【飯舘村・さすのみそ】受け継がれた味噌のDNA。「原発事故は食文化をも破壊する」。笑顔の裏にある、おばあの怒りと哀しみ~仮設住宅で収穫祭
- 2016/11/07
- 06:55
「第五回なごみ収穫祭」が6日、福島市内にある飯舘村民の仮設住宅で開かれ、生まれ変わった「さすのみそ」を使ったキノコ汁やふろふき大根、焼きおにぎりが振る舞われた。原発事故で村での味噌づくりが出来なくなったおばあから種味噌を引き継いだ支援団体が、DNAを絶やすまいと取り組み「新・さすのみそ」として新たな息吹を吹き込んだ。村民は言う。「原発事故は食文化をも破壊する」。笑顔で味噌を味わう村民の向こう側に、根こそぎ破壊し尽くす原発事故の哀しい現実が見えた。
【キノコ汁に、ふろふき大根】
「美味しいね」、「お腹いっぱい」─。
小春日和の仮設住宅に、飯舘村民の笑い声が響いた。
東北本線・松川駅からほど近い松川第一仮設住宅(福島市)。「あら、しばらくね!」。原発事故でバラバラになってしまった村民にとって、離れてしまった仲間と出会える機会は少なくなった。久々の再会に会話の花が咲く一方、来春の避難指示解除予定を控えて「福島に家を建てたんだ」、「村に戻ろうかと思ったけど雨漏りが酷くてあきらめた」など、今後の身の振り方に関する話題も増えた。その様子を撮影していた男性は「今朝はどんより暗くて心配したけど晴れて良かった」と空を見上げた。
集会所前の広場に集まった村民に、キノコ汁やふろふき大根、焼きおにぎりが振る舞われた。心地いい味噌の香りが強く吹く風に乗って村民を包み込む。ふろふき大根や焼きおにぎりには柚子味噌が添えられた。役場職員を退職後、農業に従事している菅野哲さん(68)が福島市内の畑で栽培した大根を提供した。
本来であれば、村で盛大に開かれるはずの収穫祭。原発事故が起きるまでは、村内に7つあった直売所の連絡協議会や村役場、農協(JA)などが共催して餅つきやソフトボール大会、綱引き大会などで盛り上がった。広い村内は巡回バスでつながれた。地産地消、自給自足、協働で成り立っていた村。村民の1人は「なつかしいね」とキノコ汁を笑顔で味わった。村に降り注いだ放射性物質は、晩秋の収穫祭をも郷愁の彼方に追いやったのだ。
料理と会話を楽しんだ村民たちは、味噌の余韻に浸りながら仮設住宅などに帰って行った。「持って行かねえと、ばあさまに怒られるんだ」と焼きおにぎりを〝手土産〟に持ち帰る男性も。収穫祭は笑顔で始まり笑顔で幕を閉じた。しかし、笑顔の裏にある村民たちの怒りや哀しみを忘れてはならない。



「新・さすのみそ」を使ったキノコ汁やふろふき大根、焼きおにぎりが振る舞われた収穫祭=福島市
【「村での味噌づくり奪われた」】
映画「飯舘村の母ちゃんたち 土とともに」(古居みずえ監督)の〝主演女優〟でもある菅野栄子さん(81)=佐須行政区=は、幼い頃から母の味噌づくりを見て育った。「村では昔から味噌づくりの伝統があってね。各家庭に熟成菌があったもんだ。味噌玉を軒下につるしておいて、カビが生えたら『味噌合わせ』と言って大豆と塩と混ぜるの。熟成菌の配合によって味が家庭ごとに微妙に違うんだよ。味噌は生き物さ。うちは少ししょっぱかったかな。真夏に、スティック状に切った大根や人参に味噌をつけて食べると美味しかったんだ」。やがて加工グループを結成し、行政区名から「さすのみそ」として売り出した。村のイベントはもちろん、県外でのイベントにも積極的に参加した。「地域づくり、村おこしに貢献したんだよ」と笑顔で語る。
ところが…。
原発事故で村は激しく汚染された。政府の避難指示が出され、菅野さんも福島県伊達市内の仮設住宅での暮らしを余儀なくされた。土壁で出来た熟成室での味噌づくりも中断。存続の危機に瀕した。そこに手を差し伸べたのが、後に「飯舘村『味噌の里親』プロジェクト」の代表となる増田レアさんだった。「味噌が食べられなくなるんじゃないかって電話を寄越して来てね。それが始まり」と菅野さん。「さすのみそ」の遺伝子を継承しようと、2010年に仕込んだ50kgの種味噌を増田さんら東京や埼玉、神奈川など関東の〝里親〟に託した。菅野さんにとっては、わが子と同様に大切にしてきた種味噌。そうして絶えることなく受け継がれた味噌は2015年春、玄米麹を使用した「新・さすのみそ」として復活した。
