【138カ月目の浪江町はいま】地域の学び舎を奪った原発事故 国や東電は来場せず、事故への怒り示さぬ閉校式 卒業生は「原発事故さえなければ閉校などしなかった」と怒り
- 2022/09/26
- 10:27
原発事故に伴う全町避難で児童・生徒数がゼロになり、事実上の閉校状態が続いていた福島県双葉郡浪江町の町立学校9校(小学校6校、中学校3校)の閉校式が25日午前、浪江駅近くの地域スポーツセンターで行われた。出席した卒業生は校歌のピアノ演奏に涙を流し、別会場で行われた卒業アルバムなどの展示に目を細めたが、本音は「原発事故さえなければ閉校などしなかった」。発災当時、双葉郡で最も多い1700人が通っていた学び舎は既に解体されて、さら地になっている。閉校や校舎解体の原因である原発事故にほとんど触れることなくノスタルジーに終始した式典に、参加した卒業生からは怒りや落胆の声が聞かれた。国や東電は出席しなかった。

【ノスタルジーに終始】
なぜ、町立学校が閉校しなければならないのか。
なぜ、既に校舎は解体されて、さら地になっているのか。
なぜ、原発事故の加害当事者である国や東電が出席して頭を下げないのか。
それら町民の想いに一切答えない、ノスタルジーに終始した閉校式だった。
笠井淳一教育長(苅野小、浪江中卒業。町立学校の校長を歴任)は式辞で「このような形で9つの学校を閉校することとなり、誠に無念でなりません」と語り、8月5日に就任したばかりの吉田栄光町長(前自民党県議。苅野小、浪江中卒業)も「複雑な想いで、この場に立たせていただいている」、「自分の地域の学校がなくなってしまうというのは、心にポッカリと穴が開いてしまった想いであります」などと述べたが、原発事故への言及はなし。
唯一、町議会の佐々木恵寿議長(浪江小、浪江中卒業)が「もしも、あの原発事故がなかったら、わたくしの母校は現在も残っていただろうと考えることがあり、切なさを感じることがあります」と触れたにすぎなかった。笠井教育長は式辞の冒頭で「昨年夏、東京オリンピックの聖火台に浪江町の水素の火がありました」と五輪には触れたが、卒業生たちの怒りを代弁することはなかった。
校舎は「残すにしても維持費がかかる」、「環境省の予算で解体してもらうには締め切りがある」などの理由で公費解体が決まり、2020年7月には〝最後の校舎見学会〟が行われた。その年の11月には、卒業生有志が3751筆の署名を添えて「浪江町の各小中学校の解体を延期し、町民・卒業生にお別れの機会となる閉校式の開催を求める請願書」を町議会に提出。しかし、議会は「仮に校舎解体を延期するよう環境省に要請したら、防災コミュニティセンターの建設が1~2年延ばしになる。町の費用負担で解体するよう環境省から求められる可能性もある」などと反対多数で不採択とした。
昨年3月の東京五輪聖火リレーでは、解体番号の看板まで撤去して浪江小学校を出発点とする演出まで盛り込まれ、五輪の終わりとともに学校敷地はさら地になった。津島小、津島中に至っては、帰還困難区域内にあり校舎を残せるかどうかさえ分からないままでの閉校式。しかし、それらの経緯が説明されることはなかった。
町民の1人は「なぜ国や東電の関係者が出席して頭を下げないんだ」と怒ったが、出席者名簿に彼らの名前はなかった。




①式典では、閉校する学校の校歌が順番にピアノ演奏された
②添田哲平さんの校歌演奏をスマホで動画撮影する卒業生も
③自民党県議から長調に転身した吉田栄光町長は、原発事故について一切触れなかった
④閉校式に出席した卒業生は数えるほど。町議や役場職員の姿ばかりが目立った=浪江町地域スポーツセンター
【「無念な閉校式です」】
閉校式とは別会場で3日間、行われた展示「閉校のつどい」に訪れた卒業生たちは、在校当時の写真や卒業アルバム、文集をめくりながら「原発事故さえなければ閉校になどならなかった」と怒りを口にした。過疎や少子化での閉校ではない。原発事故に伴う汚染と全町避難による母校剥奪。それは紛れもない事実だからだ。
