【66カ月目の福島はいま】揺るがない父親の決意。「子どもたちを守るために戻らない」~福島市から米沢市へ。5年半の〝自主避難〟を語る
- 2016/09/14
- 06:06
福島県福島市で酒販店を営む湯野川政弘さん(62)=ハート・ウエッジ福島代表=は2011年5月、妻と3人の子どもと共に山形県米沢市に〝自主避難〟。今も米沢市から福島市の店舗に〝逆通勤〟しながら家族を守っている。10μSv/hを超した自宅の側溝。早々と校庭での授業再開を決めた小学校。被曝のリスクからわが子を遠ざけようと「二重生活」を決めてから5年半が経とうとしている。なぜ福島に戻らないのか。父親としての揺るがぬ想いを語ってもらった。
【「放射能さえ無かったら…」】
山形県米沢市。パジャマ姿の末娘は、車のエンジンをかける父親を泣きながら追いかけてきた。小学生になったばかり。裸足だった。
「お父さん、何で一人で福島に行っちゃうの?」、「私を置いて行かないで」
生きていくために、家族を養うためには店の経営を続けなければならない。しかし、被曝リスクのある福島市に子どもたちを戻すわけにもいかない。娘を振り切るようにアクセルを踏み込んだ。娘には、愛する父親が鬼に見えたに違いない。だが、父だってつらかった。「原発事故さえ無かったら、放射能さえ無かったら、自然いっぱいの立子山でのんびりとした生活が出来たのに…」。原発事故が起きなければ、避難も二重生活も必要なかったのだ。
福島市には政府の避難指示が出されなかった。中通りの自治体は住民の強制避難に消極的だった。しかし、2011年3月15日19時には23.88μSv/hを計測。「通常の478倍」と報じられたが、原発事故前の実測値が0.03~0.04μSv/hだから、単純計算で500から700倍ものレベルだった。それでも国は「ただちに影響ない」と繰り返すばかり。子どもたちの通う小学校では、4月から新学期の授業が始まった。自宅から徒歩で30分。長袖長ズボン、帽子にマスク姿での登下校だった。
一方で、車でわずか30分足らずしか離れていない飯舘村や川俣町山木屋地区には国の避難指示が出された。「立子山は大丈夫なのか?」と心配になった。小佐古敏荘東大教授が、福島県内の学校での屋外活動を制限する基準値が年20mSvに引き上げられた事に抗議して、内閣官房参与を辞任したとテレビが報じた。小佐古氏は涙ながらに会見していた。これで湯野川さんの腹は固まった。小学校では、原発事故からわずか2カ月で校庭での体育の授業が再開されることが決まっていた。「子どもたちを被曝させるわけにはいかない」。それまでも青森県や東京都に一時避難はしていたものの短期間だった。知人を通して山形県が避難者受け入れに積極的だと知り、米沢市への一家避難を決心した。
「徒歩での登下校で子どもたちに無用な被曝をさせてしまったのではないかと、今も悔やんでいます」
2011年5月下旬、米沢市に移り住んだ。〝自主避難〟の始まりだった。

妻と子どもを山形県米沢市に避難させ、福島県福島市の自宅兼店舗に〝通勤〟し続ける湯野川さん。放射性物質さえ撒き散らされなければ、自然豊かな立子山での暮らしを継続できていたのだ
【「子どもたちを戻せる環境に無い」】
通勤時間0分から90分へ。福島市に残した自宅兼店舗への〝逆通勤〟は間もなく5年半になる。当初は6時半に米沢市を出て8時に店を開けていたが、現在は9時から19時まで営業している。
「長く続いている店ですし、米沢で仕事を探しても現在と同じような収入を維持できるかは分かりません。年齢も年齢ですしね。それに、福島の自宅には母親が残って生活をしているんです。毎日の長距離の通勤は大変だけど、同じように山形から福島に通勤している人も多くいますから」
80歳を過ぎた母親は、生まれ育った立子山を離れたくない、と避難を拒んだ。「孫と一緒に暮らしたいな」。時折、漏らす本音に胸が痛むが、家族6人での平和な暮らしを壊したのは、やはり放射能。被曝への不安がある以上、子どもたちを戻す事は出来ない。だから定休日を設けずに米沢から通い、母親のケアも続ける。
「後悔するくらいなら、親として出来る限りの事を子どもにしてあげたいんです」
2011年6月、福島市職員の測定では、自宅周辺の空間線量(高さ1メートル)は1.46~2.05μSv/hに達した。同年8月には、自身の測定で側溝は10μSv/hを超えた。福島県の職員は「除染が進み、もはや避難の必要はなくなった」と胸を張る。確かに宅地除染は行われた。しかし、それ以外の生活空間は手つかず。道路除染も部分的にしか済んでいない。立子山のタケノコは昨春、福島市の非破壊検査で67Bq/kgの放射性セシウムが検出された。今年も持ち込んだら25Bq/kg。国の基準値100Bq/kg以下だが「私は良いが、子どもには食べさせられない」と首を振る。
