【浪江原発訴訟】男性原告が意見陳述「地域コミュニティの再建こそ真の復興」 次回6月の期日から原告本人尋問、来月には裁判官らが〝現地視察〟~福島地裁で第11回口頭弁論
- 2022/04/25
- 19:04
集団ADRでの和解案(慰謝料一律増額)を東京電力が6回にわたって拒否し続けた問題で、浪江町民が国や東電を相手取って起こした「浪江原発訴訟」の第11回口頭弁論が22日午後、福島地裁203号法廷(小川理佳裁判長)で行われた。原告の原中正義さんが自然と地域コミュニティの破壊について意見陳述。これまでに撮影した写真を自身でまとめたスライドを映しながら「根本的な問題は何も解決していない」と訴えた。次回期日は6月22日午前10時45分。原告本人尋問が始まるほか、5月26日には裁判官が実際に浪江町を巡る「現地進行協議」が実施される。2018年11月の提訴から4年。浪江町民の闘いは佳境に入る。

【荒れ野原になった故郷】
法廷のモニターに映し出された動画が、時計の針を一気に11年前に戻した。
「避難指示が出ました」
けたたましいサイレンの音とともに町の防災無線が避難を促している。動画のなかでは行政区長を務めていた原中さんが独り暮らしのお年寄り宅を訪問し、避難をするよう説得している。激しい揺れから一夜明けた2011年3月12日朝のことだった。
「ようやく説得に応じてくれたお年寄りを車に乗せると、避難先の津島へ向かう国道114号線は大渋滞でした。防災無線を聴いた町民が一斉に津島への避難を始めたためでした」
防災無線と大渋滞。浪江町民ならだれもが忘れ得ぬ光景が、長い長い避難生活の幕開けだった。「温暖で災害も少なく、いい土地柄」だった浪江町はそして、町民の想いを無視するように荒廃の一途を辿っていく。
原中さんが特に重視しているのが豊かな自然をい奪われ、コミュニティを破壊されたことだ。
モニターには、原発事故前から撮っていた写真が次々と映し出された。
正月に勢揃いした家族の笑顔があった。
帰省して田植えを手伝う子どもたちの姿があった。
曼珠沙華が咲き誇り、稲刈りと鮭の遡上。そして十日市…。
香取神社では神楽を舞い、田植踊りが披露された。それらは全て、アルバムのなかの思い出になってしまった。原発事故による放射性物質の拡散が日常を奪った。
「父が丹精込めていた野菜畑は、一面セイタカアワダチソウに覆われました。のどかな故郷の原風景は、人の手が入らなくなった途端に荒れ野原となってしまいました。このような状況を見るたび、憤りとともに哀しみで胸が締め付けられました」
「いま町内では様々な事業が立ち上がり、ハコものが次々と建設されています。国はことさらに〝復興〟を叫んでいますが、帰還の中心は高齢者。10年後20年後の町の姿を想像すると、空恐ろしくなります。根本的な問題は何も解決していないのです。地域コミュニティの再建なくして真の復興はありません」


法廷で意見陳述した原中正義さん。住まいは福島市に移ったが、今も地域コミュニティの再建目指して尽力している
【消滅した地域コミュニティ】
モニターに映し出された住民たちの笑顔が、帰還困難区域への通行を禁じるバリケードの写真を境に一変する。
「大堀地区内9行政区のうち6行政区は帰還困難区域、田尻行政区を含む3行政区は居住制限区域となりました。避難区域の線引きは図面に便宜上の線を引いただけであり、住民の生活には全く意味がありません。地域住民の生活は、周辺地域の水や空気といった自然環境とともに成り立っているという事実を忘れてはいけません」
先祖代々受け継いできた水田も、避難生活の長期化に伴い〝雑草の草原〟になってしまった。かつての生活空間には真っ黒なフレコンバッグが並べられた。「大堀地区は、阿武隈山脈から流れ出る高瀬川を水源として生活が営まれてきました。高瀬側は帰還困難区域の中心を流れるため再三にわたって早急な除染を求めていますが、計画すら発表されていません」。
このままでは故郷が荒れ果ててしまうと危機感を抱き、除染作業の終了を待って農地の保全活動を始めた。「6年前に大腸ガンの手術をしたわが身にとって、11年の歳月は身体的にも大きな負担です」。故郷を追われた人々が身体に鞭打つように尽力している姿を東電は知っているのか。
空間線量は高かったが、荒廃した香取神社の応急修理も行った。何とか地域コミュニティを回復したい、という一心だった。
「安否確認を兼ねて避難者の交流会も開催しました。復興祈願の神楽を舞いました。一方で住宅内にはイノシシなどの野生生物が入り込み、荒らされました。住めなくなった住宅は次々に解体され、住民は生活の拠点を失いました。田尻集会所も解体され、さら地になりました。消防屯所も解体され、さら地になりました。地域住民が代々学んだ小学校も解体され、さら地になりました。
次代を担う若者や子どもがいなくなったということです。自慢だった地域コミュニティは全て消滅してしまったのです」



