【12年目の福島はいま】南相馬の語り部が伝える原発事故被害のリアル 「想像力を働かせて、自分事として考えて」「放射能汚染は〝距離〟じゃない」
- 2023/03/05
- 20:25
2011年3月の福島第一原発事故から12年。福島県南相馬市の高村美春さんは「東日本大震災・原子力災害伝承館」(福島県双葉町)で来館者向けに自身の経験を伝えているほか、福島県外にも訪れて講演を行っている。4日午前には、福島県の語り部派遣事業で栃木県防災館(宇都宮市)で講演。避難するべきか悩み考えたことや放射能汚染は距離では線引きできないこと、避難者を追い詰める「賠償金もらってるんだろ」という圧力などについて語った。岸田政権が原発再稼働に大きく舵を切るいま、原発事故は他人事ではない。高村さんは言う。「自分事として考えて」。

【「あなたなら、どうしますか?」】
逃げなければいけないのか、なぜ逃げる必要があるのか、何も分からなかった。
いや、何も知らされなかった。放射線なんて言われても分からない。マイクロシーベルトって何?自宅が福島第一原発から25km圏内にあるということを知ったのも事故後のことだ。
大きな揺れで自宅のなかは家具が散乱したが、電気や水道、ガスは止まらなかった。片付ければ暮らせる。一方で被曝リスクの不安もまた、少しずつ高まっていった。
「みなさんだったら、どうしますか?」
未曽有の大地震を機に始まったのは苦悩の連続だった。
政府の避難指示は20km圏内にまで拡大されたが「わが家は25km。一度も『避難しろ』とは言われませんでした」。友人たちからのメールが届くが、どうして良いか分からない。
「何かおかしいよ」
「東電の人たち逃げてるよ」
「これからどうするの?」
「わかんないよ、そんなこと」
とりあえず逃げよう、と決めた。長男(21)、高校を卒業したばかりの次男(18)、保育園年少組の三男(4歳)を連れて車で向かったのは、後に全村避難になる飯舘村。3月12日のことだ。村に着くとライフラインが止まっていた。避難所には大勢の人々が集まっていた。
「避難所は本当に大変な方が身を寄せる場所で、うちは電気もガスも水道も止まっていない。こういう人間が避難所に入ってはいけないんだ」。避難所には入らず川俣町に向かった。そこでも状況は同じ。避難所には入れなかった。
「ガソリンも少なくなってきたので逃げるべきか、戻るべきかを考えました。とりあえず車中泊をしました。でも、毛布の1枚も持ってきていません。慣れない車中泊ということもあり、4歳の三男が『お母さん、お腹すいた。寒い。身体が痛い』と言いました。悩んで悩んで、いったん帰宅することにしました。それで今度こそ逃げようと」
一夜明け、県道12号線を南相馬に向かって走った。渋滞していたのは反対車線だった。



(上)「想像力を働かせてください。自分事として考えてください」と自身の経験を語った高村さん=栃木県防災館
(中)高村さんのつくったスライドには、語り部としての苦悩も記されている
(下)「東日本大震災・原子力災害伝承館」で語り部として活動している=2021年3月撮影
【届かぬ「バスに乗せてくれ」】
渋滞の車列からこちらに向かって怒鳴る人がいた。同級生だった。
「お前何やってんだ!逆だ!早く逃げろ!」
「俺は今から新潟に逃げる。だからお前も早く福島から出ろ!」
その同級生が東電関連の仕事に就いていたことを後に知った。「彼には知識と情報があったんです。ですが、当時の私は全く分かりません。何でそんなことを言われなければいけないの?と思いながら自宅に戻りました」。
多くの浪江町民が汚染の酷い津島地区に逃げたのと同じ構図。その日、当時の枝野幸男官房長官は午前の記者会見でこう呼びかけている。
「人体に影響を与える放射線が放出をされているものではございませんので、ご安心を」
だが、このとき既に南相馬市にも放射性物質が降り注いでいた。
「南相馬市立総合病院の入り口では、3月12日20時に医師が毎時12マイクロシーベルトを計測しています。それでも『避難しろ』とは一度も言われませんでした」
2人の子どもたちだけ避難させて職場に復帰したが、3月14日には自宅に残った長男とともに南相馬を出た。前回と同じように県道12号線を通って飯舘村に向かったが、コンビニの駐車場で驚くべき光景を目にしたという。
「目の前をたくさんのバスが通り過ぎていきました。警察や自衛隊の車両もありました。近くにいた人がバスに向かって『止まってくれ、乗せてくれ!』と叫びましたが、1台も止まりませんでした」
高村さんの声が一段と大きくなった。
「何で私たちはあのバスに乗って逃げることができないの?何で誰も助けに来てくれないの?原子力発電所は安全だって言ったでしょ?爆発なんかしないって言ったじゃない。あのとき初めて国や東電を恨みました。恨んで恨んで、実は今も心ではその想いがくすぶったままです」
福島市に避難をし、福島県内を転々とした。しかし、3月末には自宅に戻った。
「避難先の方が自宅よりも放射線量が高かったからです」
放射能汚染は同心円状には拡がらないのだ。距離で線引きなどできないことがよく分かる。



