【映画「大地を受け継ぐ」】原発事故に親父殺された須賀川の農家。地元上映会で語る原発事故への怒り。「汚染は〝風評〟じゃない、実害だ」
- 2016/10/30
- 07:45
先祖代々伝わる大切な土を汚された怒り、将来を悲観し自ら命を絶った親父の無念さなど、原発事故に奪い尽くされた事への怒りを描いた映画「大地を受け継ぐ」の上映会が29日、出演している農家・樽川和也さん(41)の地元、福島県須賀川市で開かれた。作品で、原発事故直後に自死した父・久志さん(当時64)の土にかけた想いを中心に、除染や賠償の不合理、農作業中の被曝リスク、原発再稼働への疑問を若者たちに語りかける和也さん。批判は覚悟でこう訴える。「汚染は風評じゃない。現実だ。福島産を買いたくないのは当然の心情」。現実から目を逸らし、「風評」という言葉で被害を覆い隠そうとする人にこそ、観て欲しい作品だ。
【キャベツ畑の片隅で逝った親父】
「何やってんだ、ばか、この!」
2011年3月24日。忘れたくても忘れられない朝。キャベツ畑の片隅に、親父は立っていた…はずだった。だが、足は地面に着いていなかった。空中に浮いていた。木にはロープが引っ掛けられていた。
爆発して煙をあげる福島第一原発の映像に「ほらみろ、俺が言った通りになったべ。人がつくったもんは必ずぼっこれる(壊れる)んだ」と口にした親父。農薬や殺虫剤を嫌い「虫も食わないようなキャベツには、農薬がどれだけかかっているか分かるか」と力説していた親父。「地球を守っているのは農業だ」、「農業は土が大切なんだ。土が良くないと野菜のうま味を引き出せない」が口ぐせだった親父。遺書は無かった。ポケットの中には懐中電灯と携帯電話。歩数計の数字は680で止まっていた。「キャベツ畑をひと回りしたのかな」。余震と原発事故の混乱の中、哀しむ暇も無いまま自宅で葬儀を開いた。久志さんは、まだ64歳の若さだった。
当時、キャベツ畑の空間線量は1.8μSv/h、自宅も1.3μSv/h。ビニールハウスに至っては、2μSv/hをはるかに超えていた。原発から60km離れた須賀川にも容赦なく放射性物質は降り注いだ。しかし、遠く浜通りから中通りにまで放射性物質が飛んで来ているなんて報道は無かった。国も行政も「ただちに影響無い」、「落ち着いて行動を」と繰り返した。ちょうどキャベツの出荷時期が重なり忙しい毎日。余震が続く中、屋根に上がって修復作業をすることもあった。そして3月23日の夕方、農協からFAXが届く。
「結球野菜は出荷停止」
8000個のキャベツ、ブロッコリーが「全滅」した瞬間だった。夕食時、食卓でFAXを読んだ親父はうつむいていた。何より大切にしていた土を放射能に汚された。先祖代々受け継いできた畑。朝から晩まで汗水流して働いた畑。プラント建設会社を辞めて農業の道に入った息子に「一人前になるのに10年はかかるからな」と告げた親父。常に厳しかった親父。FAXを読み終えると言った。「お前の事、間違った道に進ませちまったな。農業を継がせたのは間違いだったかもな」。この時の親父の絶望感を、東電や国は理解出来るだろうか。たった独り、キャベツ畑の片隅で逝った親父の無念さを。

上映後、井上淳一監督や馬奈木厳太郎弁護士と共にステージに上がった樽川和也さん。「汚染は風評でなく現実。僕は嘘は言っていない」「原発を再稼働させて欲しくない」と語った=須賀川市文化センター
【かくはんするだけの〝農地除染〟】
映画は終始、和也さんの語りで進行する。東京からバスで須賀川市の自宅を訪れた10代20代の若者11人に、時には涙を流し、時には語気を荒げながら語る。若者も涙を流していた。伝えたい。親父の無念さを伝えるのが使命だと、取材を断った事は無い。「伝えようとすると当時を思い出してしまう。本当は取材なんか全部断って畑に出ている方が楽なんだけど…」。忘れられたくない。風化させたくない。その一心で語った。
農業の〝師〟を失い、手探りで再開した農業。親父が綴った作業日誌を読み漁った。なぜ激しく汚染された土で農作業を再開したのか。取引価格が暴落する中、出荷して本来なら得られるはずの利益との差額分しか東電が賠償しないと決めたからだった。親父が庭に落ち葉などを集めて作っていた腐葉土から6000Bq/kgを超える放射性セシウムが検出されても「自家消費」とみなされた。実はこの腐葉土が畑の土を肥沃にしていた。それでも販売実績が無いから駄目だった。
