【66カ月目の福島はいま】絵手紙に込められた原発事故から5年半の想い。汚染、避難、孫…。講師に促されて綴った「本当の事」
- 2016/09/17
- 06:36
福島県郡山市で18日まで開かれている絵手紙展「ありがとう展」。同県川俣町や郡山市の女性たちが、「震災5年目」というテーマで出品している。なるべく余計な言葉は排して、絵手紙に綴られた想いをそのまま届けたい。そこには「風評被害」や「過剰不安」などという紋切り型の表現では突き放せない、市井の人々の現在の心の内が詰まっている。「3.11」から2000日超。しかし、原発事故はまだまだ終わっていない。
【「心までは除染できない」】
「お盆に幼子が遊びに来ました。たわわに実り、おいしそうに色づいたブルーベリーを見つけてはしゃいでいる。おいしいから採って食べてごらん、と言えない自分がいました」
原発事故が無ければ、放射能汚染が無ければ「食べてごらん」と言えた。幼子と美味しさを共有できた。原発事故がそんなささやかな日常の風景すら奪った。
「私の留守中に、玄関に兄が黙って蜂蜜を2瓶置いて行った。以前なら喜んでもらったのに、ふと数値が気になり、どうしたものかと、まさか聞く訳にもいかず思案していたら『100ぐらいだから大丈夫だべ』という電話が来た。あれから5年。恐怖が薄れているとはいえ、入っていると思うとためらう。でも気持ちは受け取りたい。捨てることも出来ず冷蔵庫へ。そのうち歳なんだから、と言って食べるかもしれない。それにしても、この思いがいつまで続くのか。いくら大地を除染しても、心までは削れない」
交錯する「ありがとう」と「ごめんね」。「大丈夫だよね」と「やっぱり怖い」。放射性物質が入っていると思えばためらうのも当然だ。誰が、この想いを責められようか。
「燃やすのは薪です。原発事故当時も薪を燃やして風呂を焚く。5年目の今も利用したいのに使えない材木。短く切り、車に積んで持ってくる薪を燃す。パチパチ、ゴーゴーと音をたて赤い炎で燃えている。灰に放射能は残り、目には見えないのです」
汚染で地元の薪で風呂が焚けなくなった。他所から持ってくる薪にも放射能があるかも知れぬ。もちろん灰にも。しかし、それは誰の目にも映らない。色も香りも無く漂うばかり。


原発事故や放射能が孫との楽しい日々を奪った。美味しいブルーベリーを食べさせることも出来なくなった。5年半経っても…
【「孫たちが来るのを待つ日々」】
「飯舘村も、ようやく避難解除になりました。でも田んぼや畑には黒い袋が山のように積んであります。放射能で汚染された土が入っているのです。わが家に帰ったとしても、その黒い袋があっては元の生活には戻れないと思います。又、その袋を運び出す時、空気が放射能で汚れるに違いない。そんな事になるのではと思うと、とても心配になります」
隣接する飯舘村は全村避難が続く。来春、帰還困難区域を除く避難指示が解除されるが、果たして「安全」は担保されるのか。フレコンバッグを眺めながらの生活。平穏な日々は遠い。他人事ではない。
「幼い孫と紙オムツをいっぱい車に載せて放射能から逃れるためにより遠くに、と送り出すことは、この先、待ち受ける苦労が心配でたまりませんでした。あれから5年がたち、避難先からは戻ったものの少しでも影響のない所に住みたいとの希望で、ここには戻れませんでした。孫の〇〇ちゃんのおうち、から今ではじいじ、ばあばのおうちと呼び名を変え、ひたすら孫たちが訪れるのを待っている日々です」
幼い孫を送り出した不安と哀しみは、孫を失った悲しみに変わった。時折、遊びに来てくれる孫を、次はいつ来てくれるのかと指折り数えて待つ日々。楽しかった生活を奪ったのも放射能。
「町のあちこちの除染の事務所がなくなり、今は広い敷地がポツンポツンと空くようになった。帰還する人たちは帰れる安堵感とは裏腹に。分かれて暮らす日々の長さに寂しさを隠し、ただただ孫たちのためと我慢している。そんな中、わが家に夫の当時の外部被曝線量のはがきが届いた。およそ1.0ミリシーベルトです、と」
