【「謝れ!償え!かえせふるさと飯舘村」損害賠償請求訴訟】村民29人が東京地裁に提訴 「原発事故で初期被曝強いられ、ふるさと奪われた」
- 2021/03/06
- 07:54
五輪で〝福島の復興〟を国内外にアピールしようとしている陰で、国や東電と闘っている人々がいる。原発事故に伴う放射性物質の大量拡散で被曝を強いられ、ふるさとを奪われたとして、福島県相馬郡飯舘村の村民29人が5日午後、国と東電に1人715万円の支払いを求める損害賠償請求訴訟を起こした。飯舘村では2800人を超える村民が集団ADRを申し立てていたが、東電の和解案拒否が相次ぎ打ち切られていた。原告代表の菅野哲さんは言う。「飯舘村という安住の地を破壊してしまった国や東電の責任はきちんと裁判で求めて行きたい」。原発事故は終わっていない。

【和解案拒否し続けた東電】
東京地裁に提訴したのは、2011年3月の原発事故発生当時に飯舘村(居住制限区域)で暮らしていた12世帯29人(12歳から89歳)。現在は2人が帰村して生活しているが、他の27人は福島県内の避難先で暮らしている。
被告は国と東電。国と東電に「初期被ばく慰謝料」275万円、東電に「ふるさと喪失慰謝料」440万円の支払いを求めており、弁護士費用を含めて計1人715万円の支払いを請求している。
飯舘村では2014年11月14日、「東京電力に謝罪をさせ、正当な賠償を実現して、飯舘村民としての誇りを取り戻し、ふるさとの再生を図るため」として原子力損害賠償紛争解決センター(ADRセンター)にADR(裁判外紛争解決手続き)を申し立てた。
ADRには737世帯、2837人が申立人に名を連ね①飯舘村民に甚大な被害を与えたことに対する法的責任を認め、申立人ら及び飯舘村民に対して心から謝罪すること②無用な初期被ばくによって健康不安など精神的苦痛を与えた慰謝料として1人300万円を支払うこと③避難慰謝料として1人35万円(既に支払われている10万円を含む)を支払うこと④村民としての生活を破壊し、精神的苦痛を与えた慰謝料として1人2000万円を支払うこと─などを求めたが、東電はセンターの和解案を拒否し続けたため2020年5月にADR手続きが打ち切られ、申立団も解散されていた。
提訴後の記者会見で、弁護団副代表の中川素充弁護士は「2017年12月に示された和解案は、原発事故発生から約4カ月間で概ね10mSv被曝した村民に限定し、慰謝料額もわずか15万円(長泥地区住民は50万円)と極めて不十分だった。しかし、東電はこれすら受諾せず、ADRセンターの受諾勧告にも応じなかった。きちんと裁判を起こすべきだ、初期被曝など当時の対応のまずさについて責任を問うべきだという声があり、申立人のうち29人が提訴するに至った」と説明した。
集団ADRの和解案拒否後の訴訟としては、浪江町民も係争中だ。


訴状では、2011年3月15日に村役場近くのモニタリングポストが44・7μSv/hを計測したにもかかわらず、ほとんどの村民には知らされなかった事にも言及。初期対応のまずさが無用な被曝につながったと主張している
【「全てを壊され、失った」】
原告を代表して提訴に臨んだ菅野哲さん(72)=福島市内で避難生活中=は、役場職員を定年退職後、農業を再開した矢先に原発事故に遭った。「飯舘村放射能エコロジー研究会」のシンポジウムに参加するなどして「どこに住んでいても飯舘村の住民であることを認めて欲しい」、「誰も原発事故の責任を認めていない。国と東電が謝罪するまで頑張る」と語っていた。
記者会見で「原発事故発生当時62歳。間もなく73歳になろうとしています。私の人生でこの10年をどうとらえたら良いのか。常に考えていますが考えもつきません。予期しなかった事態で人生の7分の1を費やしてしまいました。必用の無い10年でした。汚染・避難で全てを壊され、失いました」と話した。
「避難指示が出されたのが4月11日と発災から1カ月近く遅れたので、避難先の住まいがなかなか見つかりませんでした。仮設住宅も無かった。ほとんどの村民が7月末まで村内に居続けなければなりませんでした。若者を優先的に逃がしたので、高齢者ほど村に残りました。避難する際には当然、スクリーニングをしてくれるものだと思っていましたが、検査をしてくれませんでした。事故対応マニュアルが存在していたのに…。納得出来ません。なぜあんな事になってしまったのか。きちんと裁判の中で答えて欲しいです」
「除染は終わったと国は言いますが宅地と農地だけ。しかし、除染されていない残りの80%に飯舘村の魅力があるんです。山も川も汚染はそのままですし、山菜やキノコを食べる事も出来ません。戻って暮らしたとしても食べられません。汚染は50年100年と続きます。村民はずっと苦しんで活きていかなければなりません。そういう苦悩を分かってもらいたいです」
「あたかも村民が続々と村に戻っているかのような報道もありますが、現実には8割の村民が村を離れて暮らしています(2021年3月1日現在の村内居住者は1481人。2010年12月1日現在の村の人口は6177人だった)。村に戻っても生業が成り立つ見込みがありません。インフラの整備も完了していません。事故前の村の暮らしが出来ないからです。道の駅を建てたり、校舎を新しくしたり、道路を拡げたり…そういう事では村民が暮らせる環境にはなりません」


