【福島原発かながわ訴訟】5世帯16人が横浜地裁に第2陣提訴 国と東電に避難慰謝料など正当な被害救済求める
- 2021/09/04
- 06:57
2011年3月の福島第一原発事故で福島県から神奈川県に避難した人々が、事故の原因と責任の所在を明らかにすることや完全賠償を求めて起こした「福島原発かながわ訴訟」。第2陣として5世帯16人が3日午後、横浜地裁に提訴した。避難慰謝料など計1億6126万円の支払いを求めている。事故発生から間もなく10年半。世間では風化が進み、国も福島県も「原発事故は終わった話」と言わんばかりの姿勢だが、原告たちにとって事故は現在進行形なのだ。来年にも始まる弁論期日では、被曝リスクから逃れるための避難で生じた様々な精神的苦痛を主張していく。

【「負担考慮し一部請求」】
弁護団事務局長の黒澤知弘弁護士によると、5世帯のうち、2世帯が政府の避難指示が出された区域(福島県南相馬市小高区)からの避難者で、3世帯が避難指示区域外(福島県福島市、川俣町、南相馬市原町区)。現在は神奈川県内外で暮らしているという。
第1陣(2013年9月11日提訴、2019年2月20日一審判決)は、慰謝料のほかに不動産損害や就労不能損害など個別に損害賠償も求めたが、今回は精神的慰謝料のみを請求。「避難慰謝料」と「ふるさと喪失・生活破壊慰謝料」として、避難指示区域内の原告は1人1000万円、区域外の原告は1人500万円を支払うよう求めている。原発事故がもたらした被害を考えれば請求金額は低いが、原告の負担も考慮したという。
「本来であれば、第1陣と同じように『避難慰謝料』は月額35万円、『ふるさと喪失・生活破壊慰謝料』は2000万円を請求したいところですが、裁判所における印紙代等を考えると一部請求にとどめて訴訟を進めていくしかない。ある意味苦渋の決断としての請求金額です」(黒澤弁護士)
提訴後の記者会見で、第1陣の原告団長を務める村田弘さん(福島県南相馬市小高区から避難継続中)は「10年前がよみがえりました」と時折、涙を浮かべながら、第2陣の原告たちに語りかけた。
「第1陣は7月に東京高裁で7回目の口頭弁論を終えたところです。一審の横浜地裁では一定の判決(2019年2月)をいただいて、私たちの主張も一定程度認められたと考えていますが、まだ被害の実態に見合った損害賠償について足りないところがある。10年経っても何も変わっていないのです。変わったのは政治であり世の中の目線。それだけが変わっていて、被害者は依然として水面下で耐えています。全国では1万3000人の仲間が司法の場で闘っています。皆さんは決して孤立してはいません。一緒に正しいことを訴えていきましょう」

提訴後の記者会見で想いを語った原告の女性。「山の除染ができていないから雨が降れば放射線量が上がる。帰るのは恐い」と話した=日本大通ビル「パークホール」
【「山の除染できていない」】
会見では、福島県川俣町から子どもと母子避難した女性が想いを語った。「子どもと私とで自主的に避難させていただいています」という言葉に、避難指示が出されなかった区域からの避難者がいかに「避難の権利」が認められて来なかったかが伺える。
「10年という区切りでどうして今、提訴するのかと思われるかもしれません。でも、私のなかでは10年ってそんなに長い歳月が経っていると感じているわけではなくて、子どもと日々、避難生活を送るなかで、周囲の目を気にしながら忙しく生活して来たのかなと思っています。これまで私が抱いて来た想いを発する機会があれば良いなと思って、遅めではありますが参加させていただくことになりました」
周囲からの視線を意識しながら、避難先で子どもたちを育ててきた。実家の祖父母からは「いつ帰って来る?」と何度も尋ねられた。夫は仕事の都合で一緒に避難できず、家族はバラバラになった。それでもやはり、被曝リスクから遠ざかることを選んだ。一方、国も福島県も「除染で空間線量が下がったのだから戻れ」の一点張り。区域外避難者への住宅無償提供は早々に打ち切られ、いまや福島県が国家公務員宿舎から退去できずにいる県民に対し〝追い出し訴訟〟を起こすほどだ。
「川俣町もあちらこちらにモニタリングポストが設置され、形的には『このくらいの数値なら大丈夫ですよ』となっています。でも山の除染ができていないので、自宅の周囲を除染してもらっても雨が降ったり風が吹いたりすると空間線量が上がってしまいます。実際、住んでいる方も疑問に感じている。帰るのは恐いかな」
別の原告も「ホットスポットがまだまだあるんですよ」とつぶやいた。被爆リスクへの想いも今後、法廷で訴えていく。

