【東日本大震災・原子力災害伝承館】高村館長の言葉通り「復興のあゆみ」がズラリ 住民の怒りも哀しみも無念さも伝わらない展示 「無い無い尽くし」のオープン
- 2020/09/22
- 22:54
立派な建物に大津波や原発事故に関する資料が並んでいる。しかし何かが足りない。いや、何も無かった─。「東日本大震災・原子力災害伝承館」(福島県双葉町)が連休初日の20日にオープン、さっそく1051人が訪れた。来館者数は3日間で3105人に上ったが、肝心の展示内容は国や東電のパンフレットを見るような〝優等生〟的なものばかり。原発事故後の住民の怒りや苦しみ、哀しみが伝わるような内容では無かった。あれも無い、これも無い。「無い無い」尽くしのオープン。これでは原発事故の実相を次世代に「伝承」する事など出来まい。

【「展示が優等生すぎる」】
連休を利用して千葉から来たというカップルの言葉が全てを表していた。
「なるほどなと思わされる場面も確かにありました。でも、展示がきれいすぎるというか優等生すぎますね。原発事故が発生した当時のエグさをもっと出さないと伝わらないですよね」
真新しい、きれいな建物に並べられた展示物や所々で流されているインタビュー映像からは、起こるはずのなかった放射性物質の拡散で右往左往させられた人々の戸惑いや混乱、怒りや哀しみは伝わって来ない。これまでに収集した24万点の資料の中から厳選されたはずの150点余の展示物はしかし、今なお終わりの見えない原発事故被害を伝えきれていない。
例えば、浪江町の人々が真っ先に避難場所に選んだ津島地区が実は町内で最も放射能汚染が酷かったという話は取り上げられていない。「希望の牧場」の吉沢正巳さんがなぜ、浪江町内で牛の飼育を続けたのかも分からない。町内に置かれていた殴り書きの立て看板も無い。
飯舘村民が自死を選び、裁判の後に東電社員が仏前で謝罪したという事も伝えられていない。「原発さえなければ」と書き残して亡くなった方の無念さも無い。政府の避難指示が出されなかった伊達市では、小国地区など特に汚染の酷かった地域が「特定避難勧奨地点」に指定されたが、空間線量が高くてもわずかな数値の差で指定の有無が生じ、住民間で軋轢が生じた事など取り上げられていない。
あるのは、震災前まで子どもたちが学校で使っていた教材や、オフサイトセンターに常備されていた緊急用防災服、福島県原子力センターの机上に残されていたヘルメット。当時の書き込みがそのまま残っているホワイトボードが唯一、原発事故直後の生々しさを伝えるが、原発広報誌「アトムふくしま」がどのように〝安全神話〟浸透に利用されたかの解説が無い。
浪江町は、原発事故直後に子どもたちに行ったアンケートの自由記述欄をそのまま印刷して冊子にしている。そこから引用して展示するだけでも当時の子どもたちの想いを知る事が出来るが、それも無い。






プロローグシアターで4分ほどの映像を観た後、スロープを上がって2階の展示室に向かう。スロープには福島第一原発建設からの年表が掲示されている。震災・原発事故前から原発事故直後の動きを展示したコーナーは黒を基調にしている。大沼さんが現場保存を求めた原発PR看板の写真も、この一角に展示されている
【主眼は「復興のプロセス」】
記者クラブを対象に行われた「事前レク」では、区域外避難者についても取り上げているという説明だった。確かに取り上げられているが、小さく「避難指示区域以外の住民の対応」として、「避難した人、残った人、それぞれに苦悩や葛藤がありました」と触れられているだけ。
中通りやいわき市など避難指示が出されなかった区域では、県外避難するか否かで家族間で意見が分かれた。父親が福島県内に残る「母子避難」も多かった。避難しなかった親たちも、子どもを守ろうと屋外での授業や運動会などの実施を巡って学校や教育委員会と闘った。子どもにマスクをさせたり県外産の食材を買ったりしたら、ママ友から「大げさだ」、「神経質だ」と言われた。そんな苦労は「苦悩や葛藤がありました」に収れんされてしまっている。
