【津波警報と原発】今後も続く「不安」と「結果オーライ」。母親が抱いた後悔と葛藤。「ここで暮らし続けて良いのか…。でも移住は難しい」~福島県沖でМ7.4
- 2016/11/23
- 07:05
22日朝の福島を、マグニチュード7.4の大きな揺れが襲った。白河市や須賀川市、いわき市、浪江町、南相馬市などで震度5弱を観測。そして「津波警報」の発令。浜通りの人々は原発からの放射性物質再飛散を懸念しながら、家族とともに高台に逃げた。やや落ち着きを取り戻した午後の浜通りを、国道6号線沿いに取材した。そこには、繰り返す「結果オーライ」への不安とかなわぬ移住への葛藤があった。それでもなお、原発に依存した生活を続けるのか。私たちはいつまで「結果オーライ」を繰り返すのか。
【「常にガソリンは満タン」】
福島県いわき市久之浜町の「波立薬師」(はったちやくし)。参拝を終えた男性(87)が弁天島の鳥居を眺めながら、津波避難の緊迫した様子を語った。
「〝あの時〟のように家具が倒れたりするような事は無かったけど、ハンパ無い揺れだったよ。すぐに自家用車で『いわき海浜自然の家』に逃げたんだ。普段から常にガソリンは満タン。非常用持ち出し袋も用意してあるんだ。車も出しやすい向きに停めてある。5年前の教訓だな。この歳だし、運転免許を返上しようかとも考えるけど、うちの(妻)があんまり身体が丈夫じゃないから、やっぱり逃げる時のために必要だ。普段は運転しないけどね」
5年前、未曽有の津波は国道6号線を軽々と越えて波立薬師の周辺にまで達した。弁天島の鳥居も流された。島に続く橋は今も壊れたままで立ち入りが禁じられている。食堂の女性が歩道橋の上で助けを求めていた光景は、今でもはっきりと覚えている。だからこそ、テレビでアナウンサーが呼びかけるまでもなく、行政の防災無線を待つこともなく、迷わず男性は妻を車に乗せた。そして、頭をよぎったのは当然、廃炉作業中の福島第一原発だった。津波は高台に逃げれば被害を防げる。しかし、大量の放射性物質が飛散すれば、とにかく遠くに逃げるしかない。
「原発に何も無くて本当に良かったよ。もし、排気塔が倒れたりして、その時に北風が吹いていたら、また放射能に汚染されちまう。いわきに生まれ育って2回もこんな想いをするとはなあ…」
男性は、午前10時過ぎには自宅に戻った。波立海岸では防潮堤の建設が進む。しかし、放射性物質を浴びないための屋根など造れるはずもない。今後も続く「結果オーライ」。男性が妻を車に乗せていた頃、別の母親は、さらに複雑な想いを抱きながらわが子と避難していた。



(上)福島県の浜通り、国道6号に掲示された「津波警報」
(中)いわき市の「道の駅よつくら港」では、フードコートが臨時休業となった=いわき市四倉町
(下)「3.11」で津波が到達した辺りを指し示す男性。今回はすぐに妻と車で高台に逃げたという=いわき市久之浜町の「波立薬師」
【無くならぬ原発への不安】
いわき市南部に住む母親(44)は「もしかしたら避難が長引くかもしれない」と考えながら、小学5年生になる娘を着替えさせて車に乗せた。近所では、慌ただしく車のドアを閉める音がバタンバタンと響いていた。〝あの時〟以来、自家用車には普段からミネラルウォーターやトイレットペーパーなどを積んでいる。食べ物を少し持って、娘の通う小学校へ向かった。
「道路は思いの外、混んでいましたね。決してスムーズでは無かったです。あれでは、原発から放射性物質が飛散するような事態がまた起こったとしても、現実には避難なんて難しいですよね」
ようやく校庭に到着した時には、既に150台から200台ほどの車が並んでいた。教師も急きょ、駆け付け、備蓄してあるパンや水、毛布を配った。母親は携帯電話を充電しながら、テレビとインターネットで情報を集めた。比較的、暖かかったことは幸いだった。ほどなくして休校が決まった。しかし、経営している店舗を開けないわけにはいかない。午前8時を待たずにいったん、自宅に戻り、開店準備を始めた。娘は「今日はママと一緒に居ても良い?」とそばを離れなかった。「3.11」当時、幼稚園児だった娘は、いまだに大津波の映像を見る事が出来ない。
忙しく店を切り盛りしながら、母親は後悔にも似た想いを抱いていた。
「本当に、いわきに暮らし続けて良いのだろうか。子どものためには他の地域に移住した方が良かったんじゃないかって考えてしまいました。ここで暮らしている限り、日々の被曝リスクに加えて、原発事故がもう一度起きやしないかと常に心配しなければいけません。それで良いのかと悩みます」
これまでも避難や移住を考えなかったわけでは無い。しかし、年老いた両親を残して移り住む事は出来ない。仕事はどうするのか…。葛藤は止まない。そして、こうも思う。
「福島県外の友人たちが心配して連絡をくれました。もちろん、ありがたいのだけれど、あなたたちも他人事じゃないのよとも思います。これは私たちだけの問題じゃ無い。もう一度、原発に何かあったら、関東だって大変な事になるかもしれないのですから」
〝地震大国〟のこの国で、それでも国や電力会社は原発政策を放棄しない。いつまで「結果オーライ」を続けるのか。



(上)福島第一原発まで約1.5kmの地点に設けられた検問所。右奥に見えるのが排気塔=大熊町夫沢
(中)手元の線量計は7μSv/hを超えた。原発事故はいまだ終わっていないのだ
(下)少しもありがたくない存在の原発。大きな揺れのたびに原発の無事を祈る異常事態が続いている
【それでも原発再稼働?】
「道の駅よつくら港」は、津波警報の発令や避難指示を受けてフードコートの営業を取りやめた。物販コーナーも午後からようやく営業出来た。飲食店の多くが臨時休業したり、開店時刻を遅らせたりと対応に追われた。店員らは「大きな被害が出なくて本当に良かった」と異口同音に語ったが、もし放射性物質が飛散していたら、ホッと胸をなで下ろすどころでは無かったのだ。
安倍晋三首相が「アンダーコントロール」と繰り返す福島第一原発。だが、大きな揺れが来るたびに私たちは5年8カ月前を思い出し、放射性物質の再飛散を懸念しなければならないのが現実。かつて、双葉町の大沼勇治少年が考案した標語のように、原発は本当に「明るい未来のエネルギー」なのか。これを機に真剣に考え直す必要がある。
福島県大熊町夫沢に設置されたバリケードは、福島第一原発まで約1.5km。朝の揺れや津波警報など無かったかのように関係車両がひっきりなしに出入りする。車は「ようこそ福島第一原子力発電所へ」という看板で迎えられ、帰る際には「ありがとうございました。今日の出会いに感謝します」の文字に見送られる。手元の線量計は7μSv/hを超えていた。
マスク姿の警備員は「ちょうど出勤する途中でした。脱輪したんじゃないかと思えるような揺れでハンドルを取られましたね。ここに着いたら重いフレコンバッグの位置がずれていましたよ。本当に新たな事故につながらなくて良かったです」と語った。
福島第二原発(富岡町)の入り口では、三重県警から派遣された警察官がマスクもせずに警備にあたっていた。手元の線量計は0.3μSv/h。「まあ、この辺りの放射線量は心配するほどではありませんから」と警察官。彼らが再び厳重な防護を必要とするような事態が起きない事を心から願いたい。そして、いつまでも「結果オーライ」を続けている事を見直すきっかけにしたい。
明日は我が身。福島県民の懸念は他人事では無い。
(了)
【「常にガソリンは満タン」】
福島県いわき市久之浜町の「波立薬師」(はったちやくし)。参拝を終えた男性(87)が弁天島の鳥居を眺めながら、津波避難の緊迫した様子を語った。
「〝あの時〟のように家具が倒れたりするような事は無かったけど、ハンパ無い揺れだったよ。すぐに自家用車で『いわき海浜自然の家』に逃げたんだ。普段から常にガソリンは満タン。非常用持ち出し袋も用意してあるんだ。車も出しやすい向きに停めてある。5年前の教訓だな。この歳だし、運転免許を返上しようかとも考えるけど、うちの(妻)があんまり身体が丈夫じゃないから、やっぱり逃げる時のために必要だ。普段は運転しないけどね」
5年前、未曽有の津波は国道6号線を軽々と越えて波立薬師の周辺にまで達した。弁天島の鳥居も流された。島に続く橋は今も壊れたままで立ち入りが禁じられている。食堂の女性が歩道橋の上で助けを求めていた光景は、今でもはっきりと覚えている。だからこそ、テレビでアナウンサーが呼びかけるまでもなく、行政の防災無線を待つこともなく、迷わず男性は妻を車に乗せた。そして、頭をよぎったのは当然、廃炉作業中の福島第一原発だった。津波は高台に逃げれば被害を防げる。しかし、大量の放射性物質が飛散すれば、とにかく遠くに逃げるしかない。
「原発に何も無くて本当に良かったよ。もし、排気塔が倒れたりして、その時に北風が吹いていたら、また放射能に汚染されちまう。いわきに生まれ育って2回もこんな想いをするとはなあ…」
男性は、午前10時過ぎには自宅に戻った。波立海岸では防潮堤の建設が進む。しかし、放射性物質を浴びないための屋根など造れるはずもない。今後も続く「結果オーライ」。男性が妻を車に乗せていた頃、別の母親は、さらに複雑な想いを抱きながらわが子と避難していた。



(上)福島県の浜通り、国道6号に掲示された「津波警報」
(中)いわき市の「道の駅よつくら港」では、フードコートが臨時休業となった=いわき市四倉町
(下)「3.11」で津波が到達した辺りを指し示す男性。今回はすぐに妻と車で高台に逃げたという=いわき市久之浜町の「波立薬師」
【無くならぬ原発への不安】
いわき市南部に住む母親(44)は「もしかしたら避難が長引くかもしれない」と考えながら、小学5年生になる娘を着替えさせて車に乗せた。近所では、慌ただしく車のドアを閉める音がバタンバタンと響いていた。〝あの時〟以来、自家用車には普段からミネラルウォーターやトイレットペーパーなどを積んでいる。食べ物を少し持って、娘の通う小学校へ向かった。
「道路は思いの外、混んでいましたね。決してスムーズでは無かったです。あれでは、原発から放射性物質が飛散するような事態がまた起こったとしても、現実には避難なんて難しいですよね」
ようやく校庭に到着した時には、既に150台から200台ほどの車が並んでいた。教師も急きょ、駆け付け、備蓄してあるパンや水、毛布を配った。母親は携帯電話を充電しながら、テレビとインターネットで情報を集めた。比較的、暖かかったことは幸いだった。ほどなくして休校が決まった。しかし、経営している店舗を開けないわけにはいかない。午前8時を待たずにいったん、自宅に戻り、開店準備を始めた。娘は「今日はママと一緒に居ても良い?」とそばを離れなかった。「3.11」当時、幼稚園児だった娘は、いまだに大津波の映像を見る事が出来ない。
忙しく店を切り盛りしながら、母親は後悔にも似た想いを抱いていた。
「本当に、いわきに暮らし続けて良いのだろうか。子どものためには他の地域に移住した方が良かったんじゃないかって考えてしまいました。ここで暮らしている限り、日々の被曝リスクに加えて、原発事故がもう一度起きやしないかと常に心配しなければいけません。それで良いのかと悩みます」
これまでも避難や移住を考えなかったわけでは無い。しかし、年老いた両親を残して移り住む事は出来ない。仕事はどうするのか…。葛藤は止まない。そして、こうも思う。
「福島県外の友人たちが心配して連絡をくれました。もちろん、ありがたいのだけれど、あなたたちも他人事じゃないのよとも思います。これは私たちだけの問題じゃ無い。もう一度、原発に何かあったら、関東だって大変な事になるかもしれないのですから」
〝地震大国〟のこの国で、それでも国や電力会社は原発政策を放棄しない。いつまで「結果オーライ」を続けるのか。



(上)福島第一原発まで約1.5kmの地点に設けられた検問所。右奥に見えるのが排気塔=大熊町夫沢
(中)手元の線量計は7μSv/hを超えた。原発事故はいまだ終わっていないのだ
(下)少しもありがたくない存在の原発。大きな揺れのたびに原発の無事を祈る異常事態が続いている
【それでも原発再稼働?】
「道の駅よつくら港」は、津波警報の発令や避難指示を受けてフードコートの営業を取りやめた。物販コーナーも午後からようやく営業出来た。飲食店の多くが臨時休業したり、開店時刻を遅らせたりと対応に追われた。店員らは「大きな被害が出なくて本当に良かった」と異口同音に語ったが、もし放射性物質が飛散していたら、ホッと胸をなで下ろすどころでは無かったのだ。
安倍晋三首相が「アンダーコントロール」と繰り返す福島第一原発。だが、大きな揺れが来るたびに私たちは5年8カ月前を思い出し、放射性物質の再飛散を懸念しなければならないのが現実。かつて、双葉町の大沼勇治少年が考案した標語のように、原発は本当に「明るい未来のエネルギー」なのか。これを機に真剣に考え直す必要がある。
福島県大熊町夫沢に設置されたバリケードは、福島第一原発まで約1.5km。朝の揺れや津波警報など無かったかのように関係車両がひっきりなしに出入りする。車は「ようこそ福島第一原子力発電所へ」という看板で迎えられ、帰る際には「ありがとうございました。今日の出会いに感謝します」の文字に見送られる。手元の線量計は7μSv/hを超えていた。
マスク姿の警備員は「ちょうど出勤する途中でした。脱輪したんじゃないかと思えるような揺れでハンドルを取られましたね。ここに着いたら重いフレコンバッグの位置がずれていましたよ。本当に新たな事故につながらなくて良かったです」と語った。
福島第二原発(富岡町)の入り口では、三重県警から派遣された警察官がマスクもせずに警備にあたっていた。手元の線量計は0.3μSv/h。「まあ、この辺りの放射線量は心配するほどではありませんから」と警察官。彼らが再び厳重な防護を必要とするような事態が起きない事を心から願いたい。そして、いつまでも「結果オーライ」を続けている事を見直すきっかけにしたい。
明日は我が身。福島県民の懸念は他人事では無い。
(了)
スポンサーサイト
【続・原発事故と〝いじめ〟】横浜の両親が会見。〝自主避難〟に対する誤解への悔しさにじませる。加害児童には「将来ある子ども。叩かないで」と配慮も ホーム
【68カ月目の浪江町はいま】「自宅を新築してはいけませんか?」。賠償金への無理解、心無い暴言に浪江町民から怒りと悔しさ~復興なみえ町十日市祭