生活のためには出荷せざるを得ない。出荷前の検査では70Bq/kg。当時の暫定基準500Bq/kgは下回った。でも、自分では食べなかった。食べないものを売っている罪悪感に苦しんだ。
「俺は食わねえけど他の人に食わせている。生産者として罪を犯している意識がありました」
東電がやるものだと思った田んぼの除染は自分で行った。しかし「除染」とは名ばかり。「深さ20センチくらいまでかくはんし、吸着剤のゼオライトをまく。そして再び20センチほどかくはんする。それを国は『除染』と呼ぶが、放射性物質を除いてねえだろ。薄めただけだろ」と憤る。「俺たち農家は汚染された土の上で毎日毎日、日が昇ってから暮れるまで働いてるんだ。国は俺たちの被曝の事なんて考えちゃいないんだ」。
賠償のため、そして先祖が守ってきた土地を荒れさせないためだけの農作業が続いた。自身で8代目。農地は2年も放置したら重機で整地しないとならない。「何のために働いてんだべ」。虚しさが募った。
「風評被害」という言葉が飛び交い、2011年の「新語・流行語」にも選ばれた。「風評って言葉がおかしいんだ」と和也さんは言う。「仮に放射性物質が出ないとしたって、生産者だって食いたくねえもん。福島産を買いたくない気持ちは分かる。根も葉もあるだろうって。原発事故も汚染も現実。風評じゃねえんだ」。
ひとたび原発事故が起きればどうなるか。若者に分かって欲しかった。原発に絶対的な安全など無い。「国は何を見て原発再稼働と言っているのか…。理解出来ないよ」。

2015年5月、自宅を訪れた10代20代の若者たちに和也さんは語りかけた。「原発に絶対的な安全など無いんだ」(「大地を受け継ぐ」公式サイトより)
【「再稼働なんてするな」】
2013年5月、東電は久志さんの自死と原発事故との因果関係を認め、原子力損害賠償紛争解決センター(ADRセンター)の和解案を受け入れた。親戚からは「テレビに出過ぎだ」、「金目当てとお思われるからやめろ」などと言われたが、親父の死を無駄にしたくはなかった。「金じゃない。かたきをとってやりてえという気持ちです」。しかし、東電は線香をあげには来なかった。定型文で綴られた文書が送られてきただけ。それが東電の〝謝罪〟だった。
挙げ句、高市早苗総務相にいたっては、2013年に「福島第一原発事故で死者が出ている状況ではない」などと発言する始末。後に「誤解されたなら、しゃべり方が下手だったのかもしれない」と釈明したが、「何が撤回だ。おめえの口から出たんじゃねえか。軽率な発言をする人が政治家になっている。変な国だな」と声を荒げた。では、親父はなぜ自ら命を絶たなければならなかったのか。許せるはずが無い。
上映終了後、井上淳一監督や馬奈木厳太郎弁護士(まなぎ・いずたろう=「生業(なりわい)を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟の代理人)と一緒にステージに上がった和也さん。「『何で風評が酷くなるような事を言うのか』と思うかもしれないが、僕は嘘は言っていないですから。汚染は現実ですから」とマイクを握った。「うちは昔から五右衛門風呂だったんです。でも農協で薪を燃やした灰を測ってもらったら1万8000Bq/kgもあった。それをマスクもしないで回収したりしていたんです。仕方ないから解体してユニットバスに変えました。150万円かかりましたが、東電の考え方は『資産になるものには賠償出来ません』。4年分の燃料代30万円だけが賠償されました」と明かす。何から何まで奪い尽くす原発事故。「再稼働なんてして欲しくないんです」。当然の訴えだった。
取材に応じた和也さんは「きれいな土で育てたトマトと汚染された土で作ったトマト。あなたならどちらを買いますか?誰だってきれいな土で育てたトマトを買いますよ」と、改めて「風評被害」という言葉を否定した。「5年以上経ったら汚染が無くなるんですか?何で5年が過ぎたら現実を口にしてはいけないんですか?」とも。地元で映画を上映すればあつれきが生じる事も覚悟している。それでも発信し続ける。それが天国の親父から託された使命。