避難先から戻っても拭えない被曝への不安。孫と離れた寂しさを隠して暮らす日々。避難してもしなくても得られぬ安息。1ミリシーベルトも被曝した夫の体調も心配だ。


絵手紙には、原発事故による放射能汚染で日常生活が奪われた哀しみが綴られている=福島県郡山市の「ビッグアイ」6階
【「今年も山椒は食べていない」】
「あの時、子どもたちから逃げるよう何回もTELがありました。主人と二人で外に飛び出し、地震が収まるのを待つことしかできませんでした。その後、原発事故が起き、放射性物質の恐ろしさを初めて知りました。主人と、あと何年も生きられないから、気にしないでこの川俣で暮らして行こうねと話をしたことを覚えています。山木屋地区の人々はまだ仮設住宅に避難しています。5年目なのに、復興は始まったばかりなのだと思いました」
気にしないで、と言っても放射能への恐怖は消えない。本当の「復興」は緒についたばかり。
「今年も山椒の葉は食べていません。世の中、便利になり過ぎないでほしい。原子力発電所はなくしてほしいと思います。56km離れた郡山でも自然の恵みが壊れてしまいました。あれから梅干しは漬けていません。冷奴に山椒の葉をのせて食べるのが楽しみだったのに残念です。でも、川俣の人たちに比べたら…。来年は葉っぱ500gをとって測定してもらい、食べてみようと思います。これ以上、自然の恵みが壊れないよう、祈るばかりです」
川俣だけではない。郡山にも放射性物質は降り注いだ。自家製の梅干しも山椒の葉も失った。来年の測定では放射性セシウムは検出されるだろうか。そして、再び冷奴にのせて食べられるだろうか。
絵手紙展の会場で、講師の安達アツ子さん(「うつくしま絵手紙の会」主宰)は振り返った。
「最初はみんな、違うことを書いてたのよ。忘れたい、現実を見たくないっていう想いがあるのね。でも、『世間が忘れていく中で、あなたたちが書かなくてどうするの?あなたたちだからこそ書けるのよ』って言ったの。そうしたら『本当の事を書いていませんでした』って多くの人が書き直したのよ。本当の事だから伝わってくるでしょ」
一度書き上げたものをやめて、改めて綴った「本当の事」。復興一辺倒の報道では伝わって来ない「福島」が詰まっている。
「ありがとう展」は10時から18時半まで(最終日は17時まで)。会場はJR郡山駅北口前の「ビッグアイ」6階。入場無料。
(了)
【「心までは除染できない」】
「お盆に幼子が遊びに来ました。たわわに実り、おいしそうに色づいたブルーベリーを見つけてはしゃいでいる。おいしいから採って食べてごらん、と言えない自分がいました」
原発事故が無ければ、放射能汚染が無ければ「食べてごらん」と言えた。幼子と美味しさを共有できた。原発事故がそんなささやかな日常の風景すら奪った。
「私の留守中に、玄関に兄が黙って蜂蜜を2瓶置いて行った。以前なら喜んでもらったのに、ふと数値が気になり、どうしたものかと、まさか聞く訳にもいかず思案していたら『100ぐらいだから大丈夫だべ』という電話が来た。あれから5年。恐怖が薄れているとはいえ、入っていると思うとためらう。でも気持ちは受け取りたい。捨てることも出来ず冷蔵庫へ。そのうち歳なんだから、と言って食べるかもしれない。それにしても、この思いがいつまで続くのか。いくら大地を除染しても、心までは削れない」
交錯する「ありがとう」と「ごめんね」。「大丈夫だよね」と「やっぱり怖い」。放射性物質が入っていると思えばためらうのも当然だ。誰が、この想いを責められようか。
「燃やすのは薪です。原発事故当時も薪を燃やして風呂を焚く。5年目の今も利用したいのに使えない材木。短く切り、車に積んで持ってくる薪を燃す。パチパチ、ゴーゴーと音をたて赤い炎で燃えている。灰に放射能は残り、目には見えないのです」
汚染で地元の薪で風呂が焚けなくなった。他所から持ってくる薪にも放射能があるかも知れぬ。もちろん灰にも。しかし、それは誰の目にも映らない。色も香りも無く漂うばかり。


原発事故や放射能が孫との楽しい日々を奪った。美味しいブルーベリーを食べさせることも出来なくなった。5年半経っても…
【「孫たちが来るのを待つ日々」】