避難指示区域から避難した人たちへの住宅無償提供は、原発が立地している大熊町と双葉町以外は打ち切られた。避難指示区域外からのいわゆる〝自主避難者〟へは2017年3月末で既に打ち切られている。山形県米沢市に〝自主避難〟した人は雇用促進住宅から追い出され、都内の国家公務員宿舎に入居している〝自主避難者〟は、退去とこれまでの家賃支払いを求めて福島県に提訴された。館内をぐるっと見て廻っても、それらは頭に残らない。今なお続いている原発事故関連訴訟も学べない。
〝復興五輪〟への怒りも無い。復興大臣の無策ぶりや暴言も無い。放射性廃棄物を燃やす事や除染で生じた汚染土の再利用計画、汚染水の海洋放出計画への問題提起も無い。まさに「無い無い尽くし」なのだ。これでは、県外から訪れた人々に原発事故被害の実相が伝わるはずが無い。それもそのはずだ。初代館長に就任した長崎大学の高村昇教授(51)は7月、福島県の内堀雅雄知事を表敬訪問した際に、次のように語っている。
「伝承館の一番の主眼はですね、復興のプロセスというものを保存してそれを情報発信していく事じゃ無いかなというふうに考えております」
東電は原発事故後に自ら「3つの誓い」を立てたが、それを守るどころか法廷では被害者を侮辱するような主張ばかりで、事故の予見可能性や結果回避可能性も否定し続けている事も示されていない。あらゆる方面に気を遣い、国や東電が作るパンフレットを見ているような、そんな展示内容だった。






「復興のプロセス」を取り上げたコーナーは一転、白を基調にしている。そして当然、「福島イノベーション・コースト構想」のPRも忘れない。語り部の話は1日4回、1回40分間聴く事が出来るが、自由に話せないとの指摘もある。建物の前には芝生の広場がある。ここなら原発PR看板現物を展示する事も可能だが、果たされなかった(写真は全て2020年9月21日撮影)
【「地元に大きな雇用生んだ」】
「1967年、それは私がまだ二十歳の時です。日本は高度経済成長の真っただ中。国が進める原子力政策の下、ここ福島でも原子力発電所の建設が始まりました。地元には大きな雇用を生み出したのです。1971年3月には、東京電力福島第一原子力発電所1号機の運転が開始され、つくられた電気は毎日、首都圏に送られて日本の成長を支え続けたのです」
入館するとまず、プロローグシアターに案内される。ここで4分ほどの映像を観て、それかららせん状のスロープを上がって2階に向かい、そこから自由行動になる。館内は基本的には一方通行。写真撮影は一切、認められていない。
映像のナレーターは「コミュタン福島」(福島県三春町)と同じく、福島県出身の俳優・西田敏行。西田は時折、福島訛りを交えながら語る。
「大気中に放出された放射性物質、たくさんの人が避難生活を強いられました。いま皆さんがいるこの建物が立つここも、あれから長いこと避難指示区域だったんだべ。それぞれが一生懸命にそれぞれの道を取り戻そうとする中、復興は残念ながらまだまだ道半ば。光もあれば影もあります。発電所の廃炉作業はまだまだ続いて、私が生きているうちに見届けられっかどうか。無理かもしんねえなあ。震災の事、事故の事、復興の事、これからの未来の事。この場所で皆さんと一緒に考える事が出来たら…。そう思っています」
家族で本宮市から来た男性は「原発が爆発する映像を観て、あの頃の記憶がよみがえりました。子どもが小学校に入学する時期だったので、血の気が引いたんですよね」と話した。確かに「一緒に考える」きっかけにはなるかもしれないが、肝心な事を伝えなくては本当の意味での「伝承」にはなるまい。「原発事故の当事者です」という男性は「もう少し事故の事を詳しく展示して欲しかった」と言葉少なに語った。
