【11年目の区域外避難者はいま】「原発を推進してきた世代が声あげて」 福島県伊達市から新潟県湯沢町に避難した高校生が長岡市で講演
- 2022/03/15
- 07:30
2011年3月の福島第一原発事故で福島県伊達市から新潟県湯沢町に〝区域外避難〟(いわゆる自主避難)した高校2年生・曽根俊太郎さん(17)=新潟県立六日町高校=が13日夜、新潟県長岡市内で講演し、「騙されたあなたにも責任がある。原発について思うところや反対の意思があるのなら声に出していくことが大切」、「これからは伝えていく立場になれたら良いな」などと語った。小学校入学直前に被災。すぐに湯沢町に移り住んで11年が経った。東京電力柏崎刈羽原発を抱える新潟の人々にとって、原発避難は他人事ではない。これからも〝安全神話〟に寄りかかって原子力発電を続けるのか。曽根さんは聴衆を前に「僕は反対です」ときっぱりと言った。

【「誰も事故の責任とらない」】
曽根さんは「ここまで言っちゃって良いのかな?」という表情を浮かべながら、しかしきっぱりと言い切った。
「原子力発電には反対です。〝未来のエネルギー〟として国策で進められてきたのに、いざ事故が起きたら誰も責任をとらない。皆さんの世代が推し進めてきたのです。原発事故が起きるまで気づかなかった人もいるし、国策として進められてきたのだから騙されても仕方ないかもしれません。でも、騙されたあなたにも責任があるのです。それを大人の世代には伝えたいです。原発について思うところや反対の意思があるのなら、しっかりと声に出していくことが大切だと思います。もちろん学生もです。悪いと思ったことは悪いと言う。発言すること、誰かに伝えることの大切さをこれからも伝えていきたいです」
6歳(幼稚園の年長)で被災し、故郷を離れて11年。「過酷事故は絶対に起きない」と言い続けてきた大人は、誰か責任をとっただろうか。それどころか、自分のような〝区域外避難者〟(いわゆる自主避難者)に対する住宅の無償提供を2017年3月末で打ち切るなど、十分な救済とはほど遠いではないか…。そんな怒りがこめられた言葉だった。
あの日は幼稚園にいた。
「原発事故が僕のなかでの分岐点だったと思います。当時は年長さん。2週間後に卒園式が迫っていました。両親はチェルノブイリ原発事故で学んでいたので、一週間ほどは、一歩も屋外に出ないよう僕に言いました。目張りもして僕たち兄弟を守ってくれました。その後、すぐに新潟県に移動。湯沢町に受け入れてもらって11年間、過ごさせてもらっています。卒園式に出席するためにいったん戻りましたが、それ以降はずっと湯沢町です」
母と一緒に訪れた集会や講演会で様々な出会いがあったという。
「ひとつが『市民のための自由なラジオ』。それを聴くようになり、原発や核について関心を抱くようになりました。もうひとつは木内みどりさんです。湯沢町の苗場では毎年、フジロックフェスティバルが開かれています。そのなかに『アトミックカフェ』というのがあって、2015年にゲストに来たみどりさんと出会いました。『夏休み長いでしょ?うちに来ない?』と声をかけてもらって、交流が始まりました。東京のご自宅にお邪魔して、いろいろなところに連れて行ってもらいました。みどりさんは最も尊敬できる方です。一緒にいるときは政治的な話は一切しませんでした。自分で動いて発言する姿を僕に見せてくれました。僕も自分にできることはないかと考え、こういう活動をしています」


福島県の中通りに位置する伊達市でも、公式発表で空間線量率は7マイクロシーベルトを超えた。曽根さんの両親はすぐに動いたが、伊達市長は「健康に影響がない状況」とアナウンスし続けた
【「これからは伝える立場」】
昨夏から、第24代高校生平和大使の新潟県代表として活動している。
「今まではいろいろな方のお話しを聴く側でした。これからは、伝えていく立場になれたら良いなと考えました。自分の声が届くような機会がないかなと探していたときにたまたま目にして、高校生平和大使に応募しました」
「高校生平和大使は1998年、インドとパキスタンが相次いで核実験を行ったのを機に、被爆地・広島長崎の声を世界に届けるために長崎の団体が国連に女子高生を派遣したのが始まりです。毎年、全国から選ばれた高校生をスイス・ジュネーブにある国連欧州本部に派遣しています。現在、僕も含めて全国に35人の高校生平和大使が活動しています。新潟県からも毎年、高校生平和大使が選ばれています。新潟では僕で7代目です」
大使としての主な活動に、核兵器廃絶と平和な世界の実現をめざす「高校生1万人署名」がある。集めた署名は国連に届けられる。現在、200万筆を超えたが、コロナ禍で活動は制限されているという。
「新型コロナウイスルの影響で、ジュネーブに行かれていません。広島での結団式も本来は6月なのですが、昨年12月にようやくできました。その前の8月5日から9日にかけて長崎を訪れました。被爆体験をお話ししていただきました」
講演会の開始前、控え室で「帰還」について尋ねると「帰る気はないです」と即答した。
「理由?安全じゃないからです。僕たちが住んでいた頃の状態に戻るには、たぶん100年以上かかる。原発事故以前の状態にはたぶん戻らないだろうと思います。それに、僕は6歳から11年間、湯沢町で暮らしてきました。もはや新潟での暮らしの方が長いんですよね」
福島県の内堀雅雄知事による区域外避難者切り捨て施策は、17歳の目にはどのように映っているのだろうか。
「初めは湯沢町内のマンション(借り上げ住宅)に入居していました。住宅の無償提供が打ち切られたので、自費で民間賃貸住宅に移りました。僕の場合は両親が頑張ってくれましたが、避難者全員がそうできるわけではないですよね。住み慣れた土地を出て、縁もゆかりもない場所に突然、行くことになって…。11年って長いようだけど必死に過ごした11年間だったと思います」