(上)最終的に20人ほどの聴衆が高村さんの語りに耳を傾けた
(中)「栃木県防災館」には原発事故に関する展示はほとんどなかった
(下)事故発生から3カ月後の南相馬市内の空間線量率
【「次の〝語り部〟はあなたです」】
宇都宮講演の前夜、高村さんは久しぶりに親類と会った。南相馬市内から栃木県内に避難した彼女は、泣きながら本音を吐露したという。
「私ね、近所の人にもママ友にも福島から避難して来たって言っていないんだよ。言えないんだよ。だって『お金もらってるんでしょ』って言われるの。いまだに言われるの。仕事して『疲れた』なんて言えば『お金もらってるのに、何で働いてるの?』って言われるんだよ。つらい。だからもう帰りたい。でも帰れない。栃木でがんばっていくしかない。でも………」
しんどい人がしんどいと言えない社会。言えば「賠償金もらってるくせに」と責められる理不尽。
高村さんは、原発事故が浮き彫りにした社会の歪みを次々と口にした。例えば賠償。
「私の自宅は25km圏内にあるので賠償金をもらいました。ですが、30km圏外の方々は裁判を起こさない限りもらえません。放射線の被害があったとしても、です。被害を自分で立証しなければいけません。こんな馬鹿な話がありますか?」
「風評をまき散らすな」と言われることも少なくない。
「私がこうやって話をすると、地元では『余計なことを言うな!おめえみたいな人間が放射線の話ばっかするから、福島が駄目なんだって言われんだ。おめえみたいな人間が風評加害っつうんだ!』と言われたことがあります。なぜですか?事実を事実として話しているだけなんですよ。事実を事実としてきちんと向き合わなければいけません。なぜ事実に向き合わない人たちに叩かれなければいけないのでしょうか」
では、語り部の話を聴く私たちには何ができるのか。
「想像力を働かせてください。自分事として考えてください。そうしないと頭にも心にも残りません」
高村さんは聴衆にそう呼びかけたうえで、次の言葉で講演を締めくくった。
「私は何か資格があるわけでもありません。学校の先生でもありません。ただ、自分ができることは伝えること。伝えることならできるかなと思い、12年続けてきています。語り部は養成するものではありません。福島に来た方が、現場を見て、私のような者の話を聴いて、そして自分の言葉で語る。それがが語り部だと思っています。福島のことを忘れないでください。そして今日、私の話を聴いてくれたみなさまが『次の語り部』です」
(了)

【「あなたなら、どうしますか?」】
逃げなければいけないのか、なぜ逃げる必要があるのか、何も分からなかった。
いや、何も知らされなかった。放射線なんて言われても分からない。マイクロシーベルトって何?自宅が福島第一原発から25km圏内にあるということを知ったのも事故後のことだ。
大きな揺れで自宅のなかは家具が散乱したが、電気や水道、ガスは止まらなかった。片付ければ暮らせる。一方で被曝リスクの不安もまた、少しずつ高まっていった。
「みなさんだったら、どうしますか?」
未曽有の大地震を機に始まったのは苦悩の連続だった。
政府の避難指示は20km圏内にまで拡大されたが「わが家は25km。一度も『避難しろ』とは言われませんでした」。友人たちからのメールが届くが、どうして良いか分からない。
「何かおかしいよ」
「東電の人たち逃げてるよ」
「これからどうするの?」
「わかんないよ、そんなこと」
とりあえず逃げよう、と決めた。長男(21)、高校を卒業したばかりの次男(18)、保育園年少組の三男(4歳)を連れて車で向かったのは、後に全村避難になる飯舘村。3月12日のことだ。村に着くとライフラインが止まっていた。避難所には大勢の人々が集まっていた。
「避難所は本当に大変な方が身を寄せる場所で、うちは電気もガスも水道も止まっていない。こういう人間が避難所に入ってはいけないんだ」。避難所には入らず川俣町に向かった。そこでも状況は同じ。避難所には入れなかった。
「ガソリンも少なくなってきたので逃げるべきか、戻るべきかを考えました。とりあえず車中泊をしました。でも、毛布の1枚も持ってきていません。慣れない車中泊ということもあり、4歳の三男が『お母さん、お腹すいた。寒い。身体が痛い』と言いました。悩んで悩んで、いったん帰宅することにしました。それで今度こそ逃げようと」
一夜明け、県道12号線を南相馬に向かって走った。渋滞していたのは反対車線だった。