大堀小を卒業した30代の女性は「4年生のときに校舎が新築されました。だから余計に思い入れがあります。原発事故さえなければ学校がなくなることなんてなかったのに…自宅にいても子どもたちの歓声が聞こえていたんですよ」と表情を曇らせた。
苅野小を卒業した女性も「感情論とお金の問題の折り合いをつけるのは難しいのかもしれないが、校舎が解体されてしまって残念。原発事故がなかったら今も続いていると思う」と寂しそうに語った。
幾世橋小で校長を務めた紺野廣光さんは「幾世橋小も壊されてしまった。子どもたちが将来にわたって住まないということなのだろうけど、もったいないと思う。みんな取り壊してしまって良かったのだろうか」と口にした。退職後は町史編さんに携わり、町の文化財調査委員も務める。それだけに歴史遺産の面からも校舎を解体してしまったことに疑問を抱いている。「記憶にあるのはわが学び舎。それがなくなってしまうと、帰ってきても寄る所がなくなってしまう。余計に町と疎遠になってしまう」。
歌人・三原由起子さん(浪江中卒業)が企画したメッセージボードにも「かつての学校が原発事故でなくなって、とても悲しい。思うところがいっぱいあって逆に書けない」、「地域のつながり、学び舎、そして故郷全てが消えてしまいました」などの言葉が並んだ。
元町議で、「浪江原発訴訟」の原告団長を務める鈴木正一さんは、次のように綴った。
「閉校式をなぜ開催しなければならなかったのか?それは原発事故が原因です。その責任は国と東電にあります。浪江町民はすべて核災棄民になりました。無念な閉校式です」




①町中心部にある浪江小学校も聖火リレー後に校舎が解体され、さら地になってしまった
②③④メッセージボードには、閉校をもたらした原発事故への怒りや哀しみを綴ったものもあった
【「はがきで知らせて欲しかった」】
実は閉校式は空席が目立ち、まるで町議や役場職員のための式典のようだった。新型コロナウイルス感染対策のため先着で入場整理券を配り、来場者が多い場合には入場制限も行う予定になっていたが、不要だった。なぜか。参加者の1人がこう指摘した。
「広報紙やホームページに載せたって、町民には伝わらないですよ。だから知らない卒業生も多いのです。卒業生全員とは言わないが、世帯ごとに閉校式を知らせるはがきを送るくらいのことをしても良かったと思いますよ。これで最後なんですから。役場が本気で周知しようとしていたとは思えないです」
また、3日間展示された思い出の品々を今後、どのように活用するか。何も決まっていない。決まっているのは「収蔵庫に保管し、企画展などで展示する」(笠井教育長)ことだけ。浪江町には「伝承館」のようなアーカイブ施設がないため、常設展示することは難しいという。
「展示施設がないのなら、県立浪江高校の校舎を活用すれば良いんですよ。1つの教室で1校分の展示ができるでしょう。倉庫に眠らせてしまってはもったいない」
そう語るのは門馬昌子さん(夫と娘が浪江中卒業)。門馬さんは「浪江町の各小中学校解体を延期し、町民・卒業生にお別れの機会となる閉校式の開催を求める請願署名」の発起人代表者として奔走した。既存の校舎を使えば施設を新たに建設する必要もなく、高校の校舎も残せる。しかし、今のところ町役場にその意向はない。
展示されていたもののなかに、1982年3月に発行された請戸小学校の記念文集「浜っ子」があった。女子児童がこんなことを綴っている。タイトルは「電気」(社会のまとめ)。「浪江・小高原子力発電所」の建設計画を念頭に書かれたと思われる。
「原子力発電所を作るには、人々に良いことと悪いことがあります。良いことは、電気代が安くなるということです。悪いことは、原子力発電所のガスで、人々が死んでいくことです。この町の人達は、電気代が安くなるより、人々が死んでいくのがいやだから、この町の人達は、原子力発電所を作るのを反対しているのだと思います」(原文ママ)