別の原告の想いは弁護士が代読した。「声があげられず、つらい気持ちを1人で抱えている方全員が救済されて欲しい」
【「全員を救済して欲しい」】
福島市から2人の子どもと〝自主避難〟した女性原告は、メッセージを弁護士が代読した。
「原発事故直後、『特に放射線の問題はないです』というような報道ばかりでした。そのため子どもを山で遊ばせたり、何の対策もせずに外出させたりしてしまいました。子どもたちには、いろいろ危険なことをさせてしまったと今でも大変後悔しています。せめて原発近くの人たちと同じように危険だと知らせてもらえていたら、被曝も最小限で済んだのにと思っています」
時間が経つにつれて、さまざまな「注意事項」が発表された。外出はなるべく減らしましょう、夏でも長袖にマスク姿で生活しましょう…。「私たちの日常は大きく変わりました。同時に、このような場所に住み続けて良いのだろうかと不安は大きくなるばかりでした」。そして女性は、子どもを連れて福島市を離れた。
「上の子は受験があってすぐには避難できず、私と下の子だけが関東に避難しました。しかし、母子2人だけの避難生活は、本当につらいものでした。私たちは〝自主避難者〟。つまり『勝手に避難した』という扱いをされてきました。そのため、私自身も無意識のうちにそう思い込んでしまい、心が委縮し、生活が苦しくても誰にも相談できませんでした。今でも気持ちは張りつめていて、眠りが浅い日々です」
本来、被曝リスクから逃れる権利に「政府の避難指示が出ているか否か」は関係ない。放射性物質は政府の線引き通りに拡散されたわけではない。だからこそ、原告の女性はこんな言葉でメッセージをしめくくった。
「声があげられず、私と同じようにつらい気持ちを1人で抱えている方も大勢いると思います。私だけでなく全員が救済されて欲しい」
第1回口頭弁論は来年になる見通し。原発避難者、特に区域外避難者は訴訟を起こさなければ救済されないのもまた、原発事故の理不尽さなのだ。
(了)

【「負担考慮し一部請求」】
弁護団事務局長の黒澤知弘弁護士によると、5世帯のうち、2世帯が政府の避難指示が出された区域(福島県南相馬市小高区)からの避難者で、3世帯が避難指示区域外(福島県福島市、川俣町、南相馬市原町区)。現在は神奈川県内外で暮らしているという。
第1陣(2013年9月11日提訴、2019年2月20日一審判決)は、慰謝料のほかに不動産損害や就労不能損害など個別に損害賠償も求めたが、今回は精神的慰謝料のみを請求。「避難慰謝料」と「ふるさと喪失・生活破壊慰謝料」として、避難指示区域内の原告は1人1000万円、区域外の原告は1人500万円を支払うよう求めている。原発事故がもたらした被害を考えれば請求金額は低いが、原告の負担も考慮したという。
「本来であれば、第1陣と同じように『避難慰謝料』は月額35万円、『ふるさと喪失・生活破壊慰謝料』は2000万円を請求したいところですが、裁判所における印紙代等を考えると一部請求にとどめて訴訟を進めていくしかない。ある意味苦渋の決断としての請求金額です」(黒澤弁護士)
提訴後の記者会見で、第1陣の原告団長を務める村田弘さん(福島県南相馬市小高区から避難継続中)は「10年前がよみがえりました」と時折、涙を浮かべながら、第2陣の原告たちに語りかけた。
「第1陣は7月に東京高裁で7回目の口頭弁論を終えたところです。一審の横浜地裁では一定の判決(2019年2月)をいただいて、私たちの主張も一定程度認められたと考えていますが、まだ被害の実態に見合った損害賠償について足りないところがある。10年経っても何も変わっていないのです。変わったのは政治であり世の中の目線。それだけが変わっていて、被害者は依然として水面下で耐えています。全国では1万3000人の仲間が司法の場で闘っています。皆さんは決して孤立してはいません。一緒に正しいことを訴えていきましょう」