「飯舘村も、ようやく避難解除になりました。でも田んぼや畑には黒い袋が山のように積んであります。放射能で汚染された土が入っているのです。わが家に帰ったとしても、その黒い袋があっては元の生活には戻れないと思います。又、その袋を運び出す時、空気が放射能で汚れるに違いない。そんな事になるのではと思うと、とても心配になります」
隣接する飯舘村は全村避難が続く。来春、帰還困難区域を除く避難指示が解除されるが、果たして「安全」は担保されるのか。フレコンバッグを眺めながらの生活。平穏な日々は遠い。他人事ではない。
「幼い孫と紙オムツをいっぱい車に載せて放射能から逃れるためにより遠くに、と送り出すことは、この先、待ち受ける苦労が心配でたまりませんでした。あれから5年がたち、避難先からは戻ったものの少しでも影響のない所に住みたいとの希望で、ここには戻れませんでした。孫の〇〇ちゃんのおうち、から今ではじいじ、ばあばのおうちと呼び名を変え、ひたすら孫たちが訪れるのを待っている日々です」
幼い孫を送り出した不安と哀しみは、孫を失った悲しみに変わった。時折、遊びに来てくれる孫を、次はいつ来てくれるのかと指折り数えて待つ日々。楽しかった生活を奪ったのも放射能。
「町のあちこちの除染の事務所がなくなり、今は広い敷地がポツンポツンと空くようになった。帰還する人たちは帰れる安堵感とは裏腹に。分かれて暮らす日々の長さに寂しさを隠し、ただただ孫たちのためと我慢している。そんな中、わが家に夫の当時の外部被曝線量のはがきが届いた。およそ1.0ミリシーベルトです、と」
避難先から戻っても拭えない被曝への不安。孫と離れた寂しさを隠して暮らす日々。避難してもしなくても得られぬ安息。1ミリシーベルトも被曝した夫の体調も心配だ。


絵手紙には、原発事故による放射能汚染で日常生活が奪われた哀しみが綴られている=福島県郡山市の「ビッグアイ」6階
【「今年も山椒は食べていない」】
「あの時、子どもたちから逃げるよう何回もTELがありました。主人と二人で外に飛び出し、地震が収まるのを待つことしかできませんでした。その後、原発事故が起き、放射性物質の恐ろしさを初めて知りました。主人と、あと何年も生きられないから、気にしないでこの川俣で暮らして行こうねと話をしたことを覚えています。山木屋地区の人々はまだ仮設住宅に避難しています。5年目なのに、復興は始まったばかりなのだと思いました」
気にしないで、と言っても放射能への恐怖は消えない。本当の「復興」は緒についたばかり。
「今年も山椒の葉は食べていません。世の中、便利になり過ぎないでほしい。原子力発電所はなくしてほしいと思います。56km離れた郡山でも自然の恵みが壊れてしまいました。あれから梅干しは漬けていません。冷奴に山椒の葉をのせて食べるのが楽しみだったのに残念です。でも、川俣の人たちに比べたら…。来年は葉っぱ500gをとって測定してもらい、食べてみようと思います。これ以上、自然の恵みが壊れないよう、祈るばかりです」
川俣だけではない。郡山にも放射性物質は降り注いだ。自家製の梅干しも山椒の葉も失った。来年の測定では放射性セシウムは検出されるだろうか。そして、再び冷奴にのせて食べられるだろうか。
絵手紙展の会場で、講師の安達アツ子さん(「うつくしま絵手紙の会」主宰)は振り返った。
「最初はみんな、違うことを書いてたのよ。忘れたい、現実を見たくないっていう想いがあるのね。でも、『世間が忘れていく中で、あなたたちが書かなくてどうするの?あなたたちだからこそ書けるのよ』って言ったの。そうしたら『本当の事を書いていませんでした』って多くの人が書き直したのよ。本当の事だから伝わってくるでしょ」
一度書き上げたものをやめて、改めて綴った「本当の事」。復興一辺倒の報道では伝わって来ない「福島」が詰まっている。
「ありがとう展」は10時から18時半まで(最終日は17時まで)。会場はJR郡山駅北口前の「ビッグアイ」6階。入場無料。
(了)
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