【浪江原発訴訟】「国や東電許せない」 自宅も作業場も奪われた「ものづくり職人」の悔しさと怒り~父子が意見陳述(下)
- 2021/03/23
- 19:28
福島県双葉郡浪江町の町民が申し立てた集団ADRでの和解案(慰謝料一律増額)を東京電力が6回にわたって拒否し続けた問題で、浪江町民が国や東電を相手取って起こした「浪江原発訴訟」の第7回口頭弁論が16日午後、福島地裁203号法廷(遠藤東路裁判長)で行われた。原発事故で自宅も生業も進学も将来の夢も奪われた父子が意見陳述。奪われたものの大きさと避難先で味わった苦しみを訴えた。前号に続き、今回は20年にわたってものづくり職人として汗を流して来た父親の悔しさと怒りを伝えたい。次回口頭弁論期日は6月22日。

【伯父さんも認めた精度】
「今、意見陳述したのは私の三男です。事故当時、中学2年生だった三男も今や成人し、24歳になりました」
円暉(かずき)さんに続いて法廷の真ん中に立ったのは父親の上野勝也さん(55)。「私自身も、原発事故により今まで築き上げてきた仕事、信用、友人とのつながりなど全てを失いました。この10年間何があったか、聞いていただきたいと思います」
幼い頃、ラジコン飛行機を製作する仕事をしていた伯父さんに憧れた。伯父さんの作った大きなラジコン飛行機が田んぼの上を飛んで行く。「こんなすごいものが作れるのか」。ものづくりの道にまい進するきっかけだった。
高校卒業後、製薬会社を経て南相馬市内の精密機械加工会社に就職。金属加工の仕事に没頭した。「23歳の頃には、自宅の納屋をし切って作業場を作りました」。法廷のモニターに写真が映し出される。「こうして私は、25歳の時に念願の独立を果たしました」。
仕事ぶりは口コミで少しずつ広まった。県外からも仕事の依頼が来るようになった。28歳の時、競技用ラジコン飛行機のプロペラを作る時に使う分度器を作った。叔父さんの依頼だった。世界一の精度を目指した。数カ月かけて完成させた。「既製品もありますが、これほど精確なものはありません。目盛りは全て、私が手作業で刻みました」。伯父さんは「ここまでとは…」と驚きの声をあげ、腕を認めてくれた。「ものづくりに憧れるきっかけとなった伯父に認められて本当にうれしかったです」。
それから20年近く、勝也さんは夜遅くまで働いた。「夢が少しずつ具現化してきたと感じていました。そろそろ自分のやりたい仕事一本に絞っていこうと考えていました」。
大好きなものづくりの世界。充実した日々だった。その姿を息子の円暉さんも誇らしく思っていた。しかし、それらは一瞬にして奪われた。手放したのでは無い。奪ったのは、原発事故だった。

息子の円暉さんに続いて意見陳述した上野勝也さん。「いつまでも責任逃れを続ける国と東電を、このまま許す事が出来ない」と語気を強めた。
【「解体しか選択肢無かった」】
「どうすれば仕事を再開出来るか。避難中ずっと、必死に考えていました」
しかし、作業に必要な機械類を避難先に持ち出せるはずが無い。そもそも作業場のある自宅は避難指示区域内にあり、自由な立ち入りさえ出来ない。「放射能に汚染された加工機械で製品を作って良いのか不安でした」。
改めて作業場を借り、機械類を購入し直す事も考えた。しかし、機械一式揃えるには中古でも700万円ほどかかる。始まったばかりの避難生活。そんな投資は出来ない。「浪江の人は賠償金をたくさんもらっているから働く必要無いだろう」と言われた事もあった。心臓などに持病があり、再就職も難しい。「ものづくり」が徐々に遠ざかっていった。
2017年3月末、自宅のある地域の避難指示が解除されたが「すぐに戻る気持ちになれませんでした。自宅周辺の放射線量は、いつ測っても高いままでした」。
決断を迫ったのは環境省だった。「2020年1月までに申し込めば公費で自宅を解体してやる」。なぜ原発事故被害者が国の都合で選択しなければいけないのか。しかも、自宅を解体すれば作業場も失う。幼い頃からの夢だった、ものづくりの仕事をあきらめざるを得ない。「私にはもう、自宅を取り壊す以外の選択肢はありませんでした」。
モニターには、解体前の自宅やさら地になった写真が映し出された。「夢を追った日々を思い出しながら撮りました。私と子どもたちの夢が詰まった作業場もなくなってしまいました」。生活がすっかり変わってしまい「まるで他人の人生を生きているようです」と述べた。使い慣れた機械を廃棄するのは心苦しく業者に買い取りを依頼したが、わずか数万円の値しかつかなかったという。
「今日ここに立っているのは、いつまでも責任逃れを続ける国と東電を、このまま許す事が出来ないからです」と語気を強めた勝也さん。こう意見陳述を締めくくった。
「私たちの穏やかな日常と張り合いのある日々を、どうか返してください。それが一番の願いです」
金では無いのだ。