「原発事故は、何でも根こそぎ壊しちゃうんだ。あれがなければ、どんな形にせよ村で仲間と一緒に味噌づくりを続けられたのに…」と菅野さんはため息をつく。「やわらかい孫の手を引いても〝孫見せ興行〟も出来なくなった。1人で暗闇に放り出されたようなもんだよ」。
来春、予定通りに避難指示が解除されたら佐須の自宅に戻るつもりだ。「自分で食べる分くらいの味噌は作り続けたい」。この日もトレードマークとなった愛らしい笑顔を振りまいたが「笑ってねっか生きられねえ。好きでギャーギャー言って笑っているわけではねえんだ。死ぬわけにはいかないから」とも。村と味噌を愛したおばあ。「原子力なんて人の手に負えるものではねえよ。でも、経済優先の人は命なんてどうでも良いんだろうなあ」と怒る。ここにも、原発事故に翻弄され続ける人がいる。



存続の危機を脱し生まれ変わった「さすのみそ」。柚子が加えられ、さらに心地いい香りが広がった
【「みんな壊れてしまった」】
大根を提供した菅野哲さんも「原発事故がもたらしたものは健康被害だけではないんだ。地域文化、食文化、生活文化がみんな壊れてしまった」と怒りを口にした。「仮設住宅は狭いし、特に高齢者にとっては確かにつらい。でもね、実はこのまま仮設住宅に住み続けたいという人が多いんだよ。もちろん、誰だって村に帰りたいさ。昔の村に戻るのならね。でも、全村避難でバラバラになり、5年間でようやく築き上げたコミュニティが帰村で再びバラバラにされてしまうんだ。ここに居れば仲間とのコミュニケーションは保たれるからね」。生まれ変わった「新・さすのみそ」は、バラバラになってしまう村民の心をつなぐ役割も果たす。
村に戻る人、村外に既に家を建てた人。原発事故は、村民に望まない選択を強いる。「来年3月で村に帰れって言ったって、自宅の周囲にはまだ3μSv/hを超える個所もある。そんな状態ではとても戻れない。情では無く、線量で考えないと」と表情を曇らせる村民もいる。70代の男性は、キノコ汁を味わいながら「放っておくと荒れてしまうから年に3、4回は草刈りをしているけれど、田んぼは無理だなあ。村に帰るのは三分の一ぐらいじゃないかな」と話した。菅野栄子さんも「戻ると決めている人が三分の一、帰らない人が三分の一、決めかねている人が三分の一ってところかな」と寂しそうに語る。
後片付けが済んだ広場には、まだ味噌の香りが漂っている気がした。「あの頃の村」が少しだけ復活した収穫祭。原発事故後、6度目の冬が間もなく仮設住宅にもやって来る。
(了)
【キノコ汁に、ふろふき大根】
「美味しいね」、「お腹いっぱい」─。
小春日和の仮設住宅に、飯舘村民の笑い声が響いた。
東北本線・松川駅からほど近い松川第一仮設住宅(福島市)。「あら、しばらくね!」。原発事故でバラバラになってしまった村民にとって、離れてしまった仲間と出会える機会は少なくなった。久々の再会に会話の花が咲く一方、来春の避難指示解除予定を控えて「福島に家を建てたんだ」、「村に戻ろうかと思ったけど雨漏りが酷くてあきらめた」など、今後の身の振り方に関する話題も増えた。その様子を撮影していた男性は「今朝はどんより暗くて心配したけど晴れて良かった」と空を見上げた。
集会所前の広場に集まった村民に、キノコ汁やふろふき大根、焼きおにぎりが振る舞われた。心地いい味噌の香りが強く吹く風に乗って村民を包み込む。ふろふき大根や焼きおにぎりには柚子味噌が添えられた。役場職員を退職後、農業に従事している菅野哲さん(68)が福島市内の畑で栽培した大根を提供した。
本来であれば、村で盛大に開かれるはずの収穫祭。原発事故が起きるまでは、村内に7つあった直売所の連絡協議会や村役場、農協(JA)などが共催して餅つきやソフトボール大会、綱引き大会などで盛り上がった。広い村内は巡回バスでつながれた。地産地消、自給自足、協働で成り立っていた村。村民の1人は「なつかしいね」とキノコ汁を笑顔で味わった。村に降り注いだ放射性物質は、晩秋の収穫祭をも郷愁の彼方に追いやったのだ。
料理と会話を楽しんだ村民たちは、味噌の余韻に浸りながら仮設住宅などに帰って行った。「持って行かねえと、ばあさまに怒られるんだ」と焼きおにぎりを〝手土産〟に持ち帰る男性も。収穫祭は笑顔で始まり笑顔で幕を閉じた。しかし、笑顔の裏にある村民たちの怒りや哀しみを忘れてはならない。



