【帰還困難区域】「昔の津島を返してくれ」。故郷も自宅も山の幸も奪われた浪江町民の叫び~避難生活で壊れた「心」と「身体」
- 2016/09/20
- 05:14
「震災から2000日」や「あれから5年半」。メディアで盛んに使われる言葉は、あくまで暦の上での区切りに過ぎない。当事者にとって原発事故は現在進行形だ。福島県浪江町から二本松市に避難中の男性(50)が、匿名を条件に怒りや哀しみを語った。自宅のある津島地区は最も汚染の度合いが高い「帰還困難区域」に指定され、以前のような生活を送れる目途は立っていない。放射性物質の拡散で避難を強いられ、自身も娘も心身に傷を負った。故郷やわが家も失った。世界に「復興」をアピールするなどという美辞麗句とはほど遠い「福島」にこそ、目を向ける必要がある。
【「ここは家じゃない、プレハブだ」】
2011年6月から始まった仮設住宅での生活は、わずか1カ月で身体が悲鳴をあげた。
翌7月に二本松市内で開かれた内部被曝検査に関する説明会。イスに座っても汗が止まらない。激しい目まい。やがて手足に力が入らなくなった。職員に抱えてもらうようにトイレへ行き嘔吐。市内の病院に救急搬送された。CTスキャンでの検査を受けたが、脳出血などの異常は見つからなかった。「熱中症か」と点滴を受けて帰宅するも症状は一向に改善されない。別の病院で改めて診察を受けると右耳の内耳が腫れていた。「メニエール病」。聴力も低下した。5年以上が経過したが、内耳の腫れも聴力もいまだに治っていない。補聴器が欠かせない生活が続いている。
「うつ病も併発し、一時は15種類もの薬を服用していました。眠れないんですよ。布団に入って横になると天井や壁が目に入る。丈夫に造ったわが家とは大違いで、『ここは家じゃない、プレハブだ』っていう想いが湧き上がって来たんです」
先の見えない避難生活。若くして建てた自宅も失った。土地も汚染されてしまった。一家の大黒柱としてどうやって家族を養って行こうか。苦悩はすぐに心身の不調となって現れ、ほとんど外出しなくなってしまった。翌年から少しずつ外に出られるようになり、自治会役員として、ピーク時には100世帯250人が生活した仮設住宅を妻と共にまとめるようになった。今でもまだ外出するのは億劫だと苦笑する男性は、それでも2年2カ月に及んだ仮設住宅での生活は「楽しかった」と振り返る。
「だって、周囲に同じ境遇の人(浪江町民)がいるから。つらかったけど楽しかった」
それだけ慣れない土地での避難生活は壮絶だった。それを強いたのは原発事故だ。

男性は故郷やわが家を失ったショックから右耳の聴力が落ちてしまった。今も補聴器を手放せない。うつ病も併発したが、原発事故との因果関係を立証できないため、東電からの補償は得られない
【「西へ行け」で始まった避難】
あの日、目の前の山が動いた。浪江町内の採石場。経験したことの無い揺れに、自宅の倒壊を覚悟した。男性はすぐに職場から自宅に戻った。幸い、自宅は無傷。妻や義母らも無事だった。若い頃に建てた自宅は地元の木を使い、柱も梁も太くしていた。原発作業員の長男(当時25)は福島第一原発4号機の足場に乗っていた。暗闇の中、他の作業員と手をつないでゆっくりと降り、車で自宅に戻った。次男(当時24)は、広野火力発電所での勤務中に車が津波で流されてしまい、家族と合流出来たのは3月12日だった。
原発事故への危機感は薄かった。津島行政区は原発から25~30km離れている。3月13日に南相馬市の病院に入院していた父親を迎えに行った際、病院は放射性物質の侵入を避けるため扉を開ける事すらせず、手でバツ印を作った。だが政府の対応は当初、半径5~10km圏にとどまっていた。東電による長年の〝刷り込み〟も効いていた。「子どもを無料でスパリゾートハワイアンズに連れて行ってくれるんですよ。その際、必ず原発を見学して『二重三重の防護をしてありますから安全です』と説明するんです」。
津島地区には続々と町民が避難していた。「西へ行け」。行政区長が書類を手に各戸を巡ったのは、3月15日昼の事だった。
妹家族らも含め16人での避難。車4台で栃木県内の親戚宅を目指した。ようやく大渋滞の国道4号に入ったのは夜。須賀川市と白河市の中間辺りに差し掛かった時、食堂が目に入った。何も食べていない。乳飲み子もいる。少し休みたかった。店は閉まっていたが扉を叩き、頭を下げた。女性は丁重に断った。だが、事情を説明すると主人が快く店内に招き入れてくれた。皆で温かいラーメンを食べた。「とにかく必死で周囲など見えていなかった。お店が分かればお礼をしたいのですが…」と男性。裏道を通ったが、親戚宅に着いたのは午前1時頃だった。倒壊を免れた自宅は、はるか遠い存在になった。