残念ながら「明るい未来のエネルギー」とはならなかった原子力発電。不幸にして起きた事故を明るくきれいな建物でオブラートに包んだ展示物で見せても、次世代への教訓にはならない。ドロドロした、思わず目を背けたくなるような現実こそ、原発事故から9年間の歴史なのだ。
(了)

【「展示が優等生すぎる」】
連休を利用して千葉から来たというカップルの言葉が全てを表していた。
「なるほどなと思わされる場面も確かにありました。でも、展示がきれいすぎるというか優等生すぎますね。原発事故が発生した当時のエグさをもっと出さないと伝わらないですよね」
真新しい、きれいな建物に並べられた展示物や所々で流されているインタビュー映像からは、起こるはずのなかった放射性物質の拡散で右往左往させられた人々の戸惑いや混乱、怒りや哀しみは伝わって来ない。これまでに収集した24万点の資料の中から厳選されたはずの150点余の展示物はしかし、今なお終わりの見えない原発事故被害を伝えきれていない。
例えば、浪江町の人々が真っ先に避難場所に選んだ津島地区が実は町内で最も放射能汚染が酷かったという話は取り上げられていない。「希望の牧場」の吉沢正巳さんがなぜ、浪江町内で牛の飼育を続けたのかも分からない。町内に置かれていた殴り書きの立て看板も無い。
飯舘村民が自死を選び、裁判の後に東電社員が仏前で謝罪したという事も伝えられていない。「原発さえなければ」と書き残して亡くなった方の無念さも無い。政府の避難指示が出されなかった伊達市では、小国地区など特に汚染の酷かった地域が「特定避難勧奨地点」に指定されたが、空間線量が高くてもわずかな数値の差で指定の有無が生じ、住民間で軋轢が生じた事など取り上げられていない。
あるのは、震災前まで子どもたちが学校で使っていた教材や、オフサイトセンターに常備されていた緊急用防災服、福島県原子力センターの机上に残されていたヘルメット。当時の書き込みがそのまま残っているホワイトボードが唯一、原発事故直後の生々しさを伝えるが、原発広報誌「アトムふくしま」がどのように〝安全神話〟浸透に利用されたかの解説が無い。
浪江町は、原発事故直後に子どもたちに行ったアンケートの自由記述欄をそのまま印刷して冊子にしている。そこから引用して展示するだけでも当時の子どもたちの想いを知る事が出来るが、それも無い。






プロローグシアターで4分ほどの映像を観た後、スロープを上がって2階の展示室に向かう。スロープには福島第一原発建設からの年表が掲示されている。震災・原発事故前から原発事故直後の動きを展示したコーナーは黒を基調にしている。大沼さんが現場保存を求めた原発PR看板の写真も、この一角に展示されている
【主眼は「復興のプロセス」】
記者クラブを対象に行われた「事前レク」では、区域外避難者についても取り上げているという説明だった。確かに取り上げられているが、小さく「避難指示区域以外の住民の対応」として、「避難した人、残った人、それぞれに苦悩や葛藤がありました」と触れられているだけ。
中通りやいわき市など避難指示が出されなかった区域では、県外避難するか否かで家族間で意見が分かれた。父親が福島県内に残る「母子避難」も多かった。避難しなかった親たちも、子どもを守ろうと屋外での授業や運動会などの実施を巡って学校や教育委員会と闘った。子どもにマスクをさせたり県外産の食材を買ったりしたら、ママ友から「大げさだ」、「神経質だ」と言われた。そんな苦労は「苦悩や葛藤がありました」に収れんされてしまっている。
避難指示区域から避難した人たちへの住宅無償提供は、原発が立地している大熊町と双葉町以外は打ち切られた。避難指示区域外からのいわゆる〝自主避難者〟へは2017年3月末で既に打ち切られている。山形県米沢市に〝自主避難〟した人は雇用促進住宅から追い出され、都内の国家公務員宿舎に入居している〝自主避難者〟は、退去とこれまでの家賃支払いを求めて福島県に提訴された。館内をぐるっと見て廻っても、それらは頭に残らない。今なお続いている原発事故関連訴訟も学べない。