つらくて、親父が命を絶った木は伐った。今は大きな切り株だけが残る。和也さんは、若者たちにこう伝えることも忘れていなかった。
「自殺は、遺された家族が表現できないほどの傷を負う。自分で命を絶っては駄目だ」
(了)
【キャベツ畑の片隅で逝った親父】
「何やってんだ、ばか、この!」
2011年3月24日。忘れたくても忘れられない朝。キャベツ畑の片隅に、親父は立っていた…はずだった。だが、足は地面に着いていなかった。空中に浮いていた。木にはロープが引っ掛けられていた。
爆発して煙をあげる福島第一原発の映像に「ほらみろ、俺が言った通りになったべ。人がつくったもんは必ずぼっこれる(壊れる)んだ」と口にした親父。農薬や殺虫剤を嫌い「虫も食わないようなキャベツには、農薬がどれだけかかっているか分かるか」と力説していた親父。「地球を守っているのは農業だ」、「農業は土が大切なんだ。土が良くないと野菜のうま味を引き出せない」が口ぐせだった親父。遺書は無かった。ポケットの中には懐中電灯と携帯電話。歩数計の数字は680で止まっていた。「キャベツ畑をひと回りしたのかな」。余震と原発事故の混乱の中、哀しむ暇も無いまま自宅で葬儀を開いた。久志さんは、まだ64歳の若さだった。
当時、キャベツ畑の空間線量は1.8μSv/h、自宅も1.3μSv/h。ビニールハウスに至っては、2μSv/hをはるかに超えていた。原発から60km離れた須賀川にも容赦なく放射性物質は降り注いだ。しかし、遠く浜通りから中通りにまで放射性物質が飛んで来ているなんて報道は無かった。国も行政も「ただちに影響無い」、「落ち着いて行動を」と繰り返した。ちょうどキャベツの出荷時期が重なり忙しい毎日。余震が続く中、屋根に上がって修復作業をすることもあった。そして3月23日の夕方、農協からFAXが届く。
「結球野菜は出荷停止」
8000個のキャベツ、ブロッコリーが「全滅」した瞬間だった。夕食時、食卓でFAXを読んだ親父はうつむいていた。何より大切にしていた土を放射能に汚された。先祖代々受け継いできた畑。朝から晩まで汗水流して働いた畑。プラント建設会社を辞めて農業の道に入った息子に「一人前になるのに10年はかかるからな」と告げた親父。常に厳しかった親父。FAXを読み終えると言った。「お前の事、間違った道に進ませちまったな。農業を継がせたのは間違いだったかもな」。この時の親父の絶望感を、東電や国は理解出来るだろうか。たった独り、キャベツ畑の片隅で逝った親父の無念さを。

上映後、井上淳一監督や馬奈木厳太郎弁護士と共にステージに上がった樽川和也さん。「汚染は風評でなく現実。僕は嘘は言っていない」「原発を再稼働させて欲しくない」と語った=須賀川市文化センター
【かくはんするだけの〝農地除染〟】
映画は終始、和也さんの語りで進行する。東京からバスで須賀川市の自宅を訪れた10代20代の若者11人に、時には涙を流し、時には語気を荒げながら語る。若者も涙を流していた。伝えたい。親父の無念さを伝えるのが使命だと、取材を断った事は無い。「伝えようとすると当時を思い出してしまう。本当は取材なんか全部断って畑に出ている方が楽なんだけど…」。忘れられたくない。風化させたくない。その一心で語った。
農業の〝師〟を失い、手探りで再開した農業。親父が綴った作業日誌を読み漁った。なぜ激しく汚染された土で農作業を再開したのか。取引価格が暴落する中、出荷して本来なら得られるはずの利益との差額分しか東電が賠償しないと決めたからだった。親父が庭に落ち葉などを集めて作っていた腐葉土から6000Bq/kgを超える放射性セシウムが検出されても「自家消費」とみなされた。実はこの腐葉土が畑の土を肥沃にしていた。それでも販売実績が無いから駄目だった。
生活のためには出荷せざるを得ない。出荷前の検査では70Bq/kg。当時の暫定基準500Bq/kgは下回った。でも、自分では食べなかった。食べないものを売っている罪悪感に苦しんだ。
「俺は食わねえけど他の人に食わせている。生産者として罪を犯している意識がありました」