依然として高濃度汚染が続く浪江町の津島地区。今村雅弘復興大臣は「出来る出来ないじゃない、やるんだ」と帰還困難区域の部分除染に着手することを表明しているが、実現性は不透明だ=2016年04月06日撮影
【傷ついた娘。「放射能が来た」】
原発避難の影響は家族にも及んだ。
津島小学校を卒業したばかりの末娘(当時12)は、浪江町役場職員の不親切もあって、栃木県内の中学校に入学手続きをした直後に改めて二本松市内の中学校への転校を強いられた。市内にある岳温泉の宿から通うことになったが、同級生の心無い言葉に傷ついた。「放射能が来た」。
登校しようとすると吐いてしまう。2年間、通えなかった。両親はひたすら待った。救いの手を差し伸べたのは浪江中学校の校長。再び転校し、散歩から始まった。30分、1時間と少しずつ学校に居られるようになった。無事、卒業。現在は津島高校で大学進学を目指している。高校では生徒会長も務めた。
娘の負った心の傷も自身の体調不良も、原発事故が無ければ受けずに済んだはずだ。しかし補聴器の購入は自己負担。原発事故との因果関係など避難者自身が立証することは出来ないからだ。もちろん、娘の心の傷に対する賠償金などあるはずもない。「世間の人々は私たちが多額の賠償金でぜいたくな暮らしをしているかのようなイメージを持っているかもしれませんが、それはごく一部の人に過ぎません。今日明日、食うことはには困りません。でも5年後、10年後の見通しは立たないですよ」。
「元の津島に戻せ」。津島地区の約250世帯が、除染による2020年3月までの原状回復と完全賠償を求めて、国と東電を相手取って集団訴訟を起こした。男性も原告の1人。今月23日にも福島地裁郡山支部で口頭弁論が開かれるが、国も東電も、当初から「現在の技術では原状回復など不可能」と請求棄却を求めている。にもかかわらず、政府は帰還困難区域での部分除染に着手して、何年かかっても避難指示解除を目指す方針を示した。「山を切り崩すなんて出来ません。まずは復興大臣の家族に住んでもらってから避難指示解除を検討して欲しい」と男性は憤る。
原発事故で故郷を奪われた。無傷の自宅も、周囲の森も、シメジやイノハナなどの山の幸も汚染されてしまった。「かつての津島」はもう、戻らない。これが安倍晋三首相が「アンダーコントロール」と世界に吹聴する原発事故の現実なのだ。
(了)
【「ここは家じゃない、プレハブだ」】
2011年6月から始まった仮設住宅での生活は、わずか1カ月で身体が悲鳴をあげた。
翌7月に二本松市内で開かれた内部被曝検査に関する説明会。イスに座っても汗が止まらない。激しい目まい。やがて手足に力が入らなくなった。職員に抱えてもらうようにトイレへ行き嘔吐。市内の病院に救急搬送された。CTスキャンでの検査を受けたが、脳出血などの異常は見つからなかった。「熱中症か」と点滴を受けて帰宅するも症状は一向に改善されない。別の病院で改めて診察を受けると右耳の内耳が腫れていた。「メニエール病」。聴力も低下した。5年以上が経過したが、内耳の腫れも聴力もいまだに治っていない。補聴器が欠かせない生活が続いている。
「うつ病も併発し、一時は15種類もの薬を服用していました。眠れないんですよ。布団に入って横になると天井や壁が目に入る。丈夫に造ったわが家とは大違いで、『ここは家じゃない、プレハブだ』っていう想いが湧き上がって来たんです」
先の見えない避難生活。若くして建てた自宅も失った。土地も汚染されてしまった。一家の大黒柱としてどうやって家族を養って行こうか。苦悩はすぐに心身の不調となって現れ、ほとんど外出しなくなってしまった。翌年から少しずつ外に出られるようになり、自治会役員として、ピーク時には100世帯250人が生活した仮設住宅を妻と共にまとめるようになった。今でもまだ外出するのは億劫だと苦笑する男性は、それでも2年2カ月に及んだ仮設住宅での生活は「楽しかった」と振り返る。
「だって、周囲に同じ境遇の人(浪江町民)がいるから。つらかったけど楽しかった」
それだけ慣れない土地での避難生活は壮絶だった。それを強いたのは原発事故だ。

男性は故郷やわが家を失ったショックから右耳の聴力が落ちてしまった。今も補聴器を手放せない。うつ病も併発したが、原発事故との因果関係を立証できないため、東電からの補償は得られない
