浪江小は大きい学校でしたから、原発事故が無ければ、こんなに早く休校する事にはならなかったと思います」と悔しさをにじませた。
伝統ある学校の休校。本来であれば多くの卒業生などが集まって盛大に休校式を行う予定だった。しかし、新型コロナウイルスの感染拡大を防止する観点から規模を大幅に縮小。来賓は吉田数博町長や町議会の佐々木恵寿議長、そして笠井教育長の3人のみ。やや寂しい卒業式・休校式になってしまった。





①最後の卒業生となった女子児童。4月からは中通りの公立中学校に通う
②卒業式の会場には、女子児童が描いた絵も飾られた
③式が終わり、改めて卒業証書を手渡す担任教諭。女子児童自身が作った和紙が使われた
④津島小学校最後の在校生となる須藤嘉人君。「バレーボールなどたくさんの思い出が出来ました」と送り出した
⑤来春には今度は津島小学校が休校となる。原発事故は学校までも奪う
【津島小も来春で閉校】
3年前、筆者が運動会を取材した時の在校生は、今年の卒業生を含む5人。「なみえっ子ファイブ」と命名し、ダンスなどに取り組んでいた。子どもが少ないため、町民でつくる〝浪江小学校を応援する会〟も参加。一緒に走り回って運動会を盛り上げた。
2018年3月に2人が卒業。翌年から毎年1人ずつが巣立って行った。そして4月からは浪江小学校の児童はいなくなり、津島小学校の新6年生、須藤嘉人君が唯一の在校生となる。教諭の人数も減る予定だ。
須藤君は、卒業式で「お昼休みにみんなでやったバレーボールなどたくさんの思い出が出来ました。僕は人前で発表するのが苦手ですが、一緒に練習してくれたから頑張れました。中学校に行っても笑顔で頑張ってください」との言葉を送った。
来年の卒業式では、今度は須藤君が「津島小学校最後の卒業生」として送り出される。幼くして大地震を経験し、原発事故による避難。慣れない中通りでの生活は10年になろうとしている。原発事故が何気ない日常を奪い、住まいを奪い、そして母校も奪う。「後は任せたよ」と女子児童に声をかけられると、少し照れたように「うん」と笑った。
なお、取材に当たっては卒業生の保護者から「氏名や顔写真の掲載を遠慮して欲しい」との申し出があった。式後に写真を確認してもらい、了承を得たもののみ掲載した。
(了)
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