(上)「想像力を働かせてください。自分事として考えてください」と自身の経験を語った高村さん=栃木県防災館
(中)高村さんのつくったスライドには、語り部としての苦悩も記されている
(下)「東日本大震災・原子力災害伝承館」で語り部として活動している=2021年3月撮影
【届かぬ「バスに乗せてくれ」】
渋滞の車列からこちらに向かって怒鳴る人がいた。同級生だった。
「お前何やってんだ!逆だ!早く逃げろ!」
「俺は今から新潟に逃げる。だからお前も早く福島から出ろ!」
その同級生が東電関連の仕事に就いていたことを後に知った。「彼には知識と情報があったんです。ですが、当時の私は全く分かりません。何でそんなことを言われなければいけないの?と思いながら自宅に戻りました」。
多くの浪江町民が汚染の酷い津島地区に逃げたのと同じ構図。その日、当時の枝野幸男官房長官は午前の記者会見でこう呼びかけている。
「人体に影響を与える放射線が放出をされているものではございませんので、ご安心を」
だが、このとき既に南相馬市にも放射性物質が降り注いでいた。
「南相馬市立総合病院の入り口では、3月12日20時に医師が毎時12マイクロシーベルトを計測しています。それでも『避難しろ』とは一度も言われませんでした」
2人の子どもたちだけ避難させて職場に復帰したが、3月14日には自宅に残った長男とともに南相馬を出た。前回と同じように県道12号線を通って飯舘村に向かったが、コンビニの駐車場で驚くべき光景を目にしたという。
「目の前をたくさんのバスが通り過ぎていきました。警察や自衛隊の車両もありました。近くにいた人がバスに向かって『止まってくれ、乗せてくれ!』と叫びましたが、1台も止まりませんでした」
高村さんの声が一段と大きくなった。
「何で私たちはあのバスに乗って逃げることができないの?何で誰も助けに来てくれないの?原子力発電所は安全だって言ったでしょ?爆発なんかしないって言ったじゃない。あのとき初めて国や東電を恨みました。恨んで恨んで、実は今も心ではその想いがくすぶったままです」
福島市に避難をし、福島県内を転々とした。しかし、3月末には自宅に戻った。
「避難先の方が自宅よりも放射線量が高かったからです」
放射能汚染は同心円状には拡がらないのだ。距離で線引きなどできないことがよく分かる。



(上)最終的に20人ほどの聴衆が高村さんの語りに耳を傾けた
(中)「栃木県防災館」には原発事故に関する展示はほとんどなかった
(下)事故発生から3カ月後の南相馬市内の空間線量率
【「次の〝語り部〟はあなたです」】
宇都宮講演の前夜、高村さんは久しぶりに親類と会った。南相馬市内から栃木県内に避難した彼女は、泣きながら本音を吐露したという。
「私ね、近所の人にもママ友にも福島から避難して来たって言っていないんだよ。言えないんだよ。だって『お金もらってるんでしょ』って言われるの。いまだに言われるの。仕事して『疲れた』なんて言えば『お金もらってるのに、何で働いてるの?』って言われるんだよ。つらい。だからもう帰りたい。でも帰れない。栃木でがんばっていくしかない。でも………」
しんどい人がしんどいと言えない社会。言えば「賠償金もらってるくせに」と責められる理不尽。
高村さんは、原発事故が浮き彫りにした社会の歪みを次々と口にした。例えば賠償。
「私の自宅は25km圏内にあるので賠償金をもらいました。ですが、30km圏外の方々は裁判を起こさない限りもらえません。放射線の被害があったとしても、です。被害を自分で立証しなければいけません。こんな馬鹿な話がありますか?」
「風評をまき散らすな」と言われることも少なくない。
「私がこうやって話をすると、地元では『余計なことを言うな!おめえみたいな人間が放射線の話ばっかするから、福島が駄目なんだって言われんだ。おめえみたいな人間が風評加害っつうんだ!』と言われたことがあります。なぜですか?事実を事実として話しているだけなんですよ。事実を事実としてきちんと向き合わなければいけません。なぜ事実に向き合わない人たちに叩かれなければいけないのでしょうか」
では、語り部の話を聴く私たちには何ができるのか。
「想像力を働かせてください。自分事として考えてください。そうしないと頭にも心にも残りません」
高村さんは聴衆にそう呼びかけたうえで、次の言葉で講演を締めくくった。
「私は何か資格があるわけでもありません。学校の先生でもありません。ただ、自分ができることは伝えること。伝えることならできるかなと思い、12年続けてきています。語り部は養成するものではありません。福島に来た方が、現場を見て、私のような者の話を聴いて、そして自分の言葉で語る。それがが語り部だと思っています。福島のことを忘れないでください。そして今日、私の話を聴いてくれたみなさまが『次の語り部』です」
(了)
スポンサーサイト