【「西へ行け」で始まった避難】
あの日、目の前の山が動いた。浪江町内の採石場。経験したことの無い揺れに、自宅の倒壊を覚悟した。男性はすぐに職場から自宅に戻った。幸い、自宅は無傷。妻や義母らも無事だった。若い頃に建てた自宅は地元の木を使い、柱も梁も太くしていた。原発作業員の長男(当時25)は福島第一原発4号機の足場に乗っていた。暗闇の中、他の作業員と手をつないでゆっくりと降り、車で自宅に戻った。次男(当時24)は、広野火力発電所での勤務中に車が津波で流されてしまい、家族と合流出来たのは3月12日だった。
原発事故への危機感は薄かった。津島行政区は原発から25~30km離れている。3月13日に南相馬市の病院に入院していた父親を迎えに行った際、病院は放射性物質の侵入を避けるため扉を開ける事すらせず、手でバツ印を作った。だが政府の対応は当初、半径5~10km圏にとどまっていた。東電による長年の〝刷り込み〟も効いていた。「子どもを無料でスパリゾートハワイアンズに連れて行ってくれるんですよ。その際、必ず原発を見学して『二重三重の防護をしてありますから安全です』と説明するんです」。
津島地区には続々と町民が避難していた。「西へ行け」。行政区長が書類を手に各戸を巡ったのは、3月15日昼の事だった。
妹家族らも含め16人での避難。車4台で栃木県内の親戚宅を目指した。ようやく大渋滞の国道4号に入ったのは夜。須賀川市と白河市の中間辺りに差し掛かった時、食堂が目に入った。何も食べていない。乳飲み子もいる。少し休みたかった。店は閉まっていたが扉を叩き、頭を下げた。女性は丁重に断った。だが、事情を説明すると主人が快く店内に招き入れてくれた。皆で温かいラーメンを食べた。「とにかく必死で周囲など見えていなかった。お店が分かればお礼をしたいのですが…」と男性。裏道を通ったが、親戚宅に着いたのは午前1時頃だった。倒壊を免れた自宅は、はるか遠い存在になった。

依然として高濃度汚染が続く浪江町の津島地区。今村雅弘復興大臣は「出来る出来ないじゃない、やるんだ」と帰還困難区域の部分除染に着手することを表明しているが、実現性は不透明だ=2016年04月06日撮影
【傷ついた娘。「放射能が来た」】
原発避難の影響は家族にも及んだ。
津島小学校を卒業したばかりの末娘(当時12)は、浪江町役場職員の不親切もあって、栃木県内の中学校に入学手続きをした直後に改めて二本松市内の中学校への転校を強いられた。市内にある岳温泉の宿から通うことになったが、同級生の心無い言葉に傷ついた。「放射能が来た」。
登校しようとすると吐いてしまう。2年間、通えなかった。両親はひたすら待った。救いの手を差し伸べたのは浪江中学校の校長。再び転校し、散歩から始まった。30分、1時間と少しずつ学校に居られるようになった。無事、卒業。現在は津島高校で大学進学を目指している。高校では生徒会長も務めた。
娘の負った心の傷も自身の体調不良も、原発事故が無ければ受けずに済んだはずだ。しかし補聴器の購入は自己負担。原発事故との因果関係など避難者自身が立証することは出来ないからだ。もちろん、娘の心の傷に対する賠償金などあるはずもない。「世間の人々は私たちが多額の賠償金でぜいたくな暮らしをしているかのようなイメージを持っているかもしれませんが、それはごく一部の人に過ぎません。今日明日、食うことはには困りません。でも5年後、10年後の見通しは立たないですよ」。
「元の津島に戻せ」。津島地区の約250世帯が、除染による2020年3月までの原状回復と完全賠償を求めて、国と東電を相手取って集団訴訟を起こした。男性も原告の1人。今月23日にも福島地裁郡山支部で口頭弁論が開かれるが、国も東電も、当初から「現在の技術では原状回復など不可能」と請求棄却を求めている。にもかかわらず、政府は帰還困難区域での部分除染に着手して、何年かかっても避難指示解除を目指す方針を示した。「山を切り崩すなんて出来ません。まずは復興大臣の家族に住んでもらってから避難指示解除を検討して欲しい」と男性は憤る。
原発事故で故郷を奪われた。無傷の自宅も、周囲の森も、シメジやイノハナなどの山の幸も汚染されてしまった。「かつての津島」はもう、戻らない。これが安倍晋三首相が「アンダーコントロール」と世界に吹聴する原発事故の現実なのだ。
(了)
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