「それぞれの考え方、判断だから、他の人に『なぜ避難しないの?』などとは言いません。でも、私は子どもたちを戻せる環境だとは思えないんです」

自宅近くの水田で、手元の線量計は0.20μSv/hだった。湯野川さんは「少しでも被曝リスクへの不安がある限り、子どもたちを福島には戻せない」と語る
【重くのしかかる来春からの家賃負担】
「3.11」から2000日が経った。幼かった子どもたちは、高校2年生、中学3年生、小学6年生になった。
一昨年秋の甲状腺超音波検査(県民健康調査)で、高校生の娘が「B判定」との診断を受けた。福島県立医大で精密検査を受け、「細胞診の必要は無い」との所見は得た。しかし、初期被曝が影響しているのか、不安は募った。今年8月の検査でのう胞はほとんど見つからず「少し安心した」(湯野川さん)。それでも、定期的な経過観察は付いて回る。いつまた、健康への懸念が生じるか分からない。
そして、住宅問題。湯野川さんも政府の避難指示の無い〝自主避難者〟。現在は家賃負担は無いが、来年4月からは自己負担になる。当然、無償提供の継続を望んでいるものの、福島県の打ち切り方針は変わらない。収入要件が15万8000円から21万4000円に緩和されたことで家賃補助(2年間で最大60万円)は受けられそうな見通し。それでも、福島市の自宅兼店舗を維持しながら米沢市での生活も送るとなると、負担は重くのしかかる。公営住宅も、思春期の子どもたちに部屋を与えられるような間取りは無い。結局、戸建てを借りていくしかない。
「自立自立と言いますけど、私は自立していますよ。以前からずっと。働いて家族を養い、子どもを学校に通わせている。被曝リスクが心配だから避難した。子どもが多いから部屋数はどうしてもたくさん必要になる。それはぜいたくなのでしょうか」
避難先の米沢市では、避難者同士の親睦団体「ハート・ウエッジ福島」を設立した。住宅の無償提供打ち切りを機に、経済的な理由からやむなく避難をやめて福島に戻る母子が米沢市にもいる。「福島県はなぜ、無償提供分を東電に請求しないのか。避難者が東電に家賃負担分を請求出来る道筋だけでも作ってくれたら良いのに」と湯野川さんは語る。打ち切りを決めた福島県の内堀雅雄知事は、一度も当事者との面会に応じていない。「無償提供延長が駄目なら駄目でも良いから、きちんと避難者の前に出て来てひとこと言うべきです。復興推進の人には喜んで会うのだから、時間くらい作れるでしょう」。
湯野川さんは言う。
「私たちは何か悪いことをしましたか? 原発事故以前のような幸せな暮らしを望むのはわがままな事ですか? 安心できる不自由の無い避難生活を望んではいけないのですか?」
安倍晋三首相は、何と答えるだろうか。
(了)
【「放射能さえ無かったら…」】
山形県米沢市。パジャマ姿の末娘は、車のエンジンをかける父親を泣きながら追いかけてきた。小学生になったばかり。裸足だった。
「お父さん、何で一人で福島に行っちゃうの?」、「私を置いて行かないで」
生きていくために、家族を養うためには店の経営を続けなければならない。しかし、被曝リスクのある福島市に子どもたちを戻すわけにもいかない。娘を振り切るようにアクセルを踏み込んだ。娘には、愛する父親が鬼に見えたに違いない。だが、父だってつらかった。「原発事故さえ無かったら、放射能さえ無かったら、自然いっぱいの立子山でのんびりとした生活が出来たのに…」。原発事故が起きなければ、避難も二重生活も必要なかったのだ。
福島市には政府の避難指示が出されなかった。中通りの自治体は住民の強制避難に消極的だった。しかし、2011年3月15日19時には23.88μSv/hを計測。「通常の478倍」と報じられたが、原発事故前の実測値が0.03~0.04μSv/hだから、単純計算で500から700倍ものレベルだった。それでも国は「ただちに影響ない」と繰り返すばかり。子どもたちの通う小学校では、4月から新学期の授業が始まった。自宅から徒歩で30分。長袖長ズボン、帽子にマスク姿での登下校だった。
一方で、車でわずか30分足らずしか離れていない飯舘村や川俣町山木屋地区には国の避難指示が出された。「立子山は大丈夫なのか?」と心配になった。小佐古敏荘東大教授が、福島県内の学校での屋外活動を制限する基準値が年20mSvに引き上げられた事に抗議して、内閣官房参与を辞任したとテレビが報じた。小佐古氏は涙ながらに会見していた。これで湯野川さんの腹は固まった。小学校では、原発事故からわずか2カ月で校庭での体育の授業が再開されることが決まっていた。「子どもたちを被曝させるわけにはいかない」。それまでも青森県や東京都に一時避難はしていたものの短期間だった。知人を通して山形県が避難者受け入れに積極的だと知り、米沢市への一家避難を決心した。
「徒歩での登下校で子どもたちに無用な被曝をさせてしまったのではないかと、今も悔やんでいます」