「新・さすのみそ」を使ったキノコ汁やふろふき大根、焼きおにぎりが振る舞われた収穫祭=福島市
【「村での味噌づくり奪われた」】
映画「飯舘村の母ちゃんたち 土とともに」(古居みずえ監督)の〝主演女優〟でもある菅野栄子さん(81)=佐須行政区=は、幼い頃から母の味噌づくりを見て育った。「村では昔から味噌づくりの伝統があってね。各家庭に熟成菌があったもんだ。味噌玉を軒下につるしておいて、カビが生えたら『味噌合わせ』と言って大豆と塩と混ぜるの。熟成菌の配合によって味が家庭ごとに微妙に違うんだよ。味噌は生き物さ。うちは少ししょっぱかったかな。真夏に、スティック状に切った大根や人参に味噌をつけて食べると美味しかったんだ」。やがて加工グループを結成し、行政区名から「さすのみそ」として売り出した。村のイベントはもちろん、県外でのイベントにも積極的に参加した。「地域づくり、村おこしに貢献したんだよ」と笑顔で語る。
ところが…。
原発事故で村は激しく汚染された。政府の避難指示が出され、菅野さんも福島県伊達市内の仮設住宅での暮らしを余儀なくされた。土壁で出来た熟成室での味噌づくりも中断。存続の危機に瀕した。そこに手を差し伸べたのが、後に「飯舘村『味噌の里親』プロジェクト」の代表となる増田レアさんだった。「味噌が食べられなくなるんじゃないかって電話を寄越して来てね。それが始まり」と菅野さん。「さすのみそ」の遺伝子を継承しようと、2010年に仕込んだ50kgの種味噌を増田さんら東京や埼玉、神奈川など関東の〝里親〟に託した。菅野さんにとっては、わが子と同様に大切にしてきた種味噌。そうして絶えることなく受け継がれた味噌は2015年春、玄米麹を使用した「新・さすのみそ」として復活した。
「原発事故は、何でも根こそぎ壊しちゃうんだ。あれがなければ、どんな形にせよ村で仲間と一緒に味噌づくりを続けられたのに…」と菅野さんはため息をつく。「やわらかい孫の手を引いても〝孫見せ興行〟も出来なくなった。1人で暗闇に放り出されたようなもんだよ」。
来春、予定通りに避難指示が解除されたら佐須の自宅に戻るつもりだ。「自分で食べる分くらいの味噌は作り続けたい」。この日もトレードマークとなった愛らしい笑顔を振りまいたが「笑ってねっか生きられねえ。好きでギャーギャー言って笑っているわけではねえんだ。死ぬわけにはいかないから」とも。村と味噌を愛したおばあ。「原子力なんて人の手に負えるものではねえよ。でも、経済優先の人は命なんてどうでも良いんだろうなあ」と怒る。ここにも、原発事故に翻弄され続ける人がいる。



存続の危機を脱し生まれ変わった「さすのみそ」。柚子が加えられ、さらに心地いい香りが広がった
【「みんな壊れてしまった」】
大根を提供した菅野哲さんも「原発事故がもたらしたものは健康被害だけではないんだ。地域文化、食文化、生活文化がみんな壊れてしまった」と怒りを口にした。「仮設住宅は狭いし、特に高齢者にとっては確かにつらい。でもね、実はこのまま仮設住宅に住み続けたいという人が多いんだよ。もちろん、誰だって村に帰りたいさ。昔の村に戻るのならね。でも、全村避難でバラバラになり、5年間でようやく築き上げたコミュニティが帰村で再びバラバラにされてしまうんだ。ここに居れば仲間とのコミュニケーションは保たれるからね」。生まれ変わった「新・さすのみそ」は、バラバラになってしまう村民の心をつなぐ役割も果たす。
村に戻る人、村外に既に家を建てた人。原発事故は、村民に望まない選択を強いる。「来年3月で村に帰れって言ったって、自宅の周囲にはまだ3μSv/hを超える個所もある。そんな状態ではとても戻れない。情では無く、線量で考えないと」と表情を曇らせる村民もいる。70代の男性は、キノコ汁を味わいながら「放っておくと荒れてしまうから年に3、4回は草刈りをしているけれど、田んぼは無理だなあ。村に帰るのは三分の一ぐらいじゃないかな」と話した。菅野栄子さんも「戻ると決めている人が三分の一、帰らない人が三分の一、決めかねている人が三分の一ってところかな」と寂しそうに語る。
後片付けが済んだ広場には、まだ味噌の香りが漂っている気がした。「あの頃の村」が少しだけ復活した収穫祭。原発事故後、6度目の冬が間もなく仮設住宅にもやって来る。
(了)
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