会見で想いを述べた原告代表の菅野哲さん。「当時は線量の隠匿がなされて村民に情報が伝わらなかった」とも。無用な被曝を強いられた事への怒りは強い
【隠された44・7μSv/h】
きちんと情報が与えられていれば、村民の無用な被曝は避けられたと考える菅野さん。「当時は線量の隠匿がなされて、村民に情報が伝わりませんでした。NHKのテロップで1回だけ44・7μSv/hという数値が放送されましたが、その後はピタリと止まりました。当時の菅野典雄村長が『村民の不安を煽るので線量の公表はしないように』とNHKに抗議したそうです。そういう事実があったと聞いています」と悔しそうに語った。
この「44・7μSv/h」を巡っては、現村長の杉岡誠氏が役場職員だった2018年9月の講演会で次のように生々しく証言している。
「3月14日、福島県庁の依頼で青森県原子力センターの職員がモニタリングポスト(MP)を設置しに来ている、と電話が鳴りました。彼らは白い防護服を着ていました。MPは『いちばん館』前の花壇に設置され、私が1時間おきに数値を確認して福島県庁に報告しました」
「計測を始めた時点での空間線量は約0・09μSv/hでした。それが3月15日に降った雨とともに上昇しました。日が暮れ、雨が雪に変わるとさらに上昇を続け、最高で44・7μSv/hを計測しました。数値の上昇を防災無線で福島県庁に報告しました。当然、屋内退避指示くらいは出されるものと思っていましたが、県職員から返ってきた言葉は『防災計画上、100μSv/hを超えないと避難指示は出せない。数値を30分おきに報告して欲しい』だけでした」
この事1つだけでも、当時の飯舘村民が被曝リスクから守られていなかった事が良く分かる。
会見で「事故前の飯舘村は戻って来ません。至る所にあるのは黒いフレコンバッグかソーラーパネルです。涙が出ます。農地は食糧を供給する大切な土地なんです。残念でなりません」と語った菅野さん。
「福島県には汚染が長期化している場所が実際に存在しているんです。それを国民に知らせないで風評だ風評だと言っているのは許せません。国も東電も事故の責任をとる姿勢が見えません。原陪審の基準に従って賠償金さえ払えばそれで終わりと言わんばかりです。飯舘村という安住の地を破壊してしまった国や東電の責任はきちんと裁判で求めて行きたいです」と決意を口にした。
原発事故は決して終わってなどいないのだ。
(了)

【和解案拒否し続けた東電】
東京地裁に提訴したのは、2011年3月の原発事故発生当時に飯舘村(居住制限区域)で暮らしていた12世帯29人(12歳から89歳)。現在は2人が帰村して生活しているが、他の27人は福島県内の避難先で暮らしている。
被告は国と東電。国と東電に「初期被ばく慰謝料」275万円、東電に「ふるさと喪失慰謝料」440万円の支払いを求めており、弁護士費用を含めて計1人715万円の支払いを請求している。
飯舘村では2014年11月14日、「東京電力に謝罪をさせ、正当な賠償を実現して、飯舘村民としての誇りを取り戻し、ふるさとの再生を図るため」として原子力損害賠償紛争解決センター(ADRセンター)にADR(裁判外紛争解決手続き)を申し立てた。
ADRには737世帯、2837人が申立人に名を連ね①飯舘村民に甚大な被害を与えたことに対する法的責任を認め、申立人ら及び飯舘村民に対して心から謝罪すること②無用な初期被ばくによって健康不安など精神的苦痛を与えた慰謝料として1人300万円を支払うこと③避難慰謝料として1人35万円(既に支払われている10万円を含む)を支払うこと④村民としての生活を破壊し、精神的苦痛を与えた慰謝料として1人2000万円を支払うこと─などを求めたが、東電はセンターの和解案を拒否し続けたため2020年5月にADR手続きが打ち切られ、申立団も解散されていた。
提訴後の記者会見で、弁護団副代表の中川素充弁護士は「2017年12月に示された和解案は、原発事故発生から約4カ月間で概ね10mSv被曝した村民に限定し、慰謝料額もわずか15万円(長泥地区住民は50万円)と極めて不十分だった。しかし、東電はこれすら受諾せず、ADRセンターの受諾勧告にも応じなかった。きちんと裁判を起こすべきだ、初期被曝など当時の対応のまずさについて責任を問うべきだという声があり、申立人のうち29人が提訴するに至った」と説明した。
集団ADRの和解案拒否後の訴訟としては、浪江町民も係争中だ。


