【10年目の福島はいま】「〝復興五輪〟の陰で泣いている人がいるのです」 双葉町の語り部が振り返る原発事故10年 「私たちはスタート地点にすら立っていない」
- 2021/03/11
- 05:47
福島県双葉郡双葉町から原発避難を強いられている70代女性は言った。「少なくとも私にとってはスタート地点にも立っていません」─。10日午前、「東日本大震災・原子力災害伝承館」で口演した女性は、原発誘致に胸躍らせ〝安全神話〟を信じた日々、その原発によってバリケードの向こう側に行ってしまったわが家について語った。今日で震災・原発事故から丸10年。だが、原発事故被害に「節目」など無く、〝復興五輪〟や聖火リレーどころではない。「五輪の陰で泣いている人がいる」という当事者の言葉は重い。

【「帰れない場所があるんです」】
「確かに復興が進んでいろいろな建物が出来上がっています。一部分では復興が進んでいるのだろうと思いますが、現に私達のように帰れない場所があるという事を皆さんに知って頂きたいです」
女性は決して〝復興アピール〟などしなかった。双葉に生まれ、双葉で育った。大切な故郷は原発事故で一変した。
「先人は『10年ひと昔』という言葉で時の流れを表現して来ましたが、私たちにとってこの10年がどのようなものであったのか。少なくとも私にとってはスタート地点にも立っていないのではないかと思っています」
「双葉町は96%が帰還困難区域になっています。わが家もそのエリアです。いまだに自由に立ち入る事は出来ません。家の中にある大事な物も自由に持ち出す事は出来ません。当たり前の日常が当たり前でなくなってしまいました。バリケードによって遮断された故郷は見る影も無く荒れ果て、10年の歳月は全ての息遣いを消し去りました。わが家はまるで他の動物の屋敷です」
なぜわが家に自由に入れないのか。言うまでもない。放射能汚染が続いているからだ。
「庭では線量計のアラーム(警告音)が鳴ります。それだけまだ線量が高いという事なのです。放射線は目に見えません。帰りたいですが不安な気持ちもあります。一時帰宅しても1時間ほどで帰ります。自宅の近くをJR常磐線と国道6号線が並行していて車窓から屋根が少しだけ見えますが、自宅の周囲は木々で覆われてしまっています」
一時帰宅の手続きは以前に比べれば簡素化された。しかし、バリケードの存在は変わらない。一時帰宅をする日は施錠されたバリケードを開けてもらって自宅に入り、用事を済ませるとまた施錠してもらう。自分の家に入るのに申請が要る。これが10年後の現実だった。




語り部の女性は言う。「いまだに苦しみは続いています」。原子力緊急事態宣言も解除されていない。「東日本大震災・原子力災害伝承館」では90代町民の「放浪生活の詩」が展示され、双葉駅に隣接する休憩スペース(旧駅舎)のノートには、町民の叫びが綴られている。原発事故10年は「節目」などでは無いのだ
【「人間の過信が招いた事故」】
「『原子力明るい未来のエネルギー』」。かつて街なかに掲げられていた標語です。原子力発電所は絶対に爆発事故は起こさない。いわゆる〝安全神話〟を多くの町民は信じていました。永遠の幸せ、豊かな生活が原発によって約束されたはずでした。私たちが向き合ってきた過酷な現実は自然災害の恐ろしさだけではありません。人間の過信が招いた爆発事故を風化させてはいけません。多くの原発を抱える日本にとって、どこにいても起こり得るのです。未来への教訓として語り継いで行かなければなりません」
2011年3月11日。女性はコタツに入ってくつろいでいた。電力会社の寮でのまかないの仕事。夕食の準備までには少し時間があった。そこに襲いかかった経験した事のない大きな揺れ。だがこの時、原発事故から大量の放射性物質が放出するなど想像だにしなかったという。
「3月12日の朝、町の防災無線で『川俣町に避難してください』と放送が入りました。何のための避難なのか分かりませんでした。原発が爆発するという感覚は無かったのです。その日の夜、町の保健師さんからの説明で事態を少し理解しました。『40歳以下の住民に安定ヨウ素剤を配ります』。何のための避難なのか、少しずつ分かって来ました。絶対的だったはずの安全神話はあっけなく崩れました。私達の日常は一変しました。とりあえずの避難がここまで長期に及ぶとは誰も考えてはいませんでした」
女性はその後、娘の嫁ぎ先である関西へ向かった。具体的には口にしなかったが、嫌な想いもした。「毎年3月11日が近付くと震災関連の番組が組まれ、否応なく当時の映像に心を痛めます。つらい想いは早く忘れたい。家族との会話でも口にする事がタブーとなり、心の奥底に封印して来ました」。
女性は今、隣町の浪江町で暮らしている。「故郷にまた少し近づきました」。原発避難に伴う転居は5回を数えた。そして「自分に出来るのは語り継ぐ事」と語り部を始めた。使命感には、あきらめと希望という相反する想いが横たわっているのだという。