先祖代々受け継がれてきた水田は荒れ果て、地域の小学校も解体されてしまった(原中さん撮影)
【「東電のおごり変わらぬ」】
モニターに両親の写真が映し出された。
「『絶対に田尻へ帰る』が口癖で、帰還に強い信念を持っていました。しかし、父は2年前の7月に避難先で亡くなりました。その1カ月後には、後を追うように母も亡くなりました。遺骨は故郷の墓地に納めましたが、生前の願いは叶えられませんでした」
2015年には、町の区長会として福島第一原発構内を視察。その際、当時の東電福島復興本社社長がこう言い放ったという。
「廃炉作業のなかで様々なロボット開発や廃炉技術の経験を積むことで今後、世界各地で需要が発生する廃炉原発に技術貢献できる」
原中さんは「極めて不謹慎な発言」と今でも憤っている。
「原発事故で莫大な出費をしても、廃炉にかかわる様々なノウハウを取得でき、企業としては損失以上の利益が上がると考えているように聴こえました。その〝利益〟は今もって立ち上がれない避難者の犠牲の上にあるのです。このような東電のおごりの姿勢は事故発生以来、全く変わりません。無責任極まりなく、誠実さは感じられません。国と東電はこれまでの対応を謙虚に反省し、誠意をもって速やかな賠償に応じるよう要望します」
陳述が終わると、小川裁判長は「ありがとうございました」と告げた。弁護団事務局長の濱野泰嘉弁護士は閉廷後「鼻をすするような音が聞えたので、小川裁判長には原中さんの話が響いたのではないか」と振り返った。
次回6月22日の期日から原告本人尋問が始まり、8月、10月、12月の期日を使って行われる予定。また、5月26日には「現地進行協議」と称した事実上の現地視察を実施。小川裁判長らが浪江町を実際に見る。午前10時に請戸小学校を視察し、浪江駅周辺のほか3人の原告宅を訪れる。帰還困難区域である津島地区の赤宇木集会所で終える予定という。
(了)

【荒れ野原になった故郷】
法廷のモニターに映し出された動画が、時計の針を一気に11年前に戻した。
「避難指示が出ました」
けたたましいサイレンの音とともに町の防災無線が避難を促している。動画のなかでは行政区長を務めていた原中さんが独り暮らしのお年寄り宅を訪問し、避難をするよう説得している。激しい揺れから一夜明けた2011年3月12日朝のことだった。
「ようやく説得に応じてくれたお年寄りを車に乗せると、避難先の津島へ向かう国道114号線は大渋滞でした。防災無線を聴いた町民が一斉に津島への避難を始めたためでした」
防災無線と大渋滞。浪江町民ならだれもが忘れ得ぬ光景が、長い長い避難生活の幕開けだった。「温暖で災害も少なく、いい土地柄」だった浪江町はそして、町民の想いを無視するように荒廃の一途を辿っていく。
原中さんが特に重視しているのが豊かな自然をい奪われ、コミュニティを破壊されたことだ。
モニターには、原発事故前から撮っていた写真が次々と映し出された。
正月に勢揃いした家族の笑顔があった。
帰省して田植えを手伝う子どもたちの姿があった。
曼珠沙華が咲き誇り、稲刈りと鮭の遡上。そして十日市…。
香取神社では神楽を舞い、田植踊りが披露された。それらは全て、アルバムのなかの思い出になってしまった。原発事故による放射性物質の拡散が日常を奪った。
「父が丹精込めていた野菜畑は、一面セイタカアワダチソウに覆われました。のどかな故郷の原風景は、人の手が入らなくなった途端に荒れ野原となってしまいました。このような状況を見るたび、憤りとともに哀しみで胸が締め付けられました」
「いま町内では様々な事業が立ち上がり、ハコものが次々と建設されています。国はことさらに〝復興〟を叫んでいますが、帰還の中心は高齢者。10年後20年後の町の姿を想像すると、空恐ろしくなります。根本的な問題は何も解決していないのです。地域コミュニティの再建なくして真の復興はありません」