訴状では、2011年3月15日に村役場近くのモニタリングポストが44・7μSv/hを計測したにもかかわらず、ほとんどの村民には知らされなかった事にも言及。初期対応のまずさが無用な被曝につながったと主張している
【「全てを壊され、失った」】
原告を代表して提訴に臨んだ菅野哲さん(72)=福島市内で避難生活中=は、役場職員を定年退職後、農業を再開した矢先に原発事故に遭った。「飯舘村放射能エコロジー研究会」のシンポジウムに参加するなどして「どこに住んでいても飯舘村の住民であることを認めて欲しい」、「誰も原発事故の責任を認めていない。国と東電が謝罪するまで頑張る」と語っていた。
記者会見で「原発事故発生当時62歳。間もなく73歳になろうとしています。私の人生でこの10年をどうとらえたら良いのか。常に考えていますが考えもつきません。予期しなかった事態で人生の7分の1を費やしてしまいました。必用の無い10年でした。汚染・避難で全てを壊され、失いました」と話した。
「避難指示が出されたのが4月11日と発災から1カ月近く遅れたので、避難先の住まいがなかなか見つかりませんでした。仮設住宅も無かった。ほとんどの村民が7月末まで村内に居続けなければなりませんでした。若者を優先的に逃がしたので、高齢者ほど村に残りました。避難する際には当然、スクリーニングをしてくれるものだと思っていましたが、検査をしてくれませんでした。事故対応マニュアルが存在していたのに…。納得出来ません。なぜあんな事になってしまったのか。きちんと裁判の中で答えて欲しいです」
「除染は終わったと国は言いますが宅地と農地だけ。しかし、除染されていない残りの80%に飯舘村の魅力があるんです。山も川も汚染はそのままですし、山菜やキノコを食べる事も出来ません。戻って暮らしたとしても食べられません。汚染は50年100年と続きます。村民はずっと苦しんで活きていかなければなりません。そういう苦悩を分かってもらいたいです」
「あたかも村民が続々と村に戻っているかのような報道もありますが、現実には8割の村民が村を離れて暮らしています(2021年3月1日現在の村内居住者は1481人。2010年12月1日現在の村の人口は6177人だった)。村に戻っても生業が成り立つ見込みがありません。インフラの整備も完了していません。事故前の村の暮らしが出来ないからです。道の駅を建てたり、校舎を新しくしたり、道路を拡げたり…そういう事では村民が暮らせる環境にはなりません」


会見で想いを述べた原告代表の菅野哲さん。「当時は線量の隠匿がなされて村民に情報が伝わらなかった」とも。無用な被曝を強いられた事への怒りは強い
【隠された44・7μSv/h】
きちんと情報が与えられていれば、村民の無用な被曝は避けられたと考える菅野さん。「当時は線量の隠匿がなされて、村民に情報が伝わりませんでした。NHKのテロップで1回だけ44・7μSv/hという数値が放送されましたが、その後はピタリと止まりました。当時の菅野典雄村長が『村民の不安を煽るので線量の公表はしないように』とNHKに抗議したそうです。そういう事実があったと聞いています」と悔しそうに語った。
この「44・7μSv/h」を巡っては、現村長の杉岡誠氏が役場職員だった2018年9月の講演会で次のように生々しく証言している。
「3月14日、福島県庁の依頼で青森県原子力センターの職員がモニタリングポスト(MP)を設置しに来ている、と電話が鳴りました。彼らは白い防護服を着ていました。MPは『いちばん館』前の花壇に設置され、私が1時間おきに数値を確認して福島県庁に報告しました」
「計測を始めた時点での空間線量は約0・09μSv/hでした。それが3月15日に降った雨とともに上昇しました。日が暮れ、雨が雪に変わるとさらに上昇を続け、最高で44・7μSv/hを計測しました。数値の上昇を防災無線で福島県庁に報告しました。当然、屋内退避指示くらいは出されるものと思っていましたが、県職員から返ってきた言葉は『防災計画上、100μSv/hを超えないと避難指示は出せない。数値を30分おきに報告して欲しい』だけでした」
この事1つだけでも、当時の飯舘村民が被曝リスクから守られていなかった事が良く分かる。
会見で「事故前の飯舘村は戻って来ません。至る所にあるのは黒いフレコンバッグかソーラーパネルです。涙が出ます。農地は食糧を供給する大切な土地なんです。残念でなりません」と語った菅野さん。
「福島県には汚染が長期化している場所が実際に存在しているんです。それを国民に知らせないで風評だ風評だと言っているのは許せません。国も東電も事故の責任をとる姿勢が見えません。原陪審の基準に従って賠償金さえ払えばそれで終わりと言わんばかりです。飯舘村という安住の地を破壊してしまった国や東電の責任はきちんと裁判で求めて行きたいです」と決意を口にした。
原発事故は決して終わってなどいないのだ。
(了)
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