JR常磐線・双葉駅前にも聖火リレーの告知看板が設置され、伝承館のメモリアルイベントでは高村昇館長が凧揚げに興じた。しかし、明るい未来をつくるはずの原発は双葉町民など多くの人々の生活を一変させた
【「原発は『幸せ』招いたか?」】
「次の10年でどのように復興するのか見守って行きたい」と語った女性はしかし、一方で「町民は恐らく、そんなに戻って来ないはずです。避難先で新しい生活が始まっています。震災前の生活に戻るのは絶対に不可能かなと思っています」とも口にした。
「『原子力明るい未来のエネルギー』。あの標語が社会に対する戒めになるのか。今後の復興にどのような道筋を示すのか。興味があります。幸せになるために原発を誘致した。過疎のような小さな町でしたが、自然とともに静かな幸せがそこにはあったのです。原発誘致が本当に人々にとって幸せだったのか。幸せとは何なのか。改めて皆さんには考えていただきたいです」
質疑では、聴衆から「原発政策には賛成か?」と問われ、慎重に言葉を選びながら「反対です」と答えた。
筆者は「復興五輪」や「聖火リレー」について尋ねた。女性は「オリンピックに大きな希望を持っていらっしゃる方もいる。目標に向かって励んでいるアスリートもいる」とした上で次のように答えた。
「私たち原発避難者にとって、オリンピックだの聖火リレーだのと考えている場合なのかなと思います。今の状態で本当に出来るのでしょうか。聖火リレーにしても、ほんの一部を通過するだけ。きちんと現状を伝えて欲しいです。少し足を運んだら帰還困難区域です。そういう実情を世の中の人々には分かって欲しいです。国としては立派に立ち直った姿を国内外にアピールしたいのでしょうが、その陰で泣いている人がいるという事も確か。そういう事を日本人だけでも分かっていただきたいです」
「3・11」の前日という事もあり、座りきれないほどの聴衆が女性の話に聴き入った。最後に女性はこう呼びかけた。
「人間の過信が引き起こした人災による苦しみはいまだに続いています。便利な世の中は本当に人の幸せにつながるのか。そういう事をぜひ考えていただきたいです」
原発の〝安全神話〟を信じ、裏切られ、10年にわたって翻弄されてきた女性だからこその重い言葉だった。
(了)

【「帰れない場所があるんです」】
「確かに復興が進んでいろいろな建物が出来上がっています。一部分では復興が進んでいるのだろうと思いますが、現に私達のように帰れない場所があるという事を皆さんに知って頂きたいです」
女性は決して〝復興アピール〟などしなかった。双葉に生まれ、双葉で育った。大切な故郷は原発事故で一変した。
「先人は『10年ひと昔』という言葉で時の流れを表現して来ましたが、私たちにとってこの10年がどのようなものであったのか。少なくとも私にとってはスタート地点にも立っていないのではないかと思っています」
「双葉町は96%が帰還困難区域になっています。わが家もそのエリアです。いまだに自由に立ち入る事は出来ません。家の中にある大事な物も自由に持ち出す事は出来ません。当たり前の日常が当たり前でなくなってしまいました。バリケードによって遮断された故郷は見る影も無く荒れ果て、10年の歳月は全ての息遣いを消し去りました。わが家はまるで他の動物の屋敷です」
なぜわが家に自由に入れないのか。言うまでもない。放射能汚染が続いているからだ。
「庭では線量計のアラーム(警告音)が鳴ります。それだけまだ線量が高いという事なのです。放射線は目に見えません。帰りたいですが不安な気持ちもあります。一時帰宅しても1時間ほどで帰ります。自宅の近くをJR常磐線と国道6号線が並行していて車窓から屋根が少しだけ見えますが、自宅の周囲は木々で覆われてしまっています」
一時帰宅の手続きは以前に比べれば簡素化された。しかし、バリケードの存在は変わらない。一時帰宅をする日は施錠されたバリケードを開けてもらって自宅に入り、用事を済ませるとまた施錠してもらう。自分の家に入るのに申請が要る。これが10年後の現実だった。