町内の学校では、震災・原発事故発生の一週間ほど前にも東電のPRパンフレットが配られたという。少女が危惧した「原子力発電所のガスで、人々が死んでいく」事態には幸いにしてならなかったが、原発事故は高濃度の汚染をもたらし、町民に長期避難を強い、そして慣れ親しんだ地域の学校を根こそぎ奪った。そこに毅然と立ち向かう姿勢が町役場にはない。元町議は言う。
「『福島国際研究教育機構』がつくられることが決定したし、これからも様々な交付金が町におりてくる。役場は金で首根っこを掴まれているので国にものを言えないんだ」
(了)

【ノスタルジーに終始】
なぜ、町立学校が閉校しなければならないのか。
なぜ、既に校舎は解体されて、さら地になっているのか。
なぜ、原発事故の加害当事者である国や東電が出席して頭を下げないのか。
それら町民の想いに一切答えない、ノスタルジーに終始した閉校式だった。
笠井淳一教育長(苅野小、浪江中卒業。町立学校の校長を歴任)は式辞で「このような形で9つの学校を閉校することとなり、誠に無念でなりません」と語り、8月5日に就任したばかりの吉田栄光町長(前自民党県議。苅野小、浪江中卒業)も「複雑な想いで、この場に立たせていただいている」、「自分の地域の学校がなくなってしまうというのは、心にポッカリと穴が開いてしまった想いであります」などと述べたが、原発事故への言及はなし。
唯一、町議会の佐々木恵寿議長(浪江小、浪江中卒業)が「もしも、あの原発事故がなかったら、わたくしの母校は現在も残っていただろうと考えることがあり、切なさを感じることがあります」と触れたにすぎなかった。笠井教育長は式辞の冒頭で「昨年夏、東京オリンピックの聖火台に浪江町の水素の火がありました」と五輪には触れたが、卒業生たちの怒りを代弁することはなかった。
校舎は「残すにしても維持費がかかる」、「環境省の予算で解体してもらうには締め切りがある」などの理由で公費解体が決まり、2020年7月には〝最後の校舎見学会〟が行われた。その年の11月には、卒業生有志が3751筆の署名を添えて「浪江町の各小中学校の解体を延期し、町民・卒業生にお別れの機会となる閉校式の開催を求める請願書」を町議会に提出。しかし、議会は「仮に校舎解体を延期するよう環境省に要請したら、防災コミュニティセンターの建設が1~2年延ばしになる。町の費用負担で解体するよう環境省から求められる可能性もある」などと反対多数で不採択とした。
昨年3月の東京五輪聖火リレーでは、解体番号の看板まで撤去して浪江小学校を出発点とする演出まで盛り込まれ、五輪の終わりとともに学校敷地はさら地になった。津島小、津島中に至っては、帰還困難区域内にあり校舎を残せるかどうかさえ分からないままでの閉校式。しかし、それらの経緯が説明されることはなかった。
町民の1人は「なぜ国や東電の関係者が出席して頭を下げないんだ」と怒ったが、出席者名簿に彼らの名前はなかった。




①式典では、閉校する学校の校歌が順番にピアノ演奏された
②添田哲平さんの校歌演奏をスマホで動画撮影する卒業生も
③自民党県議から長調に転身した吉田栄光町長は、原発事故について一切触れなかった
④閉校式に出席した卒業生は数えるほど。町議や役場職員の姿ばかりが目立った=浪江町地域スポーツセンター
【「無念な閉校式です」】
閉校式とは別会場で3日間、行われた展示「閉校のつどい」に訪れた卒業生たちは、在校当時の写真や卒業アルバム、文集をめくりながら「原発事故さえなければ閉校になどならなかった」と怒りを口にした。過疎や少子化での閉校ではない。原発事故に伴う汚染と全町避難による母校剥奪。それは紛れもない事実だからだ。
大堀小を卒業した30代の女性は「4年生のときに校舎が新築されました。だから余計に思い入れがあります。原発事故さえなければ学校がなくなることなんてなかったのに…自宅にいても子どもたちの歓声が聞こえていたんですよ」と表情を曇らせた。
苅野小を卒業した女性も「感情論とお金の問題の折り合いをつけるのは難しいのかもしれないが、校舎が解体されてしまって残念。原発事故がなかったら今も続いていると思う」と寂しそうに語った。