講演会や上映会が行われた新潟県長岡市は、東京電力柏崎刈羽原発から25km圏内に長岡駅などが含まれる。万が一過酷事故が起これば被曝リスクに直面する。曽根さんの話は他人事ではない(写真は刈羽村内で撮影)
【他人事でない原発避難】
講演会は、五藤利弘監督の映画「ほうきに願いを」上映会(長岡アジア映画祭実行委員会!主催)の中で行われた。
映画は震災後の栃木県鹿沼市が舞台。宮城県から鹿沼市に移り住んだ母娘と、彼女たちを見守るほうき職人の物語。鹿沼市は原発事故後に全村避難となった飯舘村の人々を受け入れた。
映画では福島とのかかわりは描かれていないが、佐藤信市長はパンフレットに寄せた文章のなかで「飯舘村の方々と過ごした日々は、つい昨日のことのように鮮明に覚えています。避難された皆さん誰もが大きな衝撃の後遺症を抱えつつ、先の見えない不安な日々を送られた中で少しでも力になれば、との思いでお世話させていただきました」と振り返っている。
上映会に先立ち、柏崎市議の飯塚寿之さんらでつくるバンド「ウィズ コーション」が演奏。福島から新潟県内に区域外避難した家族をモデルにした「福島の明日に架ける橋」などを披露した。歌詞は、福島県富岡町から柏崎市内に避難した佐藤紫華子さんの詩集「原発難民の詩」に盛り込まれた言葉を紡いだという。
講演会や上映会が行われた新潟県長岡市は、東京電力柏崎刈羽原発から25km圏内に長岡駅などが含まれる。万が一過酷事故が起これば被曝リスクに直面する。原発避難は他人事ではない。私たちもいつ、曽根さんのように住み慣れた土地を追われるかもしれない。まずは関心を抱き、当事者の声に耳を傾けることから始めたい。
(了)

【「誰も事故の責任とらない」】
曽根さんは「ここまで言っちゃって良いのかな?」という表情を浮かべながら、しかしきっぱりと言い切った。
「原子力発電には反対です。〝未来のエネルギー〟として国策で進められてきたのに、いざ事故が起きたら誰も責任をとらない。皆さんの世代が推し進めてきたのです。原発事故が起きるまで気づかなかった人もいるし、国策として進められてきたのだから騙されても仕方ないかもしれません。でも、騙されたあなたにも責任があるのです。それを大人の世代には伝えたいです。原発について思うところや反対の意思があるのなら、しっかりと声に出していくことが大切だと思います。もちろん学生もです。悪いと思ったことは悪いと言う。発言すること、誰かに伝えることの大切さをこれからも伝えていきたいです」
6歳(幼稚園の年長)で被災し、故郷を離れて11年。「過酷事故は絶対に起きない」と言い続けてきた大人は、誰か責任をとっただろうか。それどころか、自分のような〝区域外避難者〟(いわゆる自主避難者)に対する住宅の無償提供を2017年3月末で打ち切るなど、十分な救済とはほど遠いではないか…。そんな怒りがこめられた言葉だった。
あの日は幼稚園にいた。
「原発事故が僕のなかでの分岐点だったと思います。当時は年長さん。2週間後に卒園式が迫っていました。両親はチェルノブイリ原発事故で学んでいたので、一週間ほどは、一歩も屋外に出ないよう僕に言いました。目張りもして僕たち兄弟を守ってくれました。その後、すぐに新潟県に移動。湯沢町に受け入れてもらって11年間、過ごさせてもらっています。卒園式に出席するためにいったん戻りましたが、それ以降はずっと湯沢町です」
母と一緒に訪れた集会や講演会で様々な出会いがあったという。
「ひとつが『市民のための自由なラジオ』。それを聴くようになり、原発や核について関心を抱くようになりました。もうひとつは木内みどりさんです。湯沢町の苗場では毎年、フジロックフェスティバルが開かれています。そのなかに『アトミックカフェ』というのがあって、2015年にゲストに来たみどりさんと出会いました。『夏休み長いでしょ?うちに来ない?』と声をかけてもらって、交流が始まりました。東京のご自宅にお邪魔して、いろいろなところに連れて行ってもらいました。みどりさんは最も尊敬できる方です。一緒にいるときは政治的な話は一切しませんでした。自分で動いて発言する姿を僕に見せてくれました。僕も自分にできることはないかと考え、こういう活動をしています」


