【浪江原発訴訟】「人生めちゃくちゃにされた」 原発事故が中学生から奪った工業高校への進学、ものづくり職人の夢~父子が意見陳述(上)
- 2021/03/21
- 20:54
福島県双葉郡浪江町の町民が申し立てた集団ADRでの和解案(慰謝料一律増額)を東京電力が6回にわたって拒否し続けた問題で、浪江町民が国や東電を相手取って起こした「浪江原発訴訟」の第7回口頭弁論が16日午後、福島地裁203号法廷(遠藤東路裁判長)で行われた。原発事故で自宅も生業も進学も将来の夢も奪われた父子が意見陳述。奪われたものの大きさと避難先で味わった苦しみを訴えた。本紙では、2人の意見陳述を2回に分けて伝えたい。まずは当時、中学2年生だった三男の想いを読んでいただきたい。

【何も聞かされず津島へ】
「私は、平成8年(1996年)生まれの24歳です。原発事故当時は14歳でした。裁判の原告になるのは、もちろん初めてです。原告になったのは、私のような当時中学生だった人間の気持ちを知ってもらう機会が欲しかったからです。今日は、私がこれまで受けて来た被害について、お話しさせていただきます」
上野円暉(かずき)さん(24)は自宅で機械の設計や製作をする父親の背中を見て育った。幼い頃からものづくりに目覚め、苅野小から浪江中に進学し、兄たちと同じように小高工業高校に入学しようと考えていた。親父の仕事を継ぐつもりだった。あの日が来るまでは…。
「何が起きたか全く分からないまま、私たち家族と親戚は、浪江高校津島分校に避難する事になりました。最初は2、3日で帰れると考えていました。一時的に安全な場所に身を寄せるだけだと思ったからです」
自宅を離れたのが2011年3月12日。津島分校の体育館は足の踏み場も無いほどだった。ほどなく郡山市内の避難所に移動。5月には郡山市立大槻中学校に編入した。そこで「原発避難者」という有形無形のプレッシャーに直面した。
「ある時、クラスメイトが事前に私が(浪江町からの)避難者だと聞かされていたのだと気づきました。編入する前から避難者という目で見られていたのだと分かり、悲しい気持ちになりました」
「気持ち」だけでは無かった。教科書が無い。隣席の生徒が見せてくれたが、次第に迷惑そうな顔をするようになった。浪江では酒田団地内の公園で野球をしていたのでソフトボール部に入った。しかし、グローブなど持ち出せるはずも無い。
「私は毎日『原発事故で避難してきた人』という現実を突き付けられました。こんな学校生活は、地獄としか言い様がありませんでした」

「中学生だった自分の気持ちを知って欲しい」と法廷に立った上野円暉さん。「口先だけの謝罪は聞き飽きました」と語気を強めた
【奇跡的に友人と再会】
郡山市内の借り上げ住宅で暮らすようになったため、小高工業高校への進学は難しい。住まいの近くには郡山北工業高校があったが、とても通う気持ちになれなかったという。
「その高校の体育館は、私たち家族が身を寄せた避難所の1つだったからです。近くを通るだけで、原発や放射能に怯え、人目にさらされながら冷たい床で寝た事を思いだす場所だったからですそんな場所に3年間も通う事は、とても考えられませんでした」
先の見えない避難生活。受験勉強に集中出来なかった。不安と苦労の連続だったが無事、湖南高校の普通科に合格した。だがしかし、これは幼い頃からの夢だったものづくり、そして親父の背中を追いかける道を絶たれる事を意味していた。原発事故は10代の若者の夢までも奪ったのだ。
「それでも私は全てをリセットするつもりで高校生活をスタートさせました。リセットとは『原発事故で避難して来た人』としてでは無く、『地元の高校生』として高校生活を迎えるという意味です。仲間外れにならないうよう、誰とも分け隔てなく話したり接したりするようにしていました」
すっかり疎遠になってしまった浪江の友達。奇跡的に再開出来た事もあった。
湖南高校ではサッカー部に入った。サッカーが上手な友達と会えるかもしれない、という想いがあったからだった。そして高校3年の夏。強豪校・尚志高校サッカー部に彼と同じ名前があった。浪江から避難して来たという。「心が躍りました」。すぐに連絡先を教えてもらい、再開を果たした。「こんなに気を遣わずに人と話したのは久しぶりでした。その時の私は浪江にいた頃の自分に戻っていたと思います」。
卒業後は、自動車整備工場に就職した。「父のような機械職人になる夢は叶いませんでしたが、ようやくやりたい事に近づいたと感じました」。しかし、ここでも「原発避難者」というレッテルに悩まされる事になる。