2011年5月下旬、米沢市に移り住んだ。〝自主避難〟の始まりだった。

妻と子どもを山形県米沢市に避難させ、福島県福島市の自宅兼店舗に〝通勤〟し続ける湯野川さん。放射性物質さえ撒き散らされなければ、自然豊かな立子山での暮らしを継続できていたのだ
【「子どもたちを戻せる環境に無い」】
通勤時間0分から90分へ。福島市に残した自宅兼店舗への〝逆通勤〟は間もなく5年半になる。当初は6時半に米沢市を出て8時に店を開けていたが、現在は9時から19時まで営業している。
「長く続いている店ですし、米沢で仕事を探しても現在と同じような収入を維持できるかは分かりません。年齢も年齢ですしね。それに、福島の自宅には母親が残って生活をしているんです。毎日の長距離の通勤は大変だけど、同じように山形から福島に通勤している人も多くいますから」
80歳を過ぎた母親は、生まれ育った立子山を離れたくない、と避難を拒んだ。「孫と一緒に暮らしたいな」。時折、漏らす本音に胸が痛むが、家族6人での平和な暮らしを壊したのは、やはり放射能。被曝への不安がある以上、子どもたちを戻す事は出来ない。だから定休日を設けずに米沢から通い、母親のケアも続ける。
「後悔するくらいなら、親として出来る限りの事を子どもにしてあげたいんです」
2011年6月、福島市職員の測定では、自宅周辺の空間線量(高さ1メートル)は1.46~2.05μSv/hに達した。同年8月には、自身の測定で側溝は10μSv/hを超えた。福島県の職員は「除染が進み、もはや避難の必要はなくなった」と胸を張る。確かに宅地除染は行われた。しかし、それ以外の生活空間は手つかず。道路除染も部分的にしか済んでいない。立子山のタケノコは昨春、福島市の非破壊検査で67Bq/kgの放射性セシウムが検出された。今年も持ち込んだら25Bq/kg。国の基準値100Bq/kg以下だが「私は良いが、子どもには食べさせられない」と首を振る。
「それぞれの考え方、判断だから、他の人に『なぜ避難しないの?』などとは言いません。でも、私は子どもたちを戻せる環境だとは思えないんです」

自宅近くの水田で、手元の線量計は0.20μSv/hだった。湯野川さんは「少しでも被曝リスクへの不安がある限り、子どもたちを福島には戻せない」と語る
【重くのしかかる来春からの家賃負担】
「3.11」から2000日が経った。幼かった子どもたちは、高校2年生、中学3年生、小学6年生になった。
一昨年秋の甲状腺超音波検査(県民健康調査)で、高校生の娘が「B判定」との診断を受けた。福島県立医大で精密検査を受け、「細胞診の必要は無い」との所見は得た。しかし、初期被曝が影響しているのか、不安は募った。今年8月の検査でのう胞はほとんど見つからず「少し安心した」(湯野川さん)。それでも、定期的な経過観察は付いて回る。いつまた、健康への懸念が生じるか分からない。
そして、住宅問題。湯野川さんも政府の避難指示の無い〝自主避難者〟。現在は家賃負担は無いが、来年4月からは自己負担になる。当然、無償提供の継続を望んでいるものの、福島県の打ち切り方針は変わらない。収入要件が15万8000円から21万4000円に緩和されたことで家賃補助(2年間で最大60万円)は受けられそうな見通し。それでも、福島市の自宅兼店舗を維持しながら米沢市での生活も送るとなると、負担は重くのしかかる。公営住宅も、思春期の子どもたちに部屋を与えられるような間取りは無い。結局、戸建てを借りていくしかない。
「自立自立と言いますけど、私は自立していますよ。以前からずっと。働いて家族を養い、子どもを学校に通わせている。被曝リスクが心配だから避難した。子どもが多いから部屋数はどうしてもたくさん必要になる。それはぜいたくなのでしょうか」
避難先の米沢市では、避難者同士の親睦団体「ハート・ウエッジ福島」を設立した。住宅の無償提供打ち切りを機に、経済的な理由からやむなく避難をやめて福島に戻る母子が米沢市にもいる。「福島県はなぜ、無償提供分を東電に請求しないのか。避難者が東電に家賃負担分を請求出来る道筋だけでも作ってくれたら良いのに」と湯野川さんは語る。打ち切りを決めた福島県の内堀雅雄知事は、一度も当事者との面会に応じていない。「無償提供延長が駄目なら駄目でも良いから、きちんと避難者の前に出て来てひとこと言うべきです。復興推進の人には喜んで会うのだから、時間くらい作れるでしょう」。
湯野川さんは言う。
「私たちは何か悪いことをしましたか? 原発事故以前のような幸せな暮らしを望むのはわがままな事ですか? 安心できる不自由の無い避難生活を望んではいけないのですか?」
安倍晋三首相は、何と答えるだろうか。
(了)
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