提訴後の記者会見で想いを語った原告の女性。「山の除染ができていないから雨が降れば放射線量が上がる。帰るのは恐い」と話した=日本大通ビル「パークホール」
【「山の除染できていない」】
会見では、福島県川俣町から子どもと母子避難した女性が想いを語った。「子どもと私とで自主的に避難させていただいています」という言葉に、避難指示が出されなかった区域からの避難者がいかに「避難の権利」が認められて来なかったかが伺える。
「10年という区切りでどうして今、提訴するのかと思われるかもしれません。でも、私のなかでは10年ってそんなに長い歳月が経っていると感じているわけではなくて、子どもと日々、避難生活を送るなかで、周囲の目を気にしながら忙しく生活して来たのかなと思っています。これまで私が抱いて来た想いを発する機会があれば良いなと思って、遅めではありますが参加させていただくことになりました」
周囲からの視線を意識しながら、避難先で子どもたちを育ててきた。実家の祖父母からは「いつ帰って来る?」と何度も尋ねられた。夫は仕事の都合で一緒に避難できず、家族はバラバラになった。それでもやはり、被曝リスクから遠ざかることを選んだ。一方、国も福島県も「除染で空間線量が下がったのだから戻れ」の一点張り。区域外避難者への住宅無償提供は早々に打ち切られ、いまや福島県が国家公務員宿舎から退去できずにいる県民に対し〝追い出し訴訟〟を起こすほどだ。
「川俣町もあちらこちらにモニタリングポストが設置され、形的には『このくらいの数値なら大丈夫ですよ』となっています。でも山の除染ができていないので、自宅の周囲を除染してもらっても雨が降ったり風が吹いたりすると空間線量が上がってしまいます。実際、住んでいる方も疑問に感じている。帰るのは恐いかな」
別の原告も「ホットスポットがまだまだあるんですよ」とつぶやいた。被爆リスクへの想いも今後、法廷で訴えていく。

別の原告の想いは弁護士が代読した。「声があげられず、つらい気持ちを1人で抱えている方全員が救済されて欲しい」
【「全員を救済して欲しい」】
福島市から2人の子どもと〝自主避難〟した女性原告は、メッセージを弁護士が代読した。
「原発事故直後、『特に放射線の問題はないです』というような報道ばかりでした。そのため子どもを山で遊ばせたり、何の対策もせずに外出させたりしてしまいました。子どもたちには、いろいろ危険なことをさせてしまったと今でも大変後悔しています。せめて原発近くの人たちと同じように危険だと知らせてもらえていたら、被曝も最小限で済んだのにと思っています」
時間が経つにつれて、さまざまな「注意事項」が発表された。外出はなるべく減らしましょう、夏でも長袖にマスク姿で生活しましょう…。「私たちの日常は大きく変わりました。同時に、このような場所に住み続けて良いのだろうかと不安は大きくなるばかりでした」。そして女性は、子どもを連れて福島市を離れた。
「上の子は受験があってすぐには避難できず、私と下の子だけが関東に避難しました。しかし、母子2人だけの避難生活は、本当につらいものでした。私たちは〝自主避難者〟。つまり『勝手に避難した』という扱いをされてきました。そのため、私自身も無意識のうちにそう思い込んでしまい、心が委縮し、生活が苦しくても誰にも相談できませんでした。今でも気持ちは張りつめていて、眠りが浅い日々です」
本来、被曝リスクから逃れる権利に「政府の避難指示が出ているか否か」は関係ない。放射性物質は政府の線引き通りに拡散されたわけではない。だからこそ、原告の女性はこんな言葉でメッセージをしめくくった。
「声があげられず、私と同じようにつらい気持ちを1人で抱えている方も大勢いると思います。私だけでなく全員が救済されて欲しい」
第1回口頭弁論は来年になる見通し。原発避難者、特に区域外避難者は訴訟を起こさなければ救済されないのもまた、原発事故の理不尽さなのだ。
(了)
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