母校の苅野小学校も解体が決まった。原発事故は住み慣れた自宅も母校も、将来の夢も奪った
【同僚から「金持ってんだろ」】
職場の同僚の言葉に心が痛んだ。
車の調子が悪い時は「金持ってるんだから新車を買えば良いだろう」と言われた。別の同僚は車の値段を盛んに尋ねてきた。どれだけ中古車であると伝えても信じてもらえなかった。まるで〝賠償金成金〟であるかのように見られていたのだった。
同僚はやがて、無視するようになった。仲間外れにされる事も増えた。もう限界だった。せっかく楽しくなった自動車整備の仕事をわずか3年で辞めた。
「原発事故の被害者は、車に乗ったり普通の生活をしたりしてはいけないのでしょうか。悔しくて仕方ありません。このような経験がトラウマとなり、最近では浪江出身である事を隠すようになりました。やりたい事を探そうとしても心がついていきません。今はアルバイト生活をしています」
もし20代を浪江で過ごせていたら、友達とドライブに行くなどしてたくさんの思い出を作れた。原発避難で、工業高校への進学も機械職人への道も絶たれた。
「原発事故のせいで、私は家族や友達と過ごす日々を奪われ、いまだに将来を描く事が出来ません。これはお金で何とかなるものではありません」
原発事故で奪われたものは金で取り戻す事は出来ない。一方、金で償うより方法が無いのも事実。円暉さんは国や東電への想いを口にして意見陳述を締めくくった。
「国と東電は自分たちで勝手に決めた賠償金を支払い、それで済ませようとしています。浪江の人たちの生活や人生をめちゃくちゃにしておきながら、私達の今後の生活を何も考えていないと思います。口先だけの謝罪は聞き飽きました。国と東電には、当時中学生だった私にもしっかり顔向け出来るような対応を求めます」
息子と入れ替わるように、今度は父親の勝也さん(55)が法廷に立った。
(了)

【何も聞かされず津島へ】
「私は、平成8年(1996年)生まれの24歳です。原発事故当時は14歳でした。裁判の原告になるのは、もちろん初めてです。原告になったのは、私のような当時中学生だった人間の気持ちを知ってもらう機会が欲しかったからです。今日は、私がこれまで受けて来た被害について、お話しさせていただきます」
上野円暉(かずき)さん(24)は自宅で機械の設計や製作をする父親の背中を見て育った。幼い頃からものづくりに目覚め、苅野小から浪江中に進学し、兄たちと同じように小高工業高校に入学しようと考えていた。親父の仕事を継ぐつもりだった。あの日が来るまでは…。
「何が起きたか全く分からないまま、私たち家族と親戚は、浪江高校津島分校に避難する事になりました。最初は2、3日で帰れると考えていました。一時的に安全な場所に身を寄せるだけだと思ったからです」
自宅を離れたのが2011年3月12日。津島分校の体育館は足の踏み場も無いほどだった。ほどなく郡山市内の避難所に移動。5月には郡山市立大槻中学校に編入した。そこで「原発避難者」という有形無形のプレッシャーに直面した。
「ある時、クラスメイトが事前に私が(浪江町からの)避難者だと聞かされていたのだと気づきました。編入する前から避難者という目で見られていたのだと分かり、悲しい気持ちになりました」
「気持ち」だけでは無かった。教科書が無い。隣席の生徒が見せてくれたが、次第に迷惑そうな顔をするようになった。浪江では酒田団地内の公園で野球をしていたのでソフトボール部に入った。しかし、グローブなど持ち出せるはずも無い。
「私は毎日『原発事故で避難してきた人』という現実を突き付けられました。こんな学校生活は、地獄としか言い様がありませんでした」