法廷で意見陳述した原中正義さん。住まいは福島市に移ったが、今も地域コミュニティの再建目指して尽力している
【消滅した地域コミュニティ】
モニターに映し出された住民たちの笑顔が、帰還困難区域への通行を禁じるバリケードの写真を境に一変する。
「大堀地区内9行政区のうち6行政区は帰還困難区域、田尻行政区を含む3行政区は居住制限区域となりました。避難区域の線引きは図面に便宜上の線を引いただけであり、住民の生活には全く意味がありません。地域住民の生活は、周辺地域の水や空気といった自然環境とともに成り立っているという事実を忘れてはいけません」
先祖代々受け継いできた水田も、避難生活の長期化に伴い〝雑草の草原〟になってしまった。かつての生活空間には真っ黒なフレコンバッグが並べられた。「大堀地区は、阿武隈山脈から流れ出る高瀬川を水源として生活が営まれてきました。高瀬側は帰還困難区域の中心を流れるため再三にわたって早急な除染を求めていますが、計画すら発表されていません」。
このままでは故郷が荒れ果ててしまうと危機感を抱き、除染作業の終了を待って農地の保全活動を始めた。「6年前に大腸ガンの手術をしたわが身にとって、11年の歳月は身体的にも大きな負担です」。故郷を追われた人々が身体に鞭打つように尽力している姿を東電は知っているのか。
空間線量は高かったが、荒廃した香取神社の応急修理も行った。何とか地域コミュニティを回復したい、という一心だった。
「安否確認を兼ねて避難者の交流会も開催しました。復興祈願の神楽を舞いました。一方で住宅内にはイノシシなどの野生生物が入り込み、荒らされました。住めなくなった住宅は次々に解体され、住民は生活の拠点を失いました。田尻集会所も解体され、さら地になりました。消防屯所も解体され、さら地になりました。地域住民が代々学んだ小学校も解体され、さら地になりました。
次代を担う若者や子どもがいなくなったということです。自慢だった地域コミュニティは全て消滅してしまったのです」



先祖代々受け継がれてきた水田は荒れ果て、地域の小学校も解体されてしまった(原中さん撮影)
【「東電のおごり変わらぬ」】
モニターに両親の写真が映し出された。
「『絶対に田尻へ帰る』が口癖で、帰還に強い信念を持っていました。しかし、父は2年前の7月に避難先で亡くなりました。その1カ月後には、後を追うように母も亡くなりました。遺骨は故郷の墓地に納めましたが、生前の願いは叶えられませんでした」
2015年には、町の区長会として福島第一原発構内を視察。その際、当時の東電福島復興本社社長がこう言い放ったという。
「廃炉作業のなかで様々なロボット開発や廃炉技術の経験を積むことで今後、世界各地で需要が発生する廃炉原発に技術貢献できる」
原中さんは「極めて不謹慎な発言」と今でも憤っている。
「原発事故で莫大な出費をしても、廃炉にかかわる様々なノウハウを取得でき、企業としては損失以上の利益が上がると考えているように聴こえました。その〝利益〟は今もって立ち上がれない避難者の犠牲の上にあるのです。このような東電のおごりの姿勢は事故発生以来、全く変わりません。無責任極まりなく、誠実さは感じられません。国と東電はこれまでの対応を謙虚に反省し、誠意をもって速やかな賠償に応じるよう要望します」
陳述が終わると、小川裁判長は「ありがとうございました」と告げた。弁護団事務局長の濱野泰嘉弁護士は閉廷後「鼻をすするような音が聞えたので、小川裁判長には原中さんの話が響いたのではないか」と振り返った。
次回6月22日の期日から原告本人尋問が始まり、8月、10月、12月の期日を使って行われる予定。また、5月26日には「現地進行協議」と称した事実上の現地視察を実施。小川裁判長らが浪江町を実際に見る。午前10時に請戸小学校を視察し、浪江駅周辺のほか3人の原告宅を訪れる。帰還困難区域である津島地区の赤宇木集会所で終える予定という。
(了)
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