幾世橋小で校長を務めた紺野廣光さんは「幾世橋小も壊されてしまった。子どもたちが将来にわたって住まないということなのだろうけど、もったいないと思う。みんな取り壊してしまって良かったのだろうか」と口にした。退職後は町史編さんに携わり、町の文化財調査委員も務める。それだけに歴史遺産の面からも校舎を解体してしまったことに疑問を抱いている。「記憶にあるのはわが学び舎。それがなくなってしまうと、帰ってきても寄る所がなくなってしまう。余計に町と疎遠になってしまう」。
歌人・三原由起子さん(浪江中卒業)が企画したメッセージボードにも「かつての学校が原発事故でなくなって、とても悲しい。思うところがいっぱいあって逆に書けない」、「地域のつながり、学び舎、そして故郷全てが消えてしまいました」などの言葉が並んだ。
元町議で、「浪江原発訴訟」の原告団長を務める鈴木正一さんは、次のように綴った。
「閉校式をなぜ開催しなければならなかったのか?それは原発事故が原因です。その責任は国と東電にあります。浪江町民はすべて核災棄民になりました。無念な閉校式です」




①町中心部にある浪江小学校も聖火リレー後に校舎が解体され、さら地になってしまった
②③④メッセージボードには、閉校をもたらした原発事故への怒りや哀しみを綴ったものもあった
【「はがきで知らせて欲しかった」】
実は閉校式は空席が目立ち、まるで町議や役場職員のための式典のようだった。新型コロナウイルス感染対策のため先着で入場整理券を配り、来場者が多い場合には入場制限も行う予定になっていたが、不要だった。なぜか。参加者の1人がこう指摘した。
「広報紙やホームページに載せたって、町民には伝わらないですよ。だから知らない卒業生も多いのです。卒業生全員とは言わないが、世帯ごとに閉校式を知らせるはがきを送るくらいのことをしても良かったと思いますよ。これで最後なんですから。役場が本気で周知しようとしていたとは思えないです」
また、3日間展示された思い出の品々を今後、どのように活用するか。何も決まっていない。決まっているのは「収蔵庫に保管し、企画展などで展示する」(笠井教育長)ことだけ。浪江町には「伝承館」のようなアーカイブ施設がないため、常設展示することは難しいという。
「展示施設がないのなら、県立浪江高校の校舎を活用すれば良いんですよ。1つの教室で1校分の展示ができるでしょう。倉庫に眠らせてしまってはもったいない」
そう語るのは門馬昌子さん(夫と娘が浪江中卒業)。門馬さんは「浪江町の各小中学校解体を延期し、町民・卒業生にお別れの機会となる閉校式の開催を求める請願署名」の発起人代表者として奔走した。既存の校舎を使えば施設を新たに建設する必要もなく、高校の校舎も残せる。しかし、今のところ町役場にその意向はない。
展示されていたもののなかに、1982年3月に発行された請戸小学校の記念文集「浜っ子」があった。女子児童がこんなことを綴っている。タイトルは「電気」(社会のまとめ)。「浪江・小高原子力発電所」の建設計画を念頭に書かれたと思われる。
「原子力発電所を作るには、人々に良いことと悪いことがあります。良いことは、電気代が安くなるということです。悪いことは、原子力発電所のガスで、人々が死んでいくことです。この町の人達は、電気代が安くなるより、人々が死んでいくのがいやだから、この町の人達は、原子力発電所を作るのを反対しているのだと思います」(原文ママ)
町内の学校では、震災・原発事故発生の一週間ほど前にも東電のPRパンフレットが配られたという。少女が危惧した「原子力発電所のガスで、人々が死んでいく」事態には幸いにしてならなかったが、原発事故は高濃度の汚染をもたらし、町民に長期避難を強い、そして慣れ親しんだ地域の学校を根こそぎ奪った。そこに毅然と立ち向かう姿勢が町役場にはない。元町議は言う。
「『福島国際研究教育機構』がつくられることが決定したし、これからも様々な交付金が町におりてくる。役場は金で首根っこを掴まれているので国にものを言えないんだ」
(了)
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