法廷のモニターに映し出された上野さんの自宅。作業場も含めて断腸の思いで解体せざるを得なかった
【「悔しさぶつけること大事」】
閉廷後の集会で、円暉さんは「うまく陳述出来たかな。想いを伝えられる良いきっかけになったと思う」と振り返った。「若い原告が少ないという事なので、浪江の友達にも少しずつ声をかけていきたい」。
父親の勝也さんは「思いの外、緊張しました。とりあえずホッとしています。人前で話すのが得意では無いので(想いが)うまく伝わったか分からないが、弁護士の方々が助けてくれました。悔しいし、どうしようもない怒りがあります。それは他の原告の皆さんも同じでしょう。それをぶつける事も大事だと思います」と語った。「意見陳述した事で、少しですけど気持ちが楽になりました」。
「とにかく楽しいです。ものづくりって」と話した勝也さん。本来なら浪江で父子2人、ものづくりに励んでいるはずだったが、原発事故が壊してしまった。勝也さんの手元に残っているのは「世界一精確な分度器」など、わずかな製品のみ。これが放射性物質の大量拡散がもたらした現実だ。
弁護団によると、この日までに28世帯51人が追加提訴(第7次提訴)。原告数は308世帯721人に増えた。
次回口頭弁論期日は6月22日14時。遠藤東路裁判長を含む2人の裁判官が今月いっぱいで他裁判所に異動するため、次回は原告、被告双方が主張をプレゼン(弁論の更新)。終了は16時頃の予定だ。
原発事故被害者に〝10年の節目〟など無い。国や東電が被害者と向き合い責任を果たしていれば法廷で争う必要も無いが、残念ながら闘いはまだまだ続く。これは〝復興五輪〟では伝えられない。
(了)

【伯父さんも認めた精度】
「今、意見陳述したのは私の三男です。事故当時、中学2年生だった三男も今や成人し、24歳になりました」
円暉(かずき)さんに続いて法廷の真ん中に立ったのは父親の上野勝也さん(55)。「私自身も、原発事故により今まで築き上げてきた仕事、信用、友人とのつながりなど全てを失いました。この10年間何があったか、聞いていただきたいと思います」
幼い頃、ラジコン飛行機を製作する仕事をしていた伯父さんに憧れた。伯父さんの作った大きなラジコン飛行機が田んぼの上を飛んで行く。「こんなすごいものが作れるのか」。ものづくりの道にまい進するきっかけだった。
高校卒業後、製薬会社を経て南相馬市内の精密機械加工会社に就職。金属加工の仕事に没頭した。「23歳の頃には、自宅の納屋をし切って作業場を作りました」。法廷のモニターに写真が映し出される。「こうして私は、25歳の時に念願の独立を果たしました」。
仕事ぶりは口コミで少しずつ広まった。県外からも仕事の依頼が来るようになった。28歳の時、競技用ラジコン飛行機のプロペラを作る時に使う分度器を作った。叔父さんの依頼だった。世界一の精度を目指した。数カ月かけて完成させた。「既製品もありますが、これほど精確なものはありません。目盛りは全て、私が手作業で刻みました」。伯父さんは「ここまでとは…」と驚きの声をあげ、腕を認めてくれた。「ものづくりに憧れるきっかけとなった伯父に認められて本当にうれしかったです」。
それから20年近く、勝也さんは夜遅くまで働いた。「夢が少しずつ具現化してきたと感じていました。そろそろ自分のやりたい仕事一本に絞っていこうと考えていました」。
大好きなものづくりの世界。充実した日々だった。その姿を息子の円暉さんも誇らしく思っていた。しかし、それらは一瞬にして奪われた。手放したのでは無い。奪ったのは、原発事故だった。