「中学生だった自分の気持ちを知って欲しい」と法廷に立った上野円暉さん。「口先だけの謝罪は聞き飽きました」と語気を強めた
【奇跡的に友人と再会】
郡山市内の借り上げ住宅で暮らすようになったため、小高工業高校への進学は難しい。住まいの近くには郡山北工業高校があったが、とても通う気持ちになれなかったという。
「その高校の体育館は、私たち家族が身を寄せた避難所の1つだったからです。近くを通るだけで、原発や放射能に怯え、人目にさらされながら冷たい床で寝た事を思いだす場所だったからですそんな場所に3年間も通う事は、とても考えられませんでした」
先の見えない避難生活。受験勉強に集中出来なかった。不安と苦労の連続だったが無事、湖南高校の普通科に合格した。だがしかし、これは幼い頃からの夢だったものづくり、そして親父の背中を追いかける道を絶たれる事を意味していた。原発事故は10代の若者の夢までも奪ったのだ。
「それでも私は全てをリセットするつもりで高校生活をスタートさせました。リセットとは『原発事故で避難して来た人』としてでは無く、『地元の高校生』として高校生活を迎えるという意味です。仲間外れにならないうよう、誰とも分け隔てなく話したり接したりするようにしていました」
すっかり疎遠になってしまった浪江の友達。奇跡的に再開出来た事もあった。
湖南高校ではサッカー部に入った。サッカーが上手な友達と会えるかもしれない、という想いがあったからだった。そして高校3年の夏。強豪校・尚志高校サッカー部に彼と同じ名前があった。浪江から避難して来たという。「心が躍りました」。すぐに連絡先を教えてもらい、再開を果たした。「こんなに気を遣わずに人と話したのは久しぶりでした。その時の私は浪江にいた頃の自分に戻っていたと思います」。
卒業後は、自動車整備工場に就職した。「父のような機械職人になる夢は叶いませんでしたが、ようやくやりたい事に近づいたと感じました」。しかし、ここでも「原発避難者」というレッテルに悩まされる事になる。

母校の苅野小学校も解体が決まった。原発事故は住み慣れた自宅も母校も、将来の夢も奪った
【同僚から「金持ってんだろ」】
職場の同僚の言葉に心が痛んだ。
車の調子が悪い時は「金持ってるんだから新車を買えば良いだろう」と言われた。別の同僚は車の値段を盛んに尋ねてきた。どれだけ中古車であると伝えても信じてもらえなかった。まるで〝賠償金成金〟であるかのように見られていたのだった。
同僚はやがて、無視するようになった。仲間外れにされる事も増えた。もう限界だった。せっかく楽しくなった自動車整備の仕事をわずか3年で辞めた。
「原発事故の被害者は、車に乗ったり普通の生活をしたりしてはいけないのでしょうか。悔しくて仕方ありません。このような経験がトラウマとなり、最近では浪江出身である事を隠すようになりました。やりたい事を探そうとしても心がついていきません。今はアルバイト生活をしています」
もし20代を浪江で過ごせていたら、友達とドライブに行くなどしてたくさんの思い出を作れた。原発避難で、工業高校への進学も機械職人への道も絶たれた。
「原発事故のせいで、私は家族や友達と過ごす日々を奪われ、いまだに将来を描く事が出来ません。これはお金で何とかなるものではありません」
原発事故で奪われたものは金で取り戻す事は出来ない。一方、金で償うより方法が無いのも事実。円暉さんは国や東電への想いを口にして意見陳述を締めくくった。
「国と東電は自分たちで勝手に決めた賠償金を支払い、それで済ませようとしています。浪江の人たちの生活や人生をめちゃくちゃにしておきながら、私達の今後の生活を何も考えていないと思います。口先だけの謝罪は聞き飽きました。国と東電には、当時中学生だった私にもしっかり顔向け出来るような対応を求めます」
息子と入れ替わるように、今度は父親の勝也さん(55)が法廷に立った。
(了)
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