東電がやるものだと思った田んぼの除染は自分で行った。しかし「除染」とは名ばかり。「深さ20センチくらいまでかくはんし、吸着剤のゼオライトをまく。そして再び20センチほどかくはんする。それを国は『除染』と呼ぶが、放射性物質を除いてねえだろ。薄めただけだろ」と憤る。「俺たち農家は汚染された土の上で毎日毎日、日が昇ってから暮れるまで働いてるんだ。国は俺たちの被曝の事なんて考えちゃいないんだ」。
賠償のため、そして先祖が守ってきた土地を荒れさせないためだけの農作業が続いた。自身で8代目。農地は2年も放置したら重機で整地しないとならない。「何のために働いてんだべ」。虚しさが募った。
「風評被害」という言葉が飛び交い、2011年の「新語・流行語」にも選ばれた。「風評って言葉がおかしいんだ」と和也さんは言う。「仮に放射性物質が出ないとしたって、生産者だって食いたくねえもん。福島産を買いたくない気持ちは分かる。根も葉もあるだろうって。原発事故も汚染も現実。風評じゃねえんだ」。
ひとたび原発事故が起きればどうなるか。若者に分かって欲しかった。原発に絶対的な安全など無い。「国は何を見て原発再稼働と言っているのか…。理解出来ないよ」。

2015年5月、自宅を訪れた10代20代の若者たちに和也さんは語りかけた。「原発に絶対的な安全など無いんだ」(「大地を受け継ぐ」公式サイトより)
【「再稼働なんてするな」】
2013年5月、東電は久志さんの自死と原発事故との因果関係を認め、原子力損害賠償紛争解決センター(ADRセンター)の和解案を受け入れた。親戚からは「テレビに出過ぎだ」、「金目当てとお思われるからやめろ」などと言われたが、親父の死を無駄にしたくはなかった。「金じゃない。かたきをとってやりてえという気持ちです」。しかし、東電は線香をあげには来なかった。定型文で綴られた文書が送られてきただけ。それが東電の〝謝罪〟だった。
挙げ句、高市早苗総務相にいたっては、2013年に「福島第一原発事故で死者が出ている状況ではない」などと発言する始末。後に「誤解されたなら、しゃべり方が下手だったのかもしれない」と釈明したが、「何が撤回だ。おめえの口から出たんじゃねえか。軽率な発言をする人が政治家になっている。変な国だな」と声を荒げた。では、親父はなぜ自ら命を絶たなければならなかったのか。許せるはずが無い。
上映終了後、井上淳一監督や馬奈木厳太郎弁護士(まなぎ・いずたろう=「生業(なりわい)を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟の代理人)と一緒にステージに上がった和也さん。「『何で風評が酷くなるような事を言うのか』と思うかもしれないが、僕は嘘は言っていないですから。汚染は現実ですから」とマイクを握った。「うちは昔から五右衛門風呂だったんです。でも農協で薪を燃やした灰を測ってもらったら1万8000Bq/kgもあった。それをマスクもしないで回収したりしていたんです。仕方ないから解体してユニットバスに変えました。150万円かかりましたが、東電の考え方は『資産になるものには賠償出来ません』。4年分の燃料代30万円だけが賠償されました」と明かす。何から何まで奪い尽くす原発事故。「再稼働なんてして欲しくないんです」。当然の訴えだった。
取材に応じた和也さんは「きれいな土で育てたトマトと汚染された土で作ったトマト。あなたならどちらを買いますか?誰だってきれいな土で育てたトマトを買いますよ」と、改めて「風評被害」という言葉を否定した。「5年以上経ったら汚染が無くなるんですか?何で5年が過ぎたら現実を口にしてはいけないんですか?」とも。地元で映画を上映すればあつれきが生じる事も覚悟している。それでも発信し続ける。それが天国の親父から託された使命。
つらくて、親父が命を絶った木は伐った。今は大きな切り株だけが残る。和也さんは、若者たちにこう伝えることも忘れていなかった。
「自殺は、遺された家族が表現できないほどの傷を負う。自分で命を絶っては駄目だ」
(了)
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