息子の円暉さんに続いて意見陳述した上野勝也さん。「いつまでも責任逃れを続ける国と東電を、このまま許す事が出来ない」と語気を強めた。
【「解体しか選択肢無かった」】
「どうすれば仕事を再開出来るか。避難中ずっと、必死に考えていました」
しかし、作業に必要な機械類を避難先に持ち出せるはずが無い。そもそも作業場のある自宅は避難指示区域内にあり、自由な立ち入りさえ出来ない。「放射能に汚染された加工機械で製品を作って良いのか不安でした」。
改めて作業場を借り、機械類を購入し直す事も考えた。しかし、機械一式揃えるには中古でも700万円ほどかかる。始まったばかりの避難生活。そんな投資は出来ない。「浪江の人は賠償金をたくさんもらっているから働く必要無いだろう」と言われた事もあった。心臓などに持病があり、再就職も難しい。「ものづくり」が徐々に遠ざかっていった。
2017年3月末、自宅のある地域の避難指示が解除されたが「すぐに戻る気持ちになれませんでした。自宅周辺の放射線量は、いつ測っても高いままでした」。
決断を迫ったのは環境省だった。「2020年1月までに申し込めば公費で自宅を解体してやる」。なぜ原発事故被害者が国の都合で選択しなければいけないのか。しかも、自宅を解体すれば作業場も失う。幼い頃からの夢だった、ものづくりの仕事をあきらめざるを得ない。「私にはもう、自宅を取り壊す以外の選択肢はありませんでした」。
モニターには、解体前の自宅やさら地になった写真が映し出された。「夢を追った日々を思い出しながら撮りました。私と子どもたちの夢が詰まった作業場もなくなってしまいました」。生活がすっかり変わってしまい「まるで他人の人生を生きているようです」と述べた。使い慣れた機械を廃棄するのは心苦しく業者に買い取りを依頼したが、わずか数万円の値しかつかなかったという。
「今日ここに立っているのは、いつまでも責任逃れを続ける国と東電を、このまま許す事が出来ないからです」と語気を強めた勝也さん。こう意見陳述を締めくくった。
「私たちの穏やかな日常と張り合いのある日々を、どうか返してください。それが一番の願いです」
金では無いのだ。

法廷のモニターに映し出された上野さんの自宅。作業場も含めて断腸の思いで解体せざるを得なかった
【「悔しさぶつけること大事」】
閉廷後の集会で、円暉さんは「うまく陳述出来たかな。想いを伝えられる良いきっかけになったと思う」と振り返った。「若い原告が少ないという事なので、浪江の友達にも少しずつ声をかけていきたい」。
父親の勝也さんは「思いの外、緊張しました。とりあえずホッとしています。人前で話すのが得意では無いので(想いが)うまく伝わったか分からないが、弁護士の方々が助けてくれました。悔しいし、どうしようもない怒りがあります。それは他の原告の皆さんも同じでしょう。それをぶつける事も大事だと思います」と語った。「意見陳述した事で、少しですけど気持ちが楽になりました」。
「とにかく楽しいです。ものづくりって」と話した勝也さん。本来なら浪江で父子2人、ものづくりに励んでいるはずだったが、原発事故が壊してしまった。勝也さんの手元に残っているのは「世界一精確な分度器」など、わずかな製品のみ。これが放射性物質の大量拡散がもたらした現実だ。
弁護団によると、この日までに28世帯51人が追加提訴(第7次提訴)。原告数は308世帯721人に増えた。
次回口頭弁論期日は6月22日14時。遠藤東路裁判長を含む2人の裁判官が今月いっぱいで他裁判所に異動するため、次回は原告、被告双方が主張をプレゼン(弁論の更新)。終了は16時頃の予定だ。
原発事故被害者に〝10年の節目〟など無い。国や東電が被害者と向き合い責任を果たしていれば法廷で争う必要も無いが、残念ながら闘いはまだまだ続く。これは〝復興五輪〟では伝えられない。
(了)
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