福島県の中通りに位置する伊達市でも、公式発表で空間線量率は7マイクロシーベルトを超えた。曽根さんの両親はすぐに動いたが、伊達市長は「健康に影響がない状況」とアナウンスし続けた
【「これからは伝える立場」】
昨夏から、第24代高校生平和大使の新潟県代表として活動している。
「今まではいろいろな方のお話しを聴く側でした。これからは、伝えていく立場になれたら良いなと考えました。自分の声が届くような機会がないかなと探していたときにたまたま目にして、高校生平和大使に応募しました」
「高校生平和大使は1998年、インドとパキスタンが相次いで核実験を行ったのを機に、被爆地・広島長崎の声を世界に届けるために長崎の団体が国連に女子高生を派遣したのが始まりです。毎年、全国から選ばれた高校生をスイス・ジュネーブにある国連欧州本部に派遣しています。現在、僕も含めて全国に35人の高校生平和大使が活動しています。新潟県からも毎年、高校生平和大使が選ばれています。新潟では僕で7代目です」
大使としての主な活動に、核兵器廃絶と平和な世界の実現をめざす「高校生1万人署名」がある。集めた署名は国連に届けられる。現在、200万筆を超えたが、コロナ禍で活動は制限されているという。
「新型コロナウイスルの影響で、ジュネーブに行かれていません。広島での結団式も本来は6月なのですが、昨年12月にようやくできました。その前の8月5日から9日にかけて長崎を訪れました。被爆体験をお話ししていただきました」
講演会の開始前、控え室で「帰還」について尋ねると「帰る気はないです」と即答した。
「理由?安全じゃないからです。僕たちが住んでいた頃の状態に戻るには、たぶん100年以上かかる。原発事故以前の状態にはたぶん戻らないだろうと思います。それに、僕は6歳から11年間、湯沢町で暮らしてきました。もはや新潟での暮らしの方が長いんですよね」
福島県の内堀雅雄知事による区域外避難者切り捨て施策は、17歳の目にはどのように映っているのだろうか。
「初めは湯沢町内のマンション(借り上げ住宅)に入居していました。住宅の無償提供が打ち切られたので、自費で民間賃貸住宅に移りました。僕の場合は両親が頑張ってくれましたが、避難者全員がそうできるわけではないですよね。住み慣れた土地を出て、縁もゆかりもない場所に突然、行くことになって…。11年って長いようだけど必死に過ごした11年間だったと思います」


講演会や上映会が行われた新潟県長岡市は、東京電力柏崎刈羽原発から25km圏内に長岡駅などが含まれる。万が一過酷事故が起これば被曝リスクに直面する。曽根さんの話は他人事ではない(写真は刈羽村内で撮影)
【他人事でない原発避難】
講演会は、五藤利弘監督の映画「ほうきに願いを」上映会(長岡アジア映画祭実行委員会!主催)の中で行われた。
映画は震災後の栃木県鹿沼市が舞台。宮城県から鹿沼市に移り住んだ母娘と、彼女たちを見守るほうき職人の物語。鹿沼市は原発事故後に全村避難となった飯舘村の人々を受け入れた。
映画では福島とのかかわりは描かれていないが、佐藤信市長はパンフレットに寄せた文章のなかで「飯舘村の方々と過ごした日々は、つい昨日のことのように鮮明に覚えています。避難された皆さん誰もが大きな衝撃の後遺症を抱えつつ、先の見えない不安な日々を送られた中で少しでも力になれば、との思いでお世話させていただきました」と振り返っている。
上映会に先立ち、柏崎市議の飯塚寿之さんらでつくるバンド「ウィズ コーション」が演奏。福島から新潟県内に区域外避難した家族をモデルにした「福島の明日に架ける橋」などを披露した。歌詞は、福島県富岡町から柏崎市内に避難した佐藤紫華子さんの詩集「原発難民の詩」に盛り込まれた言葉を紡いだという。
講演会や上映会が行われた新潟県長岡市は、東京電力柏崎刈羽原発から25km圏内に長岡駅などが含まれる。万が一過酷事故が起これば被曝リスクに直面する。原発避難は他人事ではない。私たちもいつ、曽根さんのように住み慣れた土地を追われるかもしれない。まずは関心を抱き、当事者の声に耳を傾けることから始めたい。
(了)
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