語り部の女性は言う。「いまだに苦しみは続いています」。原子力緊急事態宣言も解除されていない。「東日本大震災・原子力災害伝承館」では90代町民の「放浪生活の詩」が展示され、双葉駅に隣接する休憩スペース(旧駅舎)のノートには、町民の叫びが綴られている。原発事故10年は「節目」などでは無いのだ
【「人間の過信が招いた事故」】
「『原子力明るい未来のエネルギー』」。かつて街なかに掲げられていた標語です。原子力発電所は絶対に爆発事故は起こさない。いわゆる〝安全神話〟を多くの町民は信じていました。永遠の幸せ、豊かな生活が原発によって約束されたはずでした。私たちが向き合ってきた過酷な現実は自然災害の恐ろしさだけではありません。人間の過信が招いた爆発事故を風化させてはいけません。多くの原発を抱える日本にとって、どこにいても起こり得るのです。未来への教訓として語り継いで行かなければなりません」
2011年3月11日。女性はコタツに入ってくつろいでいた。電力会社の寮でのまかないの仕事。夕食の準備までには少し時間があった。そこに襲いかかった経験した事のない大きな揺れ。だがこの時、原発事故から大量の放射性物質が放出するなど想像だにしなかったという。
「3月12日の朝、町の防災無線で『川俣町に避難してください』と放送が入りました。何のための避難なのか分かりませんでした。原発が爆発するという感覚は無かったのです。その日の夜、町の保健師さんからの説明で事態を少し理解しました。『40歳以下の住民に安定ヨウ素剤を配ります』。何のための避難なのか、少しずつ分かって来ました。絶対的だったはずの安全神話はあっけなく崩れました。私達の日常は一変しました。とりあえずの避難がここまで長期に及ぶとは誰も考えてはいませんでした」
女性はその後、娘の嫁ぎ先である関西へ向かった。具体的には口にしなかったが、嫌な想いもした。「毎年3月11日が近付くと震災関連の番組が組まれ、否応なく当時の映像に心を痛めます。つらい想いは早く忘れたい。家族との会話でも口にする事がタブーとなり、心の奥底に封印して来ました」。
女性は今、隣町の浪江町で暮らしている。「故郷にまた少し近づきました」。原発避難に伴う転居は5回を数えた。そして「自分に出来るのは語り継ぐ事」と語り部を始めた。使命感には、あきらめと希望という相反する想いが横たわっているのだという。




JR常磐線・双葉駅前にも聖火リレーの告知看板が設置され、伝承館のメモリアルイベントでは高村昇館長が凧揚げに興じた。しかし、明るい未来をつくるはずの原発は双葉町民など多くの人々の生活を一変させた
【「原発は『幸せ』招いたか?」】
「次の10年でどのように復興するのか見守って行きたい」と語った女性はしかし、一方で「町民は恐らく、そんなに戻って来ないはずです。避難先で新しい生活が始まっています。震災前の生活に戻るのは絶対に不可能かなと思っています」とも口にした。
「『原子力明るい未来のエネルギー』。あの標語が社会に対する戒めになるのか。今後の復興にどのような道筋を示すのか。興味があります。幸せになるために原発を誘致した。過疎のような小さな町でしたが、自然とともに静かな幸せがそこにはあったのです。原発誘致が本当に人々にとって幸せだったのか。幸せとは何なのか。改めて皆さんには考えていただきたいです」
質疑では、聴衆から「原発政策には賛成か?」と問われ、慎重に言葉を選びながら「反対です」と答えた。
筆者は「復興五輪」や「聖火リレー」について尋ねた。女性は「オリンピックに大きな希望を持っていらっしゃる方もいる。目標に向かって励んでいるアスリートもいる」とした上で次のように答えた。
「私たち原発避難者にとって、オリンピックだの聖火リレーだのと考えている場合なのかなと思います。今の状態で本当に出来るのでしょうか。聖火リレーにしても、ほんの一部を通過するだけ。きちんと現状を伝えて欲しいです。少し足を運んだら帰還困難区域です。そういう実情を世の中の人々には分かって欲しいです。国としては立派に立ち直った姿を国内外にアピールしたいのでしょうが、その陰で泣いている人がいるという事も確か。そういう事を日本人だけでも分かっていただきたいです」
「3・11」の前日という事もあり、座りきれないほどの聴衆が女性の話に聴き入った。最後に女性はこう呼びかけた。
「人間の過信が引き起こした人災による苦しみはいまだに続いています。便利な世の中は本当に人の幸せにつながるのか。そういう事をぜひ考えていただきたいです」
原発の〝安全神話〟を信じ、裏切られ、10年にわたって翻弄されてきた女性だからこその重い言葉だった。
(了)
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