〝復興五輪〟への怒りも無い。復興大臣の無策ぶりや暴言も無い。放射性廃棄物を燃やす事や除染で生じた汚染土の再利用計画、汚染水の海洋放出計画への問題提起も無い。まさに「無い無い尽くし」なのだ。これでは、県外から訪れた人々に原発事故被害の実相が伝わるはずが無い。それもそのはずだ。初代館長に就任した長崎大学の高村昇教授(51)は7月、福島県の内堀雅雄知事を表敬訪問した際に、次のように語っている。
「伝承館の一番の主眼はですね、復興のプロセスというものを保存してそれを情報発信していく事じゃ無いかなというふうに考えております」
東電は原発事故後に自ら「3つの誓い」を立てたが、それを守るどころか法廷では被害者を侮辱するような主張ばかりで、事故の予見可能性や結果回避可能性も否定し続けている事も示されていない。あらゆる方面に気を遣い、国や東電が作るパンフレットを見ているような、そんな展示内容だった。






「復興のプロセス」を取り上げたコーナーは一転、白を基調にしている。そして当然、「福島イノベーション・コースト構想」のPRも忘れない。語り部の話は1日4回、1回40分間聴く事が出来るが、自由に話せないとの指摘もある。建物の前には芝生の広場がある。ここなら原発PR看板現物を展示する事も可能だが、果たされなかった(写真は全て2020年9月21日撮影)
【「地元に大きな雇用生んだ」】
「1967年、それは私がまだ二十歳の時です。日本は高度経済成長の真っただ中。国が進める原子力政策の下、ここ福島でも原子力発電所の建設が始まりました。地元には大きな雇用を生み出したのです。1971年3月には、東京電力福島第一原子力発電所1号機の運転が開始され、つくられた電気は毎日、首都圏に送られて日本の成長を支え続けたのです」
入館するとまず、プロローグシアターに案内される。ここで4分ほどの映像を観て、それかららせん状のスロープを上がって2階に向かい、そこから自由行動になる。館内は基本的には一方通行。写真撮影は一切、認められていない。
映像のナレーターは「コミュタン福島」(福島県三春町)と同じく、福島県出身の俳優・西田敏行。西田は時折、福島訛りを交えながら語る。
「大気中に放出された放射性物質、たくさんの人が避難生活を強いられました。いま皆さんがいるこの建物が立つここも、あれから長いこと避難指示区域だったんだべ。それぞれが一生懸命にそれぞれの道を取り戻そうとする中、復興は残念ながらまだまだ道半ば。光もあれば影もあります。発電所の廃炉作業はまだまだ続いて、私が生きているうちに見届けられっかどうか。無理かもしんねえなあ。震災の事、事故の事、復興の事、これからの未来の事。この場所で皆さんと一緒に考える事が出来たら…。そう思っています」
家族で本宮市から来た男性は「原発が爆発する映像を観て、あの頃の記憶がよみがえりました。子どもが小学校に入学する時期だったので、血の気が引いたんですよね」と話した。確かに「一緒に考える」きっかけにはなるかもしれないが、肝心な事を伝えなくては本当の意味での「伝承」にはなるまい。「原発事故の当事者です」という男性は「もう少し事故の事を詳しく展示して欲しかった」と言葉少なに語った。
残念ながら「明るい未来のエネルギー」とはならなかった原子力発電。不幸にして起きた事故を明るくきれいな建物でオブラートに包んだ展示物で見せても、次世代への教訓にはならない。ドロドロした、思わず目を背けたくなるような現実こそ、原発事故から9年間